「あなたはわたしと一緒に楽園にいる」7/25 隅野徹牧師

  7月25日説教 ・聖霊降臨節第10主日礼拝・創立130周年記念礼拝
「あなたはわたしと一緒に楽園にいる」

隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書23:32~43

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

  1891年、今から130年、私達の山口信愛教会は誕生しました。1891年の7月26日、ケイト・ハーラン女史によってキリストと出会った青年12人が洗礼を受けたこの日を「創立記念日」として覚え続けています。 そして2021年7月25日の今日、130周年記念礼拝を持てますことを心から感謝します。

 コロナ禍で、予定通りにならないこともありましたが、私たちはこの春から「創立130年を記念して」いろいろな取り組みをしてまいりました。記念誌を復刻したり、過去ここを牧して下さった先生の説教を聞いたり、信徒の方から以前の教会の様子を聞かせていただいたり…本当に神様から与えられた特別な恵みだと感じます。

 私はとくに、過去この教会が発行してきた「野の草」によって、信愛教会の130年の歩みを思いだす恵みにあずかりました。再発見したもので、紹介したいものがたくさんありますが、ひとつだけ!今日の記念礼拝で紹介させていただきます。

 それは1994年、いまから27年前に発行された野の草の第6号での有吉昇一さんの文です。何について書かれた文かというと、キリストに出会ったまもなくの頃の日野原善輔牧師がなさった「お勧め」についてです。記念誌復刻盤にも同じことが出てきますが、今回は味のある有吉昇一さんの文で紹介します。次のような文です。

 日野原さんは、一度ハーラン女史の前座を務められたが、その話の内容は次のとおりである。「渋柿の木が、それを根元から打ち切って「甘いキネリ柿」の小枝を接げば、渋柿の台でも甘柿がなる。クリスチャンとはそれだ。救いの意義とはそれだ。」

 これが日野原さんの最初の演説説教だった。後にハーラン女史の通訳を務められた安達さんから大そうほめられたそうである。彼のキリスト教理解はその後変わることがなかった…」

 皆さん、どのように感じられたでしょうか?シンプルだけども、実に分かりやすくキリストによる「罪からの救い」を表していると思うのです。この罪からの救いを130年間語り継いだのが「山口信愛教会の歴史」といって過言ではありません。

 この日野原善輔さんの「お勧め」を紹介された有吉昇一さんは最後を次のような言葉で締めくくっておられます。

「会員一人ひとりが一つ思いになって、先輩たちの命がけの伝道活動により築かれた賜物を継承して、教会の発展のために前進しようではないか!」

 今朝は、日野原善輔牧師が「渋柿」に譬えた古い自分、つまり罪に満ちた人間でも、キリストにより新たな命を与えられ、救われる…ということが分かりやすく教えられているルカ23章が聖書箇所として示されました。「十字架上で赦された犯罪人」についての箇所です。共に味わいましょう。

司式者による朗読は32節からでしたが、メッセージは39節から43節に絞ってかたらせていただきます。をご覧ください。イエスと一緒に二人の犯罪人が十字架に架けられたことが記されています。

まず39節をご覧ください。二人の犯罪人のうち一人が「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言ったと記されています。

 ご存じの方も多いでしょうが「メシア」とは、ユダヤ人の言葉で「救世主」という意味です。この犯罪人は、イエスに対して、お前は救世主キリストだ、と言ったのです。しかし!それは信仰を込めた告白ではなく、身勝手な自分の都合から出た言葉に過ぎないのです。私たちも自分本位な思いから、イエスは救世主キリストだ、と告白していることがありますが、それは「目に見える救いを求めている時」なのではないでしょうか。

 この犯罪人は、「自分自身と我々を救ってみろ」と罵りました。つまり、救世主ならその力で十字架から降りて、この刑をやめさせてみろ、俺を助けて見せろ、ということです。

 この犯罪人は、自分と向き合うことができず、自分の罪を認めることができませんでした。聖書の記述にはないので、この人が救われた可能性も否定はできませんが、しかし自分と向き合わず、自分を素直に認めない人生は、たとえイエスを「神の子、救い主だ」と頭で理解しても本当の救いは訪れません。

自分にとって不都合な出来事があっても、また苦しみや悲しみの中にあったとしても、そこに見出し得るものが本当の信仰なのです。

一方でもう一人の犯罪人は「確かな信仰を持ち」「確かに救われた」ことを聖書ははっきりと教えます。

残りの時間、確かに救われたもう一人の犯罪人から「救いについての大切なこと」を心に刻みたいと願います。それは冒頭でお話しした「私達の教会がずっと大切にしてきたこと」と重なるのです。

 まず40節と41節を読みます。

 もう一人の犯罪人は、自分が十字架刑に処せられる「土壇場になってはじめて!」自分を見つめ、自分の罪を素直に認めることができたのです。それは、目の前におられた「イエス・キリストの姿から、大切なことを悟った」からで間違いありません。

34節にあるように、侮辱され、痛めつけられてなお「父よ、彼らをお赦しください」と十字架の上で祈られるイエスの姿を彼は真横でみていました。そして、イエスが「父よ!」と呼びかけておられる「全知全能の神の存在」を、目には見えなくとも確かに感じ取ったのでしょう。

自分は今、神の子の前にいる。そしてその神の子が「すべての人間の罪を裁くことのできる父なる神」に対して、罪人たちの赦しを必死に願っている…このことが自分を見つめ直させるきっかけになったのです。

彼は神を恐れました。十字架刑という刑罰を恐れたのではなく、「死んだ後で、地獄で人の魂を滅ぼすことのできる神!」この方を恐れたのです。40節の「お前は神をも恐れないのか」という言葉に、彼は本当に恐れるべき方を知り、認めた様子が現れているのです。本当に恐れるべき方を知ったことで、彼は自分の罪を素直に、まっすぐに認めたのです。

 続いて42節です。大切ですので私が読んでみます。

 彼は、自分の罪がはっきりと分かりました。しかし、十字架の上で瀕死の傷を負っていますから罪を償うことももはやできません。できることなら、人生をやり直したい。そして、一緒に御国に連れて行ってくださいと願いたい。でも彼は「自分にはそんなことを願うことのできる資格も行いもない」ということをよく分かっています。だから、ただ「思い出してください」と主イエスに願ったのです。

(しみじみ)「あんな男がいたなあ、十字架の上でやっと自分を認め、素直になった男がいたなあ‥‥‥ただそれだけでいい。それだけで自分の人生は浮かばれる。彼はそう思ったのでしょう。

 ところが、思いもしなかった言葉が主イエスから掛けられます。それが43節です。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

想像してみてください。彼はどんなに“救い”を感じたでしょうか。慰めを感じたでしょうか。

神に主張できる正しさも、善い行いの積み重ねもない。それはつまり「天国に入れる資格も何もない」ことを認めて、ただイエスにすがる以外にないことを認めたのでした。でもそんな彼にイエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださったのです。

ここに集う私たちは、この犯罪人とは違い「刑罰に課せられるような悪いこと」はしていないかもしれません。しかし!神の前には何も申し開きのできない一罪人ではないでしょうか。神の独り子イエス・キリストが「父よ、あの人を赦してあげて下さい」とお願いしてくださらなければならない者である…それは誰も同じではないでしょうか。

しかし!そういう私たちを、神はその独り子イエス・キリストの執り成しのゆえに、無償で、無条件で赦し、救ってくださるのです。

犯した罪の大小に関係なく、またこの地上で残された時間に関係なく、神は私たちの罪を、ご自分の独り子イエス・キリストのゆえに赦し、天国に受け入れてくださることがこの箇所にはっきりと表されているのです。

日野原善輔牧師が「渋柿」に譬えた古い自分、つまり罪に満ちた人間が、「甘いキネリ柿」の小枝、つまりキリストにより与えられる「愛・赦しの恵み」を接ぐことで、素晴らしい実を結ぶことができるようになる、つまり「新たな命を与えられ、天国にいく、永遠の命をいただく希望が確かに与えられる」のです。

 私達が創立当初から大切にしてきたのが、今日の箇所に確かにみられるような「神の独り子イエス・キリストによる罪の赦し」と「その愛・恵みによって新しい命に生かされる」という希望です。

 この先も、イエス・キリストにある「これらの希望」をしっかりと語り継ぎ、また証しする教会として進んでまいりましょう。 (祈り・沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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