7月5説教 ・聖霊降臨節第6主日礼拝
「救いをもたらす信仰」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書17:11~19
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今週から再び「続けてルカによる福音書からのメッセージ」を聞くことにします。今17章の10節まできました。今日は11節から19節の部分を味わいます。少し前にこどもメッセージで取り上げた箇所でもありますが、大切なことがたくさん教えられる箇所です。
前半部分は「感染する病気」や「民族間の対立」を越えて人々を愛されるイエスの姿が描かれます。「感染する病気」も「民族間や人種の対立」も最近私たちの間で大きなニュースとなっている事柄ですので、今日の箇所の前半部分は改めて8月第一週の「平和聖日」で詳しく取り上げます。今日は14節から19節から御言葉を味わいたいと願います。
今回のテーマは「感謝すること」「神を賛美すること」です。14節から順にみていきましょう。(14節を読みます)
ここでは病人たちが、治る前から「信じて行動した」ことが読み取れます。
レビ記13章に記された律法の掟によれば、重い皮膚病にかかって、民たちから隔離されていた人が癒された場合、その証明を神に仕える祭司にしてもらわなければならないことになっています。
イエスは、治療行為をされた訳ではありません。ただ「祭司にみせなさい」と言われただけです。14節の前半のこの時点では治っていませんでした。しかし、それでも彼らは「主イエスの言葉を信じて従った」のです。
信じて一歩を踏み出した彼らは、その道中で自分の病気が治ったことを知るのです。「イエスによる癒し」の他の場面でもしばしばみられるのですが、信じて従うその途中に神からの祝福が来たのです。
ここまでは全員が素晴らしい信仰を持っているように読むことができます。
まだ治っていないのに一歩を踏み出すことができたのは、イエスが神の子であり癒し主であると信じたからでしょう。簡単には持てない信仰を彼ら全員がもっていました。
しかし、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのはたった一人、サマリア人だけでした。
残りの時間、題につけたような「救いを齎す信仰とは一体何なのか」学んでいきましょう。
ユダヤ人の病人9人と、サマリア人の病人がはっきり分かれたのが15節、16節の場面です。(15節、16節読んでみます)
サマリア人は、祭司に行く足取りを一旦止め、向きを変えて「イエスに感謝を伝えに戻った」のです。
ただほんの少しお礼を言いに行ったのとは違うのです。15節の後半に「大声で神を賛美しながら」とあります。ここから分かるのは、「感謝が満ち溢れる、しかもそれがずっと続いている」サマリア人の姿です。
そしてもう一つ彼の姿が表れているのが16節最初の「イエスの足元にひれ伏して感謝した」という言葉です。これは「イエスを神として、畏れ敬っている姿勢」の表れです。どんな言葉で感謝を述べたかは書いてありません。しかし!言葉より何より、その姿勢が物語っています。
そんな彼が「病気がただ癒されただけに止まらず、魂も全く癒され、救いを受けた」ことが10節のイエスの宣言から分かります。残りの9人は、病気は癒されましたが、魂は完全に癒されなかった、救われなかったことが分かるのです。
しかし…残りの9人が感謝していなかったかのかというと…そうではないでしょう。イエスに対し、神に対し感謝したと思うのです。イエスのもとに引き返さずに、すぐに祭司のところへ行ったのは、長い間引き裂かれていた家族などとの再会を急いだからでしょう。みなさん、彼らの気持になってみたらその行動はきっと理解でいるでしょう。だれも批難することはできないと思います。
今回、この箇所を黙想していて、私はあることに気づかされました。それは「苦しい体験や出来事にも感謝することの大切さ」です。
重い皮膚病にかかり、人々から隔離される…それは想像を絶する辛さのはずです。きっと、そんな風になってしまったことについて神に恨みを抱くことも多かったのだと思います。これはイエスに癒してもらったからといって全く消え去ることはなかったのではないか…今回私はそのように思わされました。
祭司のところへ行く道を急いだユダヤ人の9人は「失われた時間を取り戻したい」という一心だったことでしょう。「なんで自分がこんな苦しい目に遭わなきゃならなかったのか。苦しかったこのときを早く忘れて、一刻も早く失った時間を取り戻したい」との思いが強いなら、イエスに感謝の思いを表しにいかないのも無理はないのかなと感じました。
この9人が薄情なのではなく、私自身も全く同じだ、と感じさせられたのです。
とくに強烈に思わされたのが、前任地からここ山口に来た時の自分の姿と、この9人が似ていることです。
前任地では教会の方には本当によく支えていただきましたが、それにしても苦しいことが連続して起こりました。体調にも支障をきたすほどにもなりましたが、それでも寝る間もなく仕事をしなければいけない状況でした。「どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのか…」とよくこぼしていました。そして周りの牧師と比較をするということをしてはいけないのに、してしまっていました。「どうして自分だけこんなに苦しまなければいけないのか?神様は不平等だ」などと思ったものです。
その状況で、神に導かれ山口に来たわけですが…正直「新しい日々を始めたい」という思いに比べ、前任地での日々を神に感謝するということは少なかったことを今回改めて示されました。
いまこの教会で歩めているのも、前任地でのいろいろな経験があればこそです。すべてが神の御手の中にあることですから、今恵まれて感謝だと思うことだけでなく、苦しかったことも含め、もっともっと神に感謝をささげる自分になりたいと示されました。
話を聖書に戻します。
癒されたサマリア人も、病そのものが治っても、感染によって失った時間が戻るわけではありません。「なんでこんな病気に感染してしまったのだ」という思いは消せていないと思います。しかし!それでも神を大声で賛美し続け、イエスのもとにひれ伏して心からの感謝を伝えたのです。この一切が神の御手にあることを受け入れ、その上で感謝する態度が、イエスから「救いを齎す信仰」だと認められたのです。
有名な御言葉で家に掛けてあるという人も多いテサロニケの信徒への手紙Ⅰの5章16~18節、私はこの癒されたサマリア人の姿とこの御言葉が重なりました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたに望んでおられることです。」
神が私たちに望んでおられる「いつも神にあって喜ぶこと、神にいつも祈ること」、そして、嬉しいことだけでなく、苦しかったこと、悲しかったことも含めて「どんなことをも神に感謝すること」それは癒されたサマリア人の信仰の姿勢に表れています。
この人がした「神を賛美すること」そして「キリストの前にひざまずいて祈ること」は、自分の命の一切を御手のうちに置いて最善に導かれる「神」への感謝の表れの行動です。私たちが今持っている礼拝でも、まさに祈りがあり賛美があるのですが、その源にあるべきなのは「神への感謝だ」ということを心に留めましょう。
神への感謝は「苦しみが完全に無くならないとできない」のではありません。皆さんそれぞれに苦難、試練、そして思い出したすのが嫌な傷もあることでしょう。試練の意味が分からないものも多いでしょう。
しかし、神は愛の御手のうちにすべてを導いておられます。神に導かれている日々に感謝し、神をほめたたえながら共に歩んでまいりましょう。 (祈り・沈黙)
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