「お言葉どおり、この身に成りますように」12/18 隅野瞳牧師

  12月18日 降誕前第1主日礼拝
「お言葉どおり、この身に成りますように

隅野瞳牧師
聖書:ルカによる福音書 1:26~38

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 本日は、神の御子が人としてお生まれになるために用いられるマリアについての箇所です。御言葉が私たちの身を通して現実になることが示されます。3つの点に目を留めて、ご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.価値なき者を愛し赦す神の恵みは、御子に現わされた。(28~29節)

2.御言葉を吟味し、恐れや疑問を神の前に持ち出す。(29,34節)

3.神が私を通して御言葉を実現してくださると、信じて従う。(37~38節)

 

1.価値なき者を愛し赦す神の恵みは、御子に現わされた。(28~29節)

本日の箇所は「六か月目に」と始まります。イエス・キリストのお生まれになる六か月前に、マリアの親類エリサベトは、人々を悔い改めに導く働きをするヨハネという子を身ごもりました。さて、ザカリアにヨハネの誕生を告げたのと同じ天使ガブリエルが、今度はマリアに、主イエスを身ごもることを告げるために遣わされました。マリアはイスラエルの北方、ガリラヤの小さな町ナザレに住んでいました。特別なことは何もない貧しい一人の娘を、神は救い主イエス・キリストの母としてお選びになりました。

さて、マリアのもとに現れた天使は言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。(28~29節) 天使が遣わされる、それは私たちの人生に神が介入してこられるということです。「おめでとう」と訳されている言葉は、もともとの意味は「喜びなさい」です。しかしマリアはその喜ばしい言葉を聞いて戸惑いました。

神は御子を私たちのもとにお送りくださって、「神は我々と共におられる」(インマヌエル)方であると、その愛をお示しになりました。しかし主はいつもそばにいて慰め、私たちを助けてくださるというだけの方なのでしょうか。主が共におられるから私たちは勝利できる、私たちは正しいのだと、自分を正当化するためにこれを用いる人もいますが、まったく御心に反しています。「主があなたと共におられる」とは、主が御心を実現するために「あなた」を用いようとしておられるということなのです。

高齢で力なき羊飼いとなったモーセは、奴隷とされているイスラエルの民をエジプトから導き出すよう神に召し出された時、どうして私ごときにそのような働きができるでしょうかと恐れました。その時主は、「わたしは必ずあなたと共にいる」(出エジプト記3:12)と彼に約束されました。主の真実と御力によってモーセは用いられ、イスラエルの民は解放されました。神は人と共におられ、人を用いて御業を成し遂げられるお方です。それを知っていたマリアは「主があなたと共におられる」と聞いた時に、胸騒ぎがしたのです。主がわたしを用いて何かをなそうとしておられると。

ここでマリアは、神から恵みを受けた者として呼ばれています。聖書において恵みとは「もの」ではなく、人間に好意をもって迫りたもう神ご自身、聖書を貫いている神の愛の働きかけです。イエス・キリストにおいて神がこの世に来られた出来事こそ、神の恵みです。私たち人間は神に造られたものでありながら神を離れ、敵対する存在となりました。これを罪といいます。しかし罪人である私たちを救うために神は御子を世に送り、十字架と復活によって贖い、御自身の民とされました。マリアが自分自身の持つ何かによって神に選ばれたのではないように、私たちの救いもただ神の恵みによります。

マリアは御子イエスを産み育てることによって様々な苦しみを味わいました。けれどもそのすべての道、特に十字架と復活において、罪人である自分を救うために神が人となられたというはかりしれない恵みを、彼女は知らされていきました。やがてマリアは、主によって治められる新しい主の民である教会に加えられていきます(使徒1:14)。主の僕の道に苦しみは必ずありますが、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられていると、受け止められる日が来るのです(ピリピ1:29)。

さて、天使はマリアの恐れを取り除いて大切な御言葉を告げました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(30~33節)。

 「あなたは身ごもって男の子を産む」。もしそれがヨセフと結婚する前に身ごもるということであるならば、ユダヤ人社会においては絶対に認められないことでした。当時マリアは、ヨセフという青年と婚約しており、共に生活する日を待つ期間でした。ユダヤ人社会での婚約は法的には結婚と同じで、二人はすでに夫婦とみなされていました。もし女性が婚約者の知らないところで身ごもった場合、姦淫の罪で石打ちにされるか、婚約を取り消されて共同体から追放されることとなります(マタイ1:18~参照)。

しかしマリアにとって最も恐るべきことは、その子が何者であるかということでした。「いと高き方の子」「父ダビデの王座」「その支配は終わることがない」。それらの言葉は生まれてくる子どもが、イスラエルの待ち望んできた救い主であることを示していました。当時ダビデ王家はすでに没落し、ユダヤを治めていたのはローマ帝国でした。けれどもイスラエルの民は時代がどうであれ、約束されたダビデのような王が来て永遠に治めることを待ち望んでいました。これについてはイスラエルの民に何百年も前から約束されてきたことで、マリヤも含めてこの約束を待ち望む人々が少なからずいたでしょう。しかし自分がその方を産む母となるとは、到底受け止められることではありませんでした。

 

2.御言葉を吟味し、恐れや疑問を神の前に持ち出す。(29,34節)

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(34節)マリアはヨセフと実質的な結婚生活に入っていなかったので、どうして出産することが出来るのでしょうかと問いました。(原文では「どのようにして、それが起こるのですか。」)マリアはやみくもに信じたのではなく、かといって自分の知らない世界に対して「あり得ない」と、考えることを終わらせる問いを投げかけたのでもありません。マリアは熟考した結果、神の言葉が私の身に実現しますようにという献身に導かれていきます。信仰は思考停止ではなく、神との対話をくりかえすものです。

さてマリアに対してガブリエルは答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(35節)マリアの胎に宿る子は通常のように、マリアの資質を受け継いで聖なる者、神の子となるわけではありません。これは聖霊がマリアに降り、神の臨在に包まれることによって実現することなのです。御子はマリアに宿る前も後も、神としてのご性質は変わることなく、しかし同時に人としてお生まれになります。主イエスはまことの神でありながら、罪をのぞいてすべての点で、私たちと同じ者になってくださいました。この主が私たちすべての罪を担い神の裁きを受けてくださったので、私たちは神の御前に義しい者とされ救われるのです。

主イエスを信じるとは、心を入れ替えることとは違います。神の子どもとして新しく生まれることです(ヨハネ3:5)。神のいのちである聖霊を受け入れ神の臨在に包まれる時に、主イエスが私の内に生き、共に住んでくださるようになります。信じた後、主と同じ姿に変えられていくことも聖霊によります。主を信じる時に、主は王として私たちを永遠に治め、信仰や愛や希望を与えてくださいます。

天使はマリアの信仰の助けとなるよう、親類のエリサベトをしるしとして示します。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」(36~37節)子を授かることなく高齢になったエリサベトが命を宿していることを、マリアは知らされます。神は私たちの身近な人に与えられた神の恵みや信仰の歩みを通して、私たちの信仰を強めてくださいます。私たちもまた誰かにとって、神の恵みのしるしとされるのです。マリアは天使が去った後エリサベトの家に急ぎます。エリサベトはマリアに会うと、その身に起こったことを理解できただけでなく、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人の幸いを告げます。マリアにとってどれほど慰められたかわかりません。そしてマリアの口から、主への賛美が溢れたのでした。エリサベトとマリアに起こった出来事は、救いがいっさい神の恵み、神の主権、神の御力によることを強く語っているのです。

マリアが戸惑い天使に問うた時から、御言葉を受け入れられるようになるまでには、長い葛藤があったのかもしれません。何らかのきっかけが必要でした。マリアはエリサベトの出来事、そしてガブリエルの最後の一言によって変えられたのです。「神にできないことは何一つない。」

神は混沌に御言葉をもって天地万物をお造りになり、キリストをよみがえらせた方です。神の全能を信じることが、私たちの信仰の土台です。しかしここでは一般的な意味で「神には何でもできる」と言っているのではありません。まず第一に、人間の側の可能性によらず、神はどんな人をも用いて御言葉を実現することがおできになる、ということです。高齢のエリサベト、そして祭司でありながら御言葉を信じられなかった夫ザカリアでしたが、神は約束の通りにヨハネを誕生させ、ザカリアの口は開かれて救い主への賛美がわき上がりました(1:57~80)。

そして第二に神は私たちを愛するゆえに、すべてのものより低くなり、すべてを受け入れることができるということです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)

神はアブラハムを選んでご自分の民とし、その子孫から出る救い主を通して、彼は全世界の祝福の基とされると約束されました。その約束はイスラエルが神から離れて国が滅ぼされた状況でも、変わることなく与えられ続け、神はダビデの子孫を通して救い主イエス・キリストを送ってくださったのです。私たちは不真実でも、神はいつも真実な方です。神は約束されたことを最後まで果たしてくださいます。神の奇跡は私たちの人生のただ中で起きます。このことを信じ、神の御業に用いられることを喜びましょう。自分の経験や見通しだけに立つことを手放し、「神にできないことは何一つない」という原点に立ち返りたいと思います。 

 

3.神が私を通して御言葉を実現してくださると、信じて従う。(37~38節)

どんなに考えても、神のご計画のすべてを知り尽くすことはできません。けれどもマリアは、神が小さな私またイスラエルの民を目に留め、全能の御力をもって、御言葉を必ず実現してくださる方だと信じました。最善を成したもう神に、マリアは自らをおゆだねし、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(38節)と答えました。37節は直訳すると、「神にあって、すべての言葉はできないことはない(必ずできる)」となります。神の言葉は必ず実現し、出来事となります。ですからマリアは「お言葉どおり」と言ったのです。

主なる神に従う信仰を表す言葉として、僕(しもべ)、はしため(女の奴隷)という言葉が使われます。奴隷は自分の都合や判断ではなく、主人の言葉どおりに従います。マリアは、たとえ自分にとって困難なこと、不利なことであっても、神のお言葉にお従いしますと告白しているのです。神の僕はこの世の奴隷とは全く違います。私を愛し救ってくださった主にお仕えしたいから、自分から神に従うのです。主はその思いをお喜びになります。

最初の人間は、「神のように善悪を知る者になれる」と悪魔にそそのかされて罪に陥りました。彼らは「神のようになる」ことを、「何でも自分の思うようにできる」と受け取ってしまったのだと思います。すべてを自分の思い通りにする。それは自由で幸せなようですが、実は終わりのない苦しみ、虚しさです。自分だけでなく人をも傷つけていきます。しかしそこから救い出すために主イエスは人となり、罪ある私たちの延長線上ではない新しい命を与えてくださいました。そこから私たちは自分の欲望ではなく、主の願っておられることを選ぶ歩みに入れられたのです。

御前にひれ伏して主導権を手放し、御言葉のままに信頼して従っていくとき、神は救いの御業を行ってくださいます。そこに神の栄光が現れます。モーセもパウロも神の僕でした。神の僕であること、それはこの上ない光栄ある務めであり喜びです。そして最も大いなる主の僕はイエス・キリストです(イザヤ52:13~)。主はゲツセマネで「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに」(ルカ22:42)と祈り、最後まで御心に従い抜かれました。そこに救いが開かれたのです。

マリアのへりくだりと献身は、神の御子のへりくだりへの応答といえます。永遠の神の御子が人となり、罪以外のすべての点で私たちと同じものになってくださいました。そのへりくだりに応えて、神の御前に自らを器として差し出しすことへと、今私たちも招かれています。今御言葉が語られたのは、この御言葉を信じるあなたが、一人ひとりが用いられて、神の愛をこの世が知るためです。ほうっておけば私たちは自分のことだけで一杯になり、自分の力や思いの範囲内だけの狭い世界に生きてしまいます。しかしそのような私たちに神は天使を遣わし、私の救いの計画のためにはあなたが必要だと、私たちを御言葉の内に呼び出されます。私もまたエリサベトやマリアとともに救いの歴史の中に生かされています。聖書は、終わっていないのです。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」これはまさに私たちに、そして神が愛してやまないこの世界に向けて、今も告げられている祝福の宣言です。誰が何と言おうと、どんなに闇が深かろうとも、恵みの主は私たちと共におられます。御子をお迎えし、私の人生を御手におゆだねしましょう。「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈る中で、私たちも神の救いのお働きに用いられ、限りない恵みのうちに主を賛美するでしょう。主が私たちを、御子の謙遜と従順に導いてくださいますように。