毎月開催の宇部組会(家庭集会)。6/5(木)19時から日本の産業史にその名を残す工場を見下ろすマンションの、眺望抜群のリビングで、「主の祈り」を学んでいます。
テキストは、ウィリアム・ウィリモンとハワーワスの共著、平野克己訳『主の祈り』を使っています。
まず、讃美歌を歌い、主の祈りを共に祈り、本日の箇所に関係のある聖書を朗読します。
ご一緒に学びつつ、神さまを父と呼べるその素晴らしさに、胸が躍りました。主の家族とされている恵み。
それは、血縁や民族や国境、性差などの境が相対化され、真実の家族は、御子において一つとされている豊かさ。
しかも、御子を知らずに、父を知ることは出来ないという順序にガッテン。
さらに、創造主を「父」と呼ぶことによって、この世のすべての父親が絶対的な存在ではなくなり、
「人間の父親すべてを裁く方として立たれる」「神を父とする祈りは、人間の父親達の現実に対する挑戦です。それは、教会を私たちの家族と呼ぶことが、人間の家族にある限界や罪に対する挑戦であるのと同じです」(56頁)
という一節に、個人的には、子育てに悩むひとりの娘の父親として、自らの傲慢さが打ち砕かれるような思いになりました。
そうです。キリスト者にとって、完全なる父は唯一、主の祈りで最初に「我らの父よ」と呼びかける創造主です。
この父のもとに招かれた教会に集まるすべての者が、主の家族であり、決して孤独ではない。仲間がここにいる。
そうしみじみ感じていると、今年度の教会の標語聖句を思い浮かべました。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(詩編133:1)
学びの後、少人数(牧師含めて4名)ということもあり、それぞれの生きてきた人生を振り返り、お互いの事をより知り合いながら、実り豊かな歓談のひとときを過ごしました。