「まことのパンを食べる」11/19 隅野瞳牧師

  11月19日 聖霊降臨節第26主日礼拝
「まことのパンを食べる」 隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書6:27~35

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 本日の箇所は、6章のはじめからつながっています。主イエスはガリラヤ湖の近くで御言葉を語っておられました。成人男性だけで五千人の群衆が空腹を抱えてついてくるのを見て、主は彼らを憐れみ、少年の持っている五つのパンと二匹の魚を人々にお分けになりました。皆は満腹するほど食べ、残ったパンくずを集めると十二のかごがいっぱいになるほどでした。さてこの奇跡を見て人々は、主イエスこそ自分たちを救うために神が遣わされた預言者だと考えて、自分たちの王にしようとしました。しかし主はこのような人々から離れて山に退かれました。この「パンの奇跡」は四福音書全てに記されていますが、その霊的な意味が解き明かされているのはヨハネだけです。

奇跡の翌日も、群集は主イエスを探して追って来ました。主は彼らが霊的な求めではなく、パンを食べて満腹したのでここに来たと見抜いておられました。彼らには、パンと魚をもって群衆を満たされた主の「しるし」の意味はわかりませんでした。聖書においてしるしとは、出来事そのものよりも、その背後にある意味を示すものです。主イエスがなさった奇跡は、この方が救い主であるという真理を映し出すものです。奇跡を体験した人々がこの信仰を持つようになってこそ、その奇跡は人々にしるしとなるのです。

 

1.御子を信じることは、神がなされ、神が受けいれてくださる業である(29節)

朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。(27節) 

私たちは日ごとの糧を求め、またそれが世界中に満たされるように祈り仕えます。しかしここで主が言われているのは、生きるのに必要な糧ではなく、この世のものによって心が満たされることを求めるということです。それは長続きしません。満腹になるとさらに上の満腹を求め続けます。それらを求めるのではなく、朽ちることのない永遠の命に至る食べ物のために働きなさいと、主は言われます。

永遠の命に至る食べ物とは後で出てきますが、御子を表します。自分の願いを満たすことではなく、神がお喜びになることを求めて生きなさいということです。神のため、人々のために自分を差し出し、神の愛に満たされたときにのみ、わたしたちは本当の幸せを味わうことができます。

「なくならない」は「留まる、宿る、住む」という言葉です(ヨハネ1:14)。単なるパンという「モノ」ではなく、人格を持ち私たちを愛してくださる命の主が、私たちの内に生き、住んでくださるということです。神が人となられて共に生きてくださったことがクリスマスのメッセージ、インマヌエルの第一の意味ですが、その主は信仰において私たちと今も、そしていつまでも共に生きてくださるのです。

そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(28~29節)

人々が「神の業」と言っているのは、旧約聖書の律法のことです。ユダヤ人は律法を行うことによって救われる、自分は神を喜ばせる行いができると考えていました。それに対して主イエスはただひとつの神の業、御父に受け入れられるのは、神が遣わした者である御自身を信じることであると言われました。

「業による救い」は誰の目にもはかりやすく、心地よいものです。しかし立派な正しい行いによって神に受け入れられ、天国に行くことはできません。善い行いの中にも自分中心の思いが入り込みますし、私たちは欠けのある不確かな存在だからです。そもそも魂の救いがこの世の目に見える手段やがんばりで手に入るというのは、おかしいと思いませんか。何点をとれば合格というのでは、弱く罪を犯してしまう、心や体や環境が苦しい中にある、一番救いが必要な人が到達できない救いになるのです。そしてできてしまう人はできない人を裁くようになります。しかし神が本当に与えたい祝福は、目に見えるものを超えたところにある永遠の命なのです。

神から離れている時、私たちは罪の中にあり裁かれるべき者です。しかし御子が私たちの罪を担って十字架にかかり、よみがえってくださいました。罪と死に対する自分の無力を認め、主イエスを神から遣わされた私の救い主として信じるならば、私たちは赦され、神と共に生きる永遠の命に入れられます。

救いは行いによらないと言うけれど、やっぱり「信じる」という業が必要じゃないか、と感じる方もおられるかも知れません。けれども主イエスを私の救い主と信じることは、自分の力でできる行いではありません。御言葉を通して、聖霊がその信仰をお与えになるのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(Ⅰコリ12:3)

無理やり納得させて信じるというものでもありません。今生きておられる主イエスに出会ってしまうのです。すると「自分の持てるもので結果を出す」という生き方から、「神がキリストにあって成し遂げてくださった救いを感謝していただく」という生き方に変えられます。

主イエスを信じるとは、主イエスとの愛の交わりに生きることです。一緒にすごす人によって、私たちは何を大切にし、時間やお金をどう用いるか変わります。こどもがいれば危険なものを隠しますし、病気の人がいれば食べやすい食事を作ります。主と共に生きるとは、それよりもっと一体であります。主イエスを信じるというところに立つ時に、私たちはおのずと変えられていきます。

救いは初めから終わりまで、神が御子をお与えになるほどに私たちを愛しておられる、という恵みに基づきます。主イエスを信じること、それが、神が私たちに求めておられる業であり、神が私たちの内にしてくださる業です。主イエスへの信仰が起こされること自体、神が成してくださることです。神が求めておられる業は、すべてを尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛することですが、十字架において御子は、その御業を完全に成し遂げられました。信仰によって私たちはキリストの死と復活の姿に与り、神に従いぬいた者と見なされるのです。

 

2.私たちは、しるしを見ても気づいていない(30節)

そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。「天からのパンを彼らに与えて食べさせた」と書いてあるとおりです。(30~31節) 

 

さて群衆は、イスラエルの民が約束の地に入るまで毎日マナが与えられたように、自分たちにもパンを与え続けてくれるなら、あなたこそ神が遣わされた救い主だと信じようと言いました。荒れ野で食べ物がなくなった時、神はイスラエルの民にマナをお与えになり、人々は日ごとに集めて天からのパンとして食べました。豊かさと、当時その地を支配していたローマからの解放を与えてくれるモーセのような指導者を、今の群衆たちも求めていたのです。

主イエスはすでに驚くべきパンのしるしを行われました。しかしその翌日人々は何もなかったかのように、さらにしるしを求めたのです。私の願う不思議な業を見せてくれたら救い主と信じましょう、という彼らの提案は、霊的な真理からいえば逆です。信じると、真理が見えるようになるのです。見たら信じられるのではありません。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」(マルコ9:24)、これでいいのです。そのままの自分で祈り、信仰を求めましょう。その時御言葉がひらかれ、日常生活の中にずっと主がおられたことに気づくでしょう。

実は群衆は、パンの奇跡以上のもっと大きなしるしを目の前で見ました。それは主イエスです。しかし彼らには父なる神の愛のしるし、神の御子が人となられたことを見ることができませんでした。さらに御子が十字架にかかられる時には、そこにこそ神の栄光と勝利が現されていると悟る者はいませんでした。私たちがこの主の十字架以外に救いはないと信じることができるのは、ただ主が憐みによってお示しくださったことによるのです。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。…」(エフェソ1:17~19)

「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」(32~33節)

主は人々に、マナを与えたのはモーセではなくわたしの父であると語られます。これは御自身が父なる神の御子であるという宣言です。御父は今私たちに、天からのまことのパンを与えておられます。マナは肉体を養うための一時的なものでしたが、新しいマナ、天からのまことのパンは御父のもとから来られた主イエスご自身です。このパンは信じるすべての者に永遠の命を与える真の食べ物です。御子は永遠の命を与える方であると同時に、永遠の命そのものです(ヨハネ11:25)。つまり、御自身を与えるということです。主イエスを信じる者は、神が主イエスにお与えになったよみがえりの命が、終りの日に自分にも与えられると信じて歩むことができるのです。

 

3.まことのパンである主イエスを食べる(35節)

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(34~35節) 

人々は主イエスが「天からのパン」であることを理解せず、いつもただで食べられるパンが欲しいと願いました。私たちは、何かを手に入れて幸せになれるように神に願います。しかし聖書の神は、朽ちる食べ物ばかりを求めて飢え渇く私たちの願いを、その通りにかなえることはなさいません。むしろ私たちの真の満たしのために、願いそのものを変えてしまう方です。御心に従うことが最善であることを、くりかえし時間をかけて私たちは経験していきます。

ヨハネによる福音書の中には、「わたしは良い羊飼いである」「わたしは道であり、真理であり、命である」など、御子が御自身の本質について表される箇所が7回あります。その一つがこの「わたしが命のパンである」です。主は、命のパンそのものである御自身を食べるようにと招かれました。

ここで、御子を信じることが食べることとして語られています。信じることと食べることは似ています。信仰の本質を表しているのです。主イエスを食べるとは、まず主イエスのもとに来ることです。それに続いて「わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われていることが大事です。主の教えを学んだり、祈りが聞き届けられる体験をすることは素晴らしいことです。しかしそれらは主の命からあふれてくる恵みを部分的に味わったに過ぎません。

主イエスが私たちに願っておられることは、御自身をまるごと食べて、その命と愛に満たされて新しく生きてほしいということです。私たちは、誰かの代わりに食事をとることはできません。一人ひとりが自分のペースで食べ、食べたものが心と体を形作っていきます。そのように、ただ私の外側を見ているだけでなく、私を食べて、私の命をあなたのものにしなさいと主は言われます。主イエスが私たちのうちで生きてくださるとは、何という喜びでしょう。そして主イエスを食べた者は、自分もまた、主イエスのものになるのです。

主の命をいただく始まりのしるしが、洗礼です。自分中心の古い自分がキリストと共に十字架に死に、キリストの命によって新しく生まれた証です。そして聖餐は、主が私たちの救いのために身を裂き、血を流してくださった贖いの恵みを新たにします。同じ主を信じた者はその復活の命に共にあずかっており、すべてを越えて一つとされています。それが教会です。「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。」(Ⅰコリント10:16~17)

聖餐を受けるたびに私たちは、自分が主と霊的に一つとされていることを確信し、兄弟姉妹も同じく主に愛されていること、その方々とともに主の御体である教会の肢(えだ)とされていることを知ります。主の再び来られる時まで、私たちはこの深い恵みに感謝しつつ主の命に与り続けます。聖餐式は、主イエスの十字架と復活の出来事の記念だけではなく、私たちが与っている命の本質を味わい知る時なのです。

世にある限り神から引き離そうとする誘惑や、救いの恵みを忘れてしまうこと、罪との戦いがあります。主から離れていることに気づいたなら、そのたびに主に立ち帰り、御言葉から離れないで、御子の命をいただき続けましょう。

愛するってどういうことだろうか。聖書の中心であり、自分の現実の中で生涯かけて求むべきことですが、私に与えられた答えの一つは、「愛は自分を差し出す」ということでした。自分を差し出してくださった方々によって、私たちは今生きています。そしてその根っこには神の愛があります。御子は十字架の前夜に弟子たちに言われました。「取って食べなさい。これはわたしの体である」。これは「わたしのすべてをあなたに差し出し、与えます」ということです。この愛を受ける時に私たちは、神と人に自分を差し出す者になります。

何かを手に入れれば、誰かがこうしてくれれば…群衆のように、自分の外のものによって満たされることを求めているなら、それは決して満たされません。しかし御子の命をいただく者は根本から変えられます。先週の御言葉にありましたように、神に愛されている子として、誰かの祝福と救いのために持てるものを差し出し、一歩踏み出す者となるのです。

ともに礼拝をささげるすべての方が主イエスを救い主と信じ、命のパンをいただくことができますように。すでに命のパンをいただいた者たちが、主と隣人のために自らを差し出すことができますように祈ります。(祈り)