11月7日 降誕前第7主日礼拝・召天者記念礼拝・聖餐式
「天の父なる神と、独り子キリストによって与えられる命」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書5:19~30
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山口信愛教会の主日礼拝では、続けてヨハネによる福音書を読んでいますが、召天者記念礼拝の本日は5章19節~30節がその順番に当たりました。
ちょうどこの箇所は、「召天者記念礼拝で覚えるべき大切なこと」が取り上げられているのです。28節から29節にかけて「墓の中にいる者が、イエス・キリストによって復活し、永遠の命を受ける」ということが語られます。分かりやすく言えば「この地上でイエス・キリストに希望をおいて生き、亡くなった方は、それで終わってしまうのではない。霊的に復活するのだ」ということが教えられます。そして、その永遠の命は、「天の父なる神」と「御子イエス・キリスト」の一体の業によって与えられるのだ…と教えられます。
葬儀や召天者礼拝などで、ご家族の何人かから「キリストにあって、天国での命が与えられることは何となくわかる。しかし、そもそも父なる神と、独り子イエス・キリストの関係がよくわからない。神様とイエス様のどちらに対して祈るのか、礼拝をささげるのかよく分からない…」というお声を聞いたことがあります。
今朝共に味わう聖書箇所は、①「この世でキリストを信じて生きた人には永遠の命の希望がある」、ということともに、②「神と、独り子イエス・キリストの関係はどんなものか」そして③「神と独り子イエス・キリストが、私達をどうなさろうとしているのか」が教えられています。聖書の示す真理に耳を傾けていただくと幸いです。
まず19節から21節を読んでまいりましょう。(※読んでみてください)
ここでイエスがお語りになっているのは、「父である神と、子であるご自分との関係」です。19節には「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」ということが語られています。これは子なる神イエス・キリストが父なる神にどこまでも服従なさるということです。
しかし、イエス・キリストのこの父に対する従順は嫌々服従させられているのとは全く違うのです。次の20節に「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」とあります。父なる神は子であるイエスを愛しておられ、御自分のなさること、つまり「ご計画」をすべて子であるイエスにお示しになっているのです。
父は子に全幅の信頼を置いているのです。その信頼に答えて、子は父に服従して歩み、父のなさる通りにする、父である神と子である主イエスの間にはこのような完全な信頼関係があります。
大事なのは、父である神と御子キリストの関係がすばらしく良好である、ということをただ示すことにはないのです。天の父なる神と、キリストの「信頼・服従」によってなされる共同の業が何のためか…ということです。それは「人間を救いたい」という目的以外の何物でもないのです。この信頼関係の中で、20節後半にあるような「おどろくべき大きな御業」が成し遂げられることが示されるのです。
21節に「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように」とあるように、「父なる神が、十字架につけられて殺される御子イエス・キリストを三日目に復活させる」このことが最も大きな御業なのです。イエスの復活という驚くべき奇跡は、父なる神と子であるキリストの「完全な信頼関係の中で起こったこと」であるのです。
父なる神のみ業を、子であるイエスもそのとおりになさる…それが21節後半の「子も、与えたいと思うものに命を与える」という言葉に表れています。
父なる神が、子である主イエスに全幅の信頼を置いてみ心を示し、御子イエスがそれに応えて「従順に十字架の死への道を歩む」ことによって、御子イエス・キリストの復活が起こるだけでなく、「私たちにも復活と永遠の命を与えて下さる」という神の救いの業が実現するということがここに告げられているのです。
続く22節からは「裁きについて」、つまり「すべての人が終わりの日に受けなければならない、神の審判」について語られます。これも「父なる神と、子であるキリスト」の信頼関係による業だということが教えられます。
注目するのは24,25,26節です。
24節では「神による裁きとは、天の父なる神から遣わされた御子キリストの言葉を聞くことによるのだ」と教えられます。「私たち人間が永遠の命を得るか、それとも死に支配されたままで終わるか」そのどちらかになるのかが「遣わされた御子キリストによって分けられるのだ」と教えられるのです。
罪により、永遠の滅び、死へと向かっている私たちが、神が救い主として遣わして下さった独り子であるイエス・キリストの言葉を聞いて、そのイエスを遣わして下さった父なる神を信じるなら、死から命へと移され、永遠の命を与えられる、そうはっきりと教えられるのです。
このことを、それまで続けて語られてきた「天の父なる神と、御子イエス・キリストの信頼関係」を基に理解することが大切なことなのです。
どういうことかというと、人間が永遠の命を得るか、それとも死の支配の下に留まったままであるか、「その裁きが、父なる神から子であるイエスに任されている」のです。父なる神が「人間の行った行為に従って、そのまま裁かれる」のではなくて、父なる神は「私たちが、御子イエスを信じることによって、永遠の命を得て、死から命へと移ること」あくまでそれを願っておられるのです。だからこそ、大切な御子イエス・キリストをこの世に遣わし、このお方に裁きを委ねられたのです。
このことが25~27節以下に詳しく教えられています。25節で教えられているのは、「イエス・キリストの声を聞いて、イエスを遣わした父なる神を信じるならば、罪の内に死んでいる者が生きるのだ」ということです。26,27節は「死から命へと移される…」神の御子イエスを通して永遠の命が与えられるという救いが、イエスが来られたことによって始まっている…それが父である神のみ心によることであることが語られています。
つづく28節、29節では永遠の命の約束が、将来、終わりの時に実現することが語られています。
「善を行った者は、復活して命を受ける。しかし悪を行ったものは復活して裁きを受ける…」この言葉を聞いて、私たちは怯んでしまうのではないでしょうか。
私は悪い行いを沢山している。逆に善はあまり行えていない…。素直な方なら、そう思うのが普通でしょう。ここの理解の鍵となるのは「28節の話の流れで、全を行うこと、悪を行うこととは何か?」ということです。
ここまでイエス・キリストが神の独り子であられること、天の父なる神が全幅の信頼を寄せて御子イエスを遣わしたこと。そのイエスが信頼にしっかりと応えて、父なる神のみ心を行って「十字架の死と復活による救いを実現する」ことが語られました。
従って、ここで言われている「悪を行った者」とは…父と子の信頼関係を受け止めることなく、イエス・キリストが「独り子なる神であることを否定して、その言葉を聞こうとしない」それが「悪を行うことだ」と示されるのです。その「悪」に留まり続けるなら、終りの日の裁きにおいて永遠の滅びに至ることになるのです。
一方の「善を行う」とは何を指しているのでしょうか?これも話の流れで理解するなら「イエスが神の独り子であり、父なる神のみ心に従って私たちのための救いを実現して下さった方であることを信じること」それが「善を行うこと」なのです。
山口信愛教会が召天者として覚えている方々は皆、イエス・キリストを独り子なる神と信じることにより「復活と永遠の命の約束が自分に与えられていることを確信して」旅立っていかれた方々です。この地上ではそれぞれ苦しいこと、悲しいことがあったことでしょう。しかし希望をもってこの地上での日々を走り抜けられたのです。まさにここでいう「善を行って」今は天にて確かに復活の命に生きていらっしゃるのです。
同じヨハネによる福音書の11章25節と26節、イエスご自身の言葉としてこのような言葉が示されています。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
信愛教会の召天者の方々は、地上に生きておられる間に、神がこの世に送られた独り子イエス・キリスト…別の言い方をすれば「人間が永遠の命を得るか、それとも死の支配の下に留まったままであるかを分けられるお方」を信じ受け入れられたのです。父なる神は「人間一人ひとりが、御子イエスを信じることによって、永遠の命を得て、死から命へと移ることを願っておられるからこそ、大切な御子イエス・キリストをこの世に遣わし、このお方に裁きを委ねられた」と先ほどお話ししましたが、召天者の方々は、救い主であり、裁き主であるお方によって「死から命へ移される」その希望を豊かに抱かれて歩まれたのです。
同じように、今地上で生きている私達も、肉体の死では終わらない「復活の命、永遠の命」を待ち望んで生きることができるのです。その希望を、今日の召天者記念礼拝で感じていただいたら幸いです。(祈り)
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