「飽きずに励んでいれば…」10/3 隅野徹牧師

  10月3日 聖霊降臨節第20主日礼拝・敬老祝福礼拝・聖餐式
「飽きずに励んでいれば…」

隅野徹牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙6:1~10


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

少し時期はズレましたが、昨年はできなかった敬老祝福礼拝を本日執り行います。聖書箇所は、続けて読んでいるヨハネによる福音書から離れて、使徒パウロが書いた手紙の箇所を選ばせていただきました。 祈ったうえで示されたのが、先ほど司式者にお読みいただいた「ガラテヤの信徒への手紙6章」でした。

題は「飽きずに励んでいれば」とつけましたが、敬老祝福礼拝ということで題とは違う「テーマ」を考えました。 それは「みんなで重荷を担いあおう」ということです。

高齢化社会とよばれてもう久しいですが、教会にも確実にその波は来ています。一昔前は、若い人がご年配を支えていたと思いますが、今やそれでは教会は成り立たなくっていると感じます。若い人がご年配を支える努力を続けることは当然ですが、ご年配の方が同じくご年配の方を「共に励まし、支えあう」そんな時代に入っていると感じます。

健康の課題を抱えておられる方があります。老老介護をしておられる方があります。心の面で大きな重荷を抱えておられる方があります。そういう方々が、神にあって「もっと支えあえるような教会になる」必要を私は感じています。

最初に申し上げますが、「遠慮しないで、もっと私に重荷を負わせてください!」この教会は謙遜なご年配が多いですが、もっと「主にあって共に生きる」ことを考えましょう。今回の箇所にはそのことが力強く教えられています。

人に迷惑がかかるから…とかそういうことではなく、主にあって重荷を負いあう、支えあうことは全体の益になります。支えあうことに励み続けるなら…みんなで実りを刈り取るという恵みが語られているのです。 共にみ言葉を味わいましょう。

まず1節を読んでみます。

 ここで言われていることは「正義感をもって間違いを正しなさい」ということではありません。「だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」の元の言葉は「乗っ取られる」という言葉だそうです。何に乗っ取られるのかというと、それは直前の箇所の流れから「悪魔に乗っ取られる」ことを指しています。

「今、霊に導かれて生きているあなたがた」も、「後で悪魔に取られる危険性がある」だから1節後半で「あなた自身も誘惑されないように、自分に気を付けなさい」と教えられているのです。

 私たちは、誤った行動をしている人を見て「自分なら、あんな過ちはしない」と思い込み、上から目線で非難することが多いのではないでしょうか。そういう思いでいるとき「過ちを正そうとしても」単なる攻撃、批判で終わってしまい、結局は悪魔・サタンの思う壺…ということが多いのではないでしょうか。

大切なのは「自分も同じ過ちを犯すかもしれない」という謙虚さ、「優しく諭そう」とする寛容さです。

つづいて2節を読みましょう

 ここでは今回のキーワードである「重荷を担う」ことが最初に出てまいります。2節で言われているのは、教会の仲間同士が「互いの重荷を担い合う」こと、それが「キリストの律法、つまり聖書全体の神からの教えを全うすることになる」と教えられています。

これはイエス・キリストご自身がマタイ22章34~40節で教えられた「最も重要な掟は、あなたの神である主を愛すことと、隣人を自分のように愛することであり、律法全体はこの二つの掟に基づいている」と一致しています。人はお互いの労苦を担い合う時、相手と一体となることができるのです。そのことによって、人は相手を自分自身のように愛し、隣人愛を命じる「キリストの律法」を十分に果たすことになるのです。

コロナ禍の今、「重荷を担いあうことでの隣人愛」が特に求められているのではないでしょうか。人と人が接触できず、分断されている今です。直接病院や施設にいってお見舞いなどもできなくなりました。しかし!いままでの常識をいったん横に置き、よく祈り、よく考えて「相手のために重荷を担うために何ができるか、神は何をお喜びになるか」を求めてまいりましょう。

つづいて3節、4節、5節です。 (※読んでみます)

 ここも意味は分かりにくいですが、著者のパウロは「人間が、自分自身を偉大な何者だと思うならそれは高慢だ!」と言いたいのです。自分を「一人で生きていける偉大な者」だと勘違いしたとき、外見を取り繕うことは出来ても、本当の意味で他の人の重荷は負えなくなります。

4節の最後にでる「他人には誇らず、自分だけで誇る」とは、決して「自己満足する」とか「自画自賛する」ということではありません。そうではなくて、自分の内側で働いてくださる聖霊を送って下さった神を誇り、神に感謝することなのです。そのことによって本当の意味で謙遜さを持つことができ、互いに重荷を担い合うことができるのだということを覚えてまいりましょう。

パウロが手紙を送ったガラテヤの信徒たちの中には「自分は偉大だ」と思い込んでいる人がいました。その人達は意見の違う人たちを批難し、あたかも「一人で生きていける」かのような高慢な態度を取っていたと考えられます。しかしパウロは言います。大切なのは「自分も同じ過ちを犯すかもしれないという謙虚さだ。もし自分で良い行いが出来ていると感じても、それを他人に対して誇ってはいけないのだ!」

私達はそれぞれ違いをもち、違った賜物を持って生きています。Ⅰコリント12章にあるとおり、それぞれ違った賜物を「神ご自身」が分け与えておられるのです。2

私たちは「どの賜物が一番素晴らしい」とか比較するのではなく、「聖霊の賜物をもらした神・キリストだけを褒め称え」、私達自身では「お互いの重荷を負い合う、担い合う姿勢」を大切にしましょう。 

最初にもお話しましたが、とくに今の時代の教会はこれまで以上に「助け合い」が必要です。それぞれに違いを与え、そしてお一人ひとりに賜物を与えて下さっている神を見上げて、自分にできることを見つけて支え合ってまいりましょう。

つづいて6節です。 パウロ自身は伝道旅行中「天幕職人」として自らも働いて糧を得ながら伝道していました。ですので、「伝道者が語ることだけに専念するべきだ」と教えたいのではないと思います。ここで大切なことはパウロが「御言葉を教えられる人」と「教える人」と語っているように、「神の御言葉を中心とした支えあい」を考えるということではないでしょうか。

本当に御言葉を大切にし、御言葉を聴くことにするという「真剣な態度」は、うわべだけで人付き合いするのではなく、心から人を愛し、支える思いを生み出すことにつながると信じます。

人間の力だけで他の人を支えようとするのではなく、まずは神の言葉の恵みに満たされましょう。

つづいて7~8節を読みます。ここもお読みいたします。

ここでパウロは人間のなす業について「種蒔きと刈り取り」という譬えを用いています。当たり前のことですが、よい種を蒔けばよい実りを刈り取るし、悪い種を蒔けば悪い実りを刈り取ることになります。また「蒔かなければ刈り取りはない」ですし、「蒔いた以上を刈り取ることもない」ことを表しています。

著者のパウロが手紙を宛てたガラテヤの信徒たちは「蒔くこともせずに刈り取ろう」としていたり、「悪い種を蒔いてよい実を刈り取ろう」とする生活態度だったことをパウロは見抜いていました。だから「神は侮られるような方ではない」と警告し、その上で、行いの目的を「自分の肉のため」か「神の霊である聖霊の導き」か顧みなさいと教えるのです。

その上で「結論的な励まし」を記しているのが9節です。(※ここも読みます)

結論的に何がいいたいかというと「神にあって善を行い続ければ、神から与えられる良い実を刈り取ることになる」ということです。

9節はじめの「たゆまず」という言葉に注目しましょう。「たゆまずに」とは、本来のニュアンスを汲むと「善を行うことで疲れ果ててしまわないように、失望してしまわないように」という意味だそうです。

つまり、善が報われないことで疲れ果ててしまうことや、正しいことを行い続けても現実が善い方向に変わらないことで失望してしまうことを表しています。

これはクリスチャンなら何度も感じたことではないかと思います。「祈りつつ善い業を積み重ね」ても、一向に状況が好転しないとか、「善かれと思って続けていることが実にならない…」 本日祝福を受けられるご年配の方であればあるほど、そう思われた経験は数多いのではないでしょうか。介護などの経験すると、これを感じることが増えることは致し方ないことだと私は理解します。

 しかし、それでも聖書は「飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになる」と教えます。

「時が来て」というのは、それぞれしている善い行いが報われる時が来ます、という意味ではありません。そうではなくこれは「時が来れば」、つまり「ある決定的な意味を持つある時が来たならば、あなたがたは大いなる刈り取りにあずかるのだ」という「希望と約束」の意味なのです。

その「時」とは…神の時です。それは時空を超えたものですので、私達が地上にいる時間だけでなく、天国にいってからの時間もすべて含んだものです。

神に希望をもつなら、地上の時間と、天上の時間は分断されたものではなく、つながるのです。

今日のテーマは「支えあい」「重荷の担い合い」ですが、私たちが神の愛に基づいて兄弟姉妹を支えることは、もちろん天に宝を積むことになるのですが、それだけでなく、今この地上においても必ず大きな実となり、一人ひとりが収穫に与れるのだという約束を見て取れます。

たとえ、この世的なもの見方では「あんなことをして助けても無駄だった」と思われることがあったとしても、神にあって無駄な支えあいは一切ない。目に見えるものを超えて私達の間で豊かな収穫がある!そう私はこのみ言葉から確信しています。

最後に10節を読んでメッセージを閉じます。

9節で教えられた通り、神にあって「重荷を担い合い、支えあったこと」は、天国で報いられるだけでなく、この地上においても無駄になることは一切ないのです。だから私たちは「この地上で限られた時間が与えられている間に」、できるだけ多くの人の「重荷を負うて差し上げる」ことが勧められるのです。

 

私達はいつかこの地上の歩みを終えるときがきます。その時には、肉眼では見えないすべてのことが明らかにされます。その時が来るまでの間、隣人愛に励もうではありませんか。だれかに愛してもらうのを待つ、受け身の姿勢ではなく、「神にあって、自分にできる支え合い」をしてまいりましょう。 その支え合いの中に、やがて行くことのできる「天国」をおぼろげに見ることができます。そして豊かな実りにも与れるはずです。  (沈黙 黙祷)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Download [253.25 KB]