「すべての人の喜びは飼い葉桶の中に」12/24 隅野瞳牧師

  12月24日 降誕前第1主日礼拝・クリスマス礼拝
「すべての人の喜びは飼い葉桶の中に」 隅野瞳牧師
聖書:ルカによる福音書2:1~12
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 本日は飼い葉桶にお生まれになったイエス・キリストについて、3つの点に目を留めて、ご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1.御子は居場所のない者と共におられる。(7節)

2.キリストは、わたしのための救い主である。(11節)

3.御子を受け入れるなら、私たちは神の愛のしるしとなる。(12節)

 

1.御子は居場所のない者と共におられる。(7節)

クリスマスは、イエス・キリストがお生まれになったことを祝う日です。聖書は私たちを愛する神がおられ、イエス・キリストは神の御子であると語ります。また教会では、キリストを最も大切な方とする思いをもって「主」とお呼びします。主イエスは「大きな喜び」としてユダヤのベツレヘムにお生まれになりました。クリスマスをプレゼントやごちそうでただ楽しくすごすだけでなく、ぜひその喜びのもとである方を知っていただきたいのです。

主イエスがお生まれになったのは約二千年前、ローマの初代皇帝アウグストゥスの時代、キリニウスがシリア州の総督であった時でした。神の御子である主イエスは人間として、私たちの歴史の中にお生まれになりました。この世の権力者と、無力な赤ん坊として生まれたイエス・キリスト。この対比は、キリストは力をもってこの世を支配するのではなく、国籍や性別や職業などを超えて、神の愛によって治めてくださる真の王であることを示しています。

さて、ローマの支配下にあったユダヤの人々は、皇帝の勅令によって住民登録をすることになりました。住民登録は今日で言えば国勢調査であり、目的は兵役と課税のためでした。主イエスの両親となるヨセフとマリアも、ガリラヤのナザレからベツレヘムまで旅をしました。ヨセフはイスラエルの王ダビデの子孫であり、ベツレヘムはダビデの出身地だったからです。120キロほどの山あり谷ありの道です。勅令に従わないわけにはいきません。マリアは出産が迫っていましたから、大変な旅であったでしょう。それは救い主がベツレヘムで生まれるという預言の実現でした(ミカ5:1)。

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(6~7節)

ベツレヘムに着いてしばらくすると、マリアに出産の兆しが起こります。空いている宿屋はなく、マリアは家畜を飼う場所で初めての子供を産むことになりました。宿屋とありますが当時は旅行を楽しむという習慣はありませんから、専門の宿泊施設があったというより、普通の家の一室を借りて泊めてもらったはずです。いろいろな場所に住んでいる親族が同じ時期に戻って来たため、空いている客間がなかったということでしょう。出産という命がけのことに臨むのですから、誰か自分たちのいる部屋に入れてあげることもできたと思うのです。けれどもそのような人はおりませんでした。それでもマリアは子を産み布にくるんで、家畜の餌を入れる飼い葉桶に寝かせました。

主イエスと家族に泊まる場所がなかったように、私たちは助けが必要な人に関心をもたず、無意識に追いやっているのかもしれません。キリストには生涯、地上に安らぐ場所はありませんでした(ヨハネ1章)。神は御子をどんな場所にでも生まれるように出来たはずですが、愛のご計画の内に飼い葉桶に寝かせられました。救い主はそれぞれの時代にあって、孤独、争い、病、この世界の暗さのただなかに共におられました。

飼い葉桶は主イエスの生涯、特にその最後の十字架の死を暗示しています。まさに十字架こそ主イエスのおられるべき場所だったのです。御子が十字架に向かわれたのは、私たちが生きるためでした。この主を仰ぐ時、私たちもまた誰かが生きるために、居心地のいい自分の場所を出る者とされます(ヨハネ17:14,18)。恐れがあるかもしれません。しかし私たちにはすでに、決してなくならない居場所があります。それはキリストが用意してくださった、父なる神のみもとです。そのためにキリストは、この世界に来られたのです。

 

2.キリストは、わたしのための救い主である。(11節)

「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」(8~9節)

主イエスがお生まれになった夜、ベツレヘム近郊に羊飼いたちが群れの番をしていました。彼らは雇われており、獣や盗人から命がけで羊を守り、損なえば償わなければなりません。誰も見ていない夜の、きびしい仕事です。イスラエルの人々にとって羊飼いは身近な職業で、偉大な信仰者アブラハムやモーセ、ダビデも羊飼いでした。また神は私たちの羊飼いとして導き守ってくださる方です(詩編23編)。しかし羊飼いは決まった日に礼拝をささげるなどの教えを守ることが難しく、ユダヤの宗教的には蔑まれていました。また住民登録からももれていた、つまりローマの社会的にも属する場所がなかったのです。だからこそ神は直接彼らに近づき、救い主の誕生を伝えました。神の救いからはどんな人ももれることがないからです。

神は自分の仕事に忙しく励んでいた羊飼いたちをお選びになりました。礼拝のために特別取り分けられた会堂や日曜日の礼拝にこられることは感謝ですが、仕事や病気、さまざまな事情でそのようにできなくても、どこでも礼拝はできるのです。現実をせいいっぱい生きるそこにこそ神はおられます。誰も見てくれない中で務めを担っている羊飼いのような私たちであっても、神が声をかけてくださる恵みに励まされます。

さて彼らに天使が近づき、神の光が彼らを照らし出します。それは聖なる神の前に出ることですから、彼らは非常に恐れおののきました。

「恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(11節)

「恐れるな」と神が手をのべてくださることで、羊飼いたちは安心して神の前に出ることができました。そして彼らが聞いた言葉は、世界の救い主が、あなたがたのための救い主が今日お生まれになった、という喜びでした。しかし羊飼いたちには「あなたがた」という言葉は、ピンと来なかったと思います。え、私のためにですか?という具合に。

羊飼いたちは羊の放牧で野原を巡りますから定住しません。どこに行ってもよそ者ですから、物がなくなったら羊飼いが真っ先に疑われたと言われます。聖書の言葉も、神が与えて下さっている救い主の約束も聞く機会がなかったし、自分たちは救いの外にいるだろうと思っていたでしょう。けれども今こそ、すべての人に向けて神が与えて下さっていた約束が実現したとあなたがたに知ってほしい、救い主はあなたがたのためにお生まれになったのですと、天使は告げたのです。神の救いは、神御自身が行って伝えてくださるものです。長年聖書を読んできた人も、今日初めておいでになった人も関係ありません。羊飼いのように神の光と御言葉の前に照らされる時に、私たちは自分の真実の姿を見、その私を救ってくださる方を知るのです。

神は愛をもってこの世界、私たちをお造りになりました。神の愛のうちにいる時に、私たちも神を愛し、人を愛することができます。しかし私たちは愛と命の神を離れて自分中心に生きる道を選びました。それは自由で幸せなことに見えました。しかし私たちは満たされることなく傷つけ合い、生きる意味を見失ったのです。

神はこのような私たちをも愛し、罪から救うために、私たちと同じところに身を置かれました。それが、御子イエスがこの世にお生まれになったということです。罪というと戦争や警察に捕まるようなことと考えますが、聖書では思いや言葉…ねたんだりゆるせなかったり、人を傷つける言葉を言ってしまったりすることも含まれます。そして大切なのは、私たちの心が神から離れていることが罪の根本であるということです。そこが変えられない限り、わかっていても罪を犯してしまうのです。

しかし主イエスが私たちの罪を担って十字架にかかり、よみがえり、神と共に生きる道を開いてくださいました。この方を信じる時に私たちは罪赦され、神と人を愛して生きるようになるのです。神の愛を受け、人に愛を与える喜びを知る。これは私たちがどんな状況にあっても決して奪われることのない、内からわきあがる喜びです。すべての人がこの恵みに招かれています。

 

3.御子を受け入れるなら、私たちは神の愛のしるしとなる。(12節)

「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(12節)

 羊飼いたちに示された救い主のしるしは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子でした。数えきれない天使がそこに加わって神を賛美しました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(14節)私たちは御心に適う、神に喜ばれる者ではありません。しかし神の赦しを受けて私たちは御心に適う人とされ、人との間にも平和を築く努力をしていくことができます。地の平和がそこに与えられていくのです。

 天使の賛美に圧倒されて気がつくともとの闇です。羊飼いたちは我に返り、御告げを思い起こしてダビデの町ベツレヘムに急ぎ、飼い葉桶に眠る救い主を探し当てました。神は天使を通して、羊飼いたちに救い主の誕生を直接伝え、彼らが自由に入れるように家畜の飼われている場所に、御子を生まれさせました。求めるならば誰でも会いに行くことができる、そのこと自体が、神の救いがどんなものかを示します。私たちがどんな者であっても、御子はそのままで受け入れてくださいます。

羊飼いたちは乳飲み子イエスを見て、この方が自分たちのための救い主であると確認し、大きな喜びをいただきました。その喜びと驚きは、自分たちだけで留めておけないほどでした。彼らは天使が告げたこと、すべての人のための救い主に出会ったことをヨセフとマリア、多くの人たちに話し、神をあがめて帰っていきました。神は彼らの信仰の目を開き、飼い葉桶の乳飲み子に救い主の本質を見させてくださいました。神はこの世の知恵や力のある者ではなく、無力な者に御自身をあらわされます(Ⅰコリント1:26~31)。

 ヨセフとマリアはそれぞれ天使から、生まれる子は神の子であるとのお告げを受けていましたが、主イエスの誕生の時に奇跡的なことは起こりませんでした。しかしこの二人は天使の告げた世界の救い主の誕生の喜びを、羊飼いたちから聞きました。それは彼らにとって大きな恵みであり、信仰が強められたことであったはずです。救い主に出会った一人ひとりは他の人の証を通して強められながら、信仰の道を歩みます。それが教会です。

神を信じて生きるとは、この世のことから目を背けて閉じこもることではありません。飼い葉桶から十字架に至るまで、主イエスの私たちへの愛は具体的に現わされました。主イエスの誕生を祝うクリスマスなのですから、主イエスに喜ばれる贈り物をしようではありませんか。助けを必要としている方、希望を失った方、孤独の中にある方の中に御子はおられます。この世界に平和が、私のそばにいる人との間に愛が実現するように、小さなことから祈り行っていきたいのです。マザー・テレサは、自分のしていることが大河の一滴に過ぎなくても、この一滴を注がなくては海の水は一滴分減ると語り、愛を行い続けました。目の前にいる人の苦しみを、放っておけない。そこから始まる声かけ、笑顔、一緒にいることが、周りを変えていくのです。主にあってなされた愛と祈りは、決して無駄になることはありません。

主イエスを救い主と信じる時、私たちの内に主イエスが住み、神の愛の見えるしるしとされます。貧しい自分という飼い葉桶に、御子がいてくださいます。ですから誰かを主イエスに出会わせたかったら、自分の中に招けばいいのです。主は住まわれた一人ひとりを用いて、居場所のない人たちのところにどこにでも行くことができるのです。特別なことは必要ありません。祈りの中で何か心にひっかかる人と、一緒にごはんを食べたり少し話を聞く。それだけで一人じゃないんだと勇気をもらい、今日を生きようと思える人がいるのです。生活に必要なものが満たされ、神を信じる喜びを持ち、信じ合える仲間に恵まれているならば、そんな私たちの手を隣の人に開き、声をかけて関わっていきましょう。病気、年を重ねている、悲しみの中にある…そんなあなただからこそ、救いのしるしとしたいのだと神は言われます(Ⅱコリント4:7)。

 マリアは御子を産み、飼い葉桶に寝かせました。勝手にどこかにもぐりこんだということではなく、こんなところしか用意できなくてごめんなさい、どうぞお使いくださいと飼い葉桶を提供し、なんとか子どもが生まれるのを助けた人がいたのだと思います。そこに主が宿って、そこからすべてが始まりました。神のなさることはいつもそうなのです。私たちも、そのままの自分という飼い葉桶を差し出しましょう。貧しくてもこの飼い葉桶に、すべての人を救うキリストが宿ります。そこに人々がやって来て御子に出会い、次の人に救いの喜びを伝える者となっていくのです。神にそんなふうに用いていただけるなら、こんなに感謝なことはありません。 

私たちはこの知らせを羊飼いとともに聞きました。「本当に私のために救い主がお生まれくださったのか、見に行こう」と求めるならば、神は必ず御言葉を通してあなたに出会ってくださいます。神の御言葉を受け入れるならばいつでも「今日」、救いはあなたに現実となります。私からその喜びの知らせが世界に広がっていきますように。「こんな私が神の救いのしるしとされたんですよ!」と喜んで言い合える、互いに愛し合うあたたかい私たちとならせてくださいますように。