「『王』という罪状」4/3隅野徹牧師

  月3日 受難節第5主日礼拝・聖餐式
「『王』という罪状」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書19:16b~27


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 受難節に入ってから「ヨハネによる福音書」の「十字架につながる場所から」メッセージを聞いています。今回はいよいよ神の独り子イエス・キリストが十字架にかけられる場面です。本当に胸が張り裂けそうになるような内容ですが、目を背けず早速読んでまいりましょう。

 今回の箇所は3つの場面が描かれています。

  • 一つ目は16節から22節です。

ここはイエスが重い十字架を負わされ、ゴルゴダの丘まで歩かされたこと、そして二人の犯罪人と共に十字架にかけられたことが記されています。他の福音書よりもヨハネ福音書は「十字架の上に掲げられる罪状書き」に特別な重要性を見ています。これに対しての説明が詳しくなされます。ここは後程詳しく、読んでまいります。

  • 二つ目は23~24節です。

ここではイエスの着ておられた衣にまつわる出来事が記されています。それをヨハネは「旧約聖書の言葉の成就」として描いています。(この2つの節を読んでみます)

十字架で処刑されるイエスが「有名人だから」、その着ていた服を記念として持ち帰る、しかも上着は4つに切り裂き、下着はくじを引いて分けたというのです。

目の前に十字架刑で苦しんでいるイエスがおられるのに、自分たちは楽しんでこんなことをしている…卑劣極まりない行為で、人間の冷酷さがうかがえる一方、旧約聖書の言葉が必ず成就すること、神の救いの計画は、人間の非道さの中でも変わらずに進んでいくことを表しているのです。

つづいて③つめの場面です。それは25節から27節で、十字架上のイエスと、その様子を見つめる人たちの物語です。 (25~27節を読んでみます)

イエスが逮捕されたとき、男の弟子達はみんな恐れをなして逃げ去ってしまいました。しかし「愛する弟子」と表現されているヨハネ自身は、このとき、十字架の下に来ることができたのです。そのヨハネと、イエスの母マリア、マグダラのマリアをはじめとする婦人たちが十字架の傍にいたのです。 

他の3つの福音書との大きな違いがあります。それは、十字架の上のイエスの最後を見届けようとした人々の「距離の近さ」、そして「見とどけようとしていた人の中に、母マリアがいた」と書かれていることです。

 少し詳しくみていきましょう。26節と27節で、イエスは十字架の上から2つの言葉をかけておられます。一つ目は、母マリアに対して「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」という言葉です。「あなたの子」とは愛弟子ヨハネを指すと思われます。二つ目の言葉は愛弟子ヨハネに対してのものです。「見なさい。あなたの母です。」これは母マリアを指すものです。この後ヨハネは、イエスの母を自分の家に引き取ったと27節に記されています。

 イエスの十字架の苦しみは、母マリアも全身で味わっていたに違いありません。イエスが生まれたばかりの時、宮もうでに行ったときに出会った「シメオン」の言葉通り「剣で胸を刺し貫かれる痛み」がきっとあったでしょう。それに必死に耐えていたであろうマリア…、想像するだけで胸が潰れそうになります。

 そんな母の姿を見て、イエスは十字架上から「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と、その側にいた愛弟子ヨハネを紹介し、ヨハネにもまた「見なさい。あなたの母です」と紹介したのでありました。こうして、ヨハネはイエスの母であるマリアを自分の家に引き取ったと言われています。イエスの十字架のもとで、新しい家族の絆が結ばれたのです。

 ここに教会という場所の「一つの本質」を見る思いがします。

十字架に掛かられたイエス・キリストのもとに集う場所、それが教会です。弱く罪多き私たちがそれでも救われることが表れているのが十字架ですし、この世の日常で孤独や苦しさを抱えた私たちを「それでも無条件に、そして命をささげるほどに愛してくださる」その愛が表れた場所が十字架です。

私たちは皆、罪ゆえの嘆き苦しみ、日々生きていく中で直面する痛みや悲しみをもって「十字架のイエス・キリストのもと」に共に集まり、そこでイエスの愛に触れ、癒され励まされることで、再び1週間の歩みに踏み出す場所が「十字架を掲げるキリスト教会」なのです。

このような私たちの心の中に、「見なさいあなたの母です」とか「見なさいあなたの子です」とイエスはご自分の霊である「聖霊」を通して語りかけられるのだと私は今回、聖書を通して教えられた気がしました。

つまり、私たちは苦しんでいたり、悲しんでいたりする方々の「父となり、母となり、子となり、兄弟姉妹となる」…そのように「キリストの十字架のもとで」多くの方と「慰めに満ちた新しい家族になる」ということを聖書は私たちに対して教えているのではないでしょうか。

先ほど申しましたように、マリアにとっては「悲しみの極み」と言えるような苦しい場面ですが、それでも全知全能の神は、新しい「霊的な家族の絆」を導いて、慰めを与えてくださるのであります。

この世にあって、悲しみや苦しみを感じている方々のうち一人でも多くの方が、キリストの十字架のもとに集う場所である「この教会」にいらして、「神にあっての家族」と出会い、慰め励ましを受けていただきたいと願います。

残りの時間で、一つ目のポイントであり、今日の説教題にもつけさせていただいた「ユダヤ人の王」ということについて見てまいりましょう。

罪状書きにまつわるエピソードが始まるのが19節ですが、ここから22節を読んでみます(※よむ)

ヨハネ福音書は、罪状書きを「ローマの総督ピラト自身が書いた」こと、そして「三つの言語」で、つまり当時、世界の多くの人々が読めるように罪状書きを記したことを強調して書いています。

そこに込められた思いとは…十字架につけられた「ナザレで育たれたあのイエス」が「本当の意味での王」であることは、全世界の人々に告げ知らされるべきだ!という思いなのです。

ユダヤ人の王とは、文字通りの「イスラエル民族の国の王」という意味ではありません。今日はあまり詳しく語れませんが、ユダヤは「神の民」を表す言葉です。イエス・キリスト誕生までは「救いの基として、サンプルとして」用いられてきましたが、新しい時代、ユダヤ人として集められるのは、「アブラハムの血をひく者たち」だけではなくて、世界中の全ての人々です。

新約時代、イエスという王のもとに、新しいユダヤ人、新しい神の民が築かれていくのです。

今こうして礼拝を守っている私たちも、十字架にかかり、その後死に打ち勝って復活されたイエス・キリストという「真の王」に集められた民なのです。

さて…見せしめの極刑である、十字架刑は、傍を通る人々に対して「この人はこんな悪いことをしました。だからこんな酷い目にあっているのです」と知らせる目的で」、罪状書きが記されたのです。

21節の祭司長がそうだったように、ユダヤの宗教指導者たちは「この男はユダヤ人の王と自称した」ことで十字架刑に処せられたのだと、人々に伝えることを願いました。しかし、ピラトは罪状書きを変えませんでした。

 それは、自分を脅して不本意な判決を下させたユダヤ人たちへの腹いせのためだと言われています。「お前たちユダヤ人が望むから王を十字架につけてやったぞ。いいか、これがお前たちユダヤ人の王なんだぞ!世界中の人に見てもらえ!!」という腹黒い思いだったでしょう。そこには、神への畏れも、イエスを神の独り子と信じる信仰も全くありません。しかし!そんなピラトが、イエスによる救いの真理を証しする言葉を書き記したのです。

 ピラトは、自分が書いた罪状書きが、実は深い意味があること、つまりイエスが真の王であることは夢にも思っていませんでした。しかし、ピラトが書いた罪状書きは「十字架につけられたイエスこそ神の民の王であり救い主であること」を告げる言葉として語り継がれるのです。

言葉の頭文字のアルファベットである「I.N.R.I」は十字架上のキリストを描く数々の絵画に記されてきました。山口信愛教会墓地のモニュメントにもこの4文字が彫られています。 受難節の今、とくに「十字架につけられたイエスが、神の子であり、真の王」であることを心の目に焼き付けてあゆみましょう。

今回の箇所から、私たち人間がいかに身勝手か、非情であるのか、そして人々の罪によって神の独り子主イエスがいかに苦しまれたかを見てまいりました。

しかしそれでも!神は、私たちの罪と、その結果生じた「悲惨な現実」をも用いて救いの業を実現して下さるのです。人間が十字架につけた御子イエス・キリストの「死」によって私たち人間の罪を赦し、復活によって新しい命、永遠の命に生かしてくださるのです。

罪が猛威を振るっているように感じる今日この頃ですが、イエス・キリストの十字架による希望を胸に刻んで歩んでまいりましょう。(祈り・沈黙)

 

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