2月28説教 ・受難節第2主日礼拝
「いつものように祈る」
隅野瞳牧師
聖書:ルカによる福音書22:35~46
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本日は、祈りとは何なのか、全存在をかけてキリストがお示しになったことが記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に神の御言葉にあずかりましょう。
1.十字架の時が来ることを覚える。(36節)
2.いつものように祈ることが最大の備えである。(39節)
3.祈りはわたしの願いを、神への服従に変える。(42節)
1.十字架の時が来ることを覚える。(36節)
この出来事によって世界の動きや価値観が大きく変わった、という転換点があります。それは私たち個人にとってもあることで、人の力で左右できない神がお決めになった時というのはこういうものなのだと思わされます。これまで開かなかった扉がすっと開かれる。逆もあります。今がどのような時かを見極める霊的な目をもつことが大切です。主イエスのご生涯、またそれに伴う弟子たちの歩みに、大きな変化が起ころうとしているのが本日の箇所です。
主イエスと弟子たちはエルサレム市街のある家の二階座敷で過越の食事を済ませ、エルサレム郊外のオリーブ山に行かれました。主イエスが十字架にかかられる前夜のことです。主イエスは使徒(弟子)たちに、彼らが伝道に派遣された初めの頃のことを思い出させました(ルカ10:1~20)。ガリラヤ地方で伝道していた時、主イエスの支持者はたくさんいました。二人一組で派遣された弟子たちもまた人々に歓迎されたので、必要最低限の持ち物すらなくても生活できたのです。
ところが今日の箇所になると事情は変わります。これから弟子たちにとって困難な時代が来るゆえに、財布や旅行用の袋を持ち、服を売って剣を買いなさいといわれるのです。この後の47~51節また聖書全体で言われているように、主イエスは実際の剣によって人を傷つけ事をなすことを御心とされませんでした。財布や袋とあわせて剣もまた、この危機的な時を象徴的に表していると考えることができます。救い主についての旧約聖書の預言が実現する時が来たのです。服は夜の寝具を兼ねた生活必需品で、質にとることさえ禁じられていましたから、それを売って剣を買うとは、それほど緊迫した状況となるということです。最初の時に身一つで遣わされた、それはそれで意味がありました。神が必要を満たしてくださるという大原則を肌で経験しました。そして、その原則は基本的には永遠に変わりません。けれども主イエスは次のステップ、時代の厳しさを知る段階に入ったのだと弟子たちに言われるのです。
主がお伝えになりたかったのは必要最低限のものは自分で持てということではなく、主イエスが預言されたとおりに「犯罪人の一人に数えられ」ることです(37節)。それは神の救いの長いご計画の中で決められていた最終段階であり、主イエスに関わることが今すべて完成しようとしているのです。これは、旧約聖書のイザヤ書53章の言葉です。ここには神を信じるある人が出てきますが、彼は罪も偽りもないのに多くの痛みと病を負い、軽蔑され命を取られてしまいます。それは実は多くの人の罪が赦されるための償いの死でした。主イエスはこの預言がご自分について語られていることであり、十字架にかけられて死ぬことこそ、人々に神の救いをもたらすことだと知っておられました。神の時が来たことが弟子たちには分かりませんでしたから、剣が二振りありますと言いましたが、主は弟子たちの無理解も誤解も含めて、「それで十分」と受け止めてくださいました。
主イエスは数時間後に逮捕され、犯罪人たちとともに十字架にかけて殺されます。それは主イエスが罪人たちと同じ者とされ、それによって私たちを救ってくださるためでしたが、主イエスを憎んだ社会はその弟子たちをも憎み、殺そうとします。そのような時代が始まったことを、弟子たちは覚悟しなければなりませんでした。そして今主に従おうとする私たちも、そのようなところを通ることを覚えねばなりません。
2.いつものように祈ることが最大の備えである。(39節)
主イエスと弟子たちはオリーブ山まで祈るためにやってきました。「いつものように」(39節)という言葉は、その時以前にも主イエスがしばしばその場所で祈りの時をもたれたことを示します。いつもの場所に行くなら、イスカリオテのユダはその場所を敵に教えることがたやすくできます。主イエスは捕らわれることを覚悟して赴かれたのです。ルカによる福音書はしばしばイエス・キリストの祈り、父なる神との交わりの姿を描いています。
「いつものように」ということから、信仰生活の二つの面を見ることができます。一つは習慣となっているということ、もう一つは継続して取り組み続けるということです。例えば礼拝に関していうと、私はある面で、礼拝が習慣として無意識のうちにささげられることがあってよいと考えています。私たちはいつでも全神経を研ぎ澄まし、すべてを理解して礼拝をささげることはできません。そんな私たちのために神は、七日ごとの安息日や礼拝形式をお定めくださったのだと思います。私たちは、いつどのように変化が襲ってくるかわからない中では、心の安定を保てません。形骸化しては困りますが、流れがある程度決まっていることで安らぎをえることも、礼拝の大切な側面ということができます。
同時に継続して意識的にチャレンジしていく信仰生活も大切です。祈りは神との交わりでありその命にあずかることですから、悪魔は激しく妨げてきます。ですから祈りを続けることは困難です。しかし御言葉をいただいて祈り続けたいと思います。主イエスのこの時の祈りは「いつもの祈り」でした。継続的な、積み重ねられて来た祈りでした。「苦しい時の神頼み」をしてもよいのですが、そこには祈りの厚みがありません。それはまだ祈りの入口であり、その先にある祈りの本当の力、神ご自身に出会う恵みにあずかるには、祈りを積み重ねる必要があります。困ったときやお願いがある時だけ近づいてくる人がいたとします。はたしてそれは本当の家族や友人の関係といえるでしょうか。私たちは神に対して、そのような者であるかもしれません。しかし祈りとはそのような薄っぺらいものではなく、御父との深い交わりに入れられ、その愛と命にあずかり、真理を示されて自分を変えていただく驚くべき恵みなのです。
主イエスがいつものように祈られたのは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)という祈りでした。「御心」とは、父なる神のお考え、ご計画です。「杯」は旧約聖書において人間の罪に対する神の刑罰を表します。ここでは主イエスが間もなく全人類の罪に対して神から下される裁き、十字架の死をいいます。
この主の祈りには二つの願いがありますが、二つは並べて祈れたのではなく、とても長い葛藤があって導かれていったと感じます。それは御心に従う者とならせてくださいと祈る私たちにとっても同様です。聖書にはモーセやパウロ、ペトロなど、試練を通して打ち砕かれ、神との交わりを深められて用いられる器とされていった「信仰の成長過程」を見ることのできる人がいます。悔い改めて主イエスを信じ洗礼を受ける、それですべて信仰が完成するのではありません。それはスタートです。一人の人が生まれて成長し、成熟していくように、信仰も神と交わり神に従う歩みを重ねる中で練られていきます。主イエスは神の御子であられましたが、まことの人として、私たち人間の通る信仰の過程を通ってくださいました。主イエスの祈りを見る時、祈りとは自分の願いではなく神の願い、その意思を知るためにあるのだと言うことができます。神と真剣に語り合う、いや、神の御声に耳を研ぎ澄ますのです。
自分の人生を自分で計画し、努力する。それは大切なことです。けれどもその時に、私たち以上に私たち、そしてすべてのことをご存じの主がどうお考えになっているだろうか、問うていただきたいのです。その祈りの中で隣人の救いのための思ってもみなかった道が開かれ、どんな時もぶれずに立って生きる力と平安が与えられていくのです。
3.祈りはわたしの願いを、神への服従に変える。(42節)
主イエスは弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れ、全存在をかけた祈りを始められました。弟子たちは眠り込んでしまう前に、これまで見たことのない激しい苦しみと恐れの中で祈っておられる主を見たことでしょう。主イエスが恐れていたのは、これから自分を殺そうとやってくる者たちでも、十字架によって受ける肉体的な痛みでもなく、「死」そのものでした。主イエスにとって死とは父なる神に棄てられ、神の呪いの中に投げ込まれることだったのです。
すでに何度もご自身の苦難を予告し、それを回避せず進んでこられた主イエスがこれほど苦しまれたのは、その死が神の聖なる怒りのもとに裁かれる罪人の死であったからです。父なる神と御子イエスは一つである方です。その交わりが断たれて裁かれる、それはどれほど恐ろしいことであったでしょうか。信仰者は生きるにも死ぬにも神の愛の内にあります。しかし主イエスは地獄…神と永遠に引き離される死の状態…をご存じの方として、その絶望を十字架で引き受けられたのです。
自分の弱さを認めず、迫りくる危機に対して無防備であった弟子たちとは対照的に、ゲツセマネでの主イエスは受難を前にして苦しみもだえ、祈られました。しかし、この苦しみもだえるイエス様の御姿にこそ、私たちの救いがあります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。」(ヘブライ5:7~9)
ゲツセマネの祈りは、「聞かれない祈り」の典型的なものといわれることがあります。しかし、何をもって祈りが「聞かれない」ということができるでしょうか。自分の願いが聞かれないことこそが、神が祈りを聞いてくださった結果なのだ、という時もあるのです。主イエスの祈りは本当の意味で聞かれたのだと、聖書は語ります。それは主が復活され、すべての人に永遠の命をもたらす救いの道が開かれたということなのです。「キリストは御子であるにもかかわらず」神に捨てられなければならないような罪は何一つない神の子が、神の子の座を離れて人となり、私たちの受けるべき裁きを身代わりに受けて死んでくださいました。それが十字架です。
「イエスが祈り終わって立ち上がり」(45節)長い祈りの時が終わりました。祈りが終わるとは、神にゆだねることができ、御心を受け入れられる信仰に立つことです。この後主イエスは逮捕され、裁判を受け、十字架につけられるのですが、たじろぐことなく進み続けます。ゲツセマネの祈りは主イエスのご生涯で重大な時であったことがわかります。
「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」この祈りがなされ、天使の力づけが与えられた後に、「イエスは苦しみもだえ」、いよいよ切に祈られました。御心にゆだねた祈りに導かれ天使の力づけがあっても、祈りはそこで終わるのではありません。それが祈りの現実です。御心にゆだねて祈っても、状況が厳しいままであるかもしれません。しかし見えるものではなく神を仰いで祈り続けましょう。主イエスを天使が力づけた、それは主イエスの祈りが御心にかなうものであるという証拠です。そして私たちが御心を求めて祈る時、天使以上に主ご自身が私たちのためにとりなし力づけてくださいます(ヘブライ7:25)。
さてそのように主が私たちの苦しみを苦しみ、私たちの祈りを祈ってくださっている時、弟子たちは「悲しみの果てに」眠り込んでいました。主イエスやこの世界に良くないことが起こるのではないかとぼんやり不安に思っていたかもしれません。しかしそれよりも、彼ら自身がサタンのふるいにかけられ信仰を無くすほどの状態になるという主のお言葉に対する悲しみだったのではないでしょうか。今から弟子たちはサタンのふるいにかけられます。弟子たちは自分の覚悟や力によってそれを乗り越えようとしています。しかしその試練の中で彼らに必要なことは、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」ということでした。「誘惑」とは苦しみや悲しみによって神を信じられなくなり、罪を犯しそうになる私たちの心の動きです。誘惑にあうことは誰にでもあります。しかし心の中に誘惑を感じ続けていると、罪へと陥ることになるだろうと思います。誘惑に陥らないようにするためには、「いつものように」祈りを積み重ねることです。祈りをあきらめないで、細く長く私に続けられる方法を神に求め、何度でも主に立ち上がらせていただきましょう。
主イエスはシモン・ペトロに、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われましたが、これはあなたはこれから倒れると言われているのと同じです。つまり弟子としてペトロが思っている視点では失敗、不合格となるのです。案の定弟子たちは眠り込んでしまって祈ることができず、主イエスが十字架につけられる時に、主との関係を否定して逃げ出すことになります。しかし主イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻られました。並行箇所では主イエスは神に祈り、眠っている弟子たちのところに戻って起こすことを三度もなさり、神と弟子たちの間を往復されています。まさに神と人との間に立ってとりなすお姿といえます。「立ち上がる」という言葉は原文では「復活する」という言葉です。私たちは本当に誘惑に弱いものですが、たとえ私たちが倒れてしまっても、復活の主イエスが私たちを起き上がらせてくださいます。
間もなく十字架という緊迫した状況で、しかも主イエスはそれらのことが起こることをご存じです。おそらくこの世の人々は「祈っている場合か!」と言うでしょう。情報を集め助けを求めて、勝てないなら逃げなさいと。しかしこのような時だからこそ、主イエスは全能の父なる神さまに祈られたのです。いろいろな試練が襲い、刻一刻変わりゆく私たちの歩みですが、だからこそ祈りからスタートし、いつものように祈っていたでしょうか。祈りのないhow to(どのようにやるか)だけではなかったか、との主の御声が聞こえます。すべてをご存じの主イエスが十字架の直前、誘惑との大きな戦いにおいてなさったのは祈りであり、弟子たちと最後にしたことも祈りでした。
どう祈ったらよいかわからないという方は、①主の祈り②詩編をそのままお読みになることをおすすめします。愛する親の語りかけを聞く中で子供が言葉を話せるようになるように、まず御父の語りかけ、聖書の言葉に聴きましょう。難しい表現などなくてよいのです。いつもの私の言葉で、言葉にすらできなくても、主の霊である聖霊が祈りを助けてくださいます(ローマ8:26~27)。主がこれほどまでに大切にされた祈り、神と交わり自分を変えていただく恵みの中に、この受難節、あらためて入れていただきましょう。
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