「目に見えない収穫をもたらすために」11/26 隅野徹牧師

  11月26日 聖霊降臨節第27主日礼拝・収穫感謝礼拝
「目に見えない収穫をもたらすために」隅野徹牧師
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 3:1~9

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 今年の収穫感謝礼拝は、示された「聖書日課」のうちコリントの信徒への手紙第1の3章の1節からの部分を選びメッセージを語ることにしました。「目に見える収穫」を神に感謝するとともに、私たち一人ひとりが「神にあって目に見えない収穫」をなしていく、ということを共に考えたいと思ったからです。

聖書には「目には見えない収穫」について、実際の野菜や果物を譬えに使って教えている箇所がいくつかあるのですが、そのうちの一か所を先に開いてみたいと思います。

恐れ入りますが今開かれている新P302にしおりをはせて、新P198をお開きいただけるでしょうか?ヨハネによる福音書の15章です。

ここは聖書の中でも有名な「ぶどうの木のたとえ」ですが、その中の5節に次のようなイエス・キリストの言葉が出ます。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

このイエスの譬えで、ぶどうの木が①太い幹、②そこから細く伸びる枝、そして③肝心なぶどうの実、この3つから成っていることを伝えられています。その上で、このぶどうの木の各部分を①つ目「神とその御子イエス・キリスト」、②つ目「私たち人間一人一人」、③つ目、「私たちを通して表される良い業」として譬えられています。

私たち人間一人ひとりは、ぶどうの木のどの部分にあてはまるのでしょうか?それは「ぶどうの枝」なのです。神・キリストという「太い幹につながった私たち」をとおして「実りがなされる」ということが教えられているのです。

実りは、いわゆるこの世での「成果」とは違います。この世では「いくら稼いだ」とか「どれだけ成績を上げるか」が実だと思われていますが、私たちが神・キリストによって実らせることのできる「実」とは、9節10節に書かれているように、「愛すること、相手を大切にすることによって、もたらされるもの」であることが分かります。イエス・キリストが私たちすべての人間を愛されるがゆえに、神の子でありながら私たちと共に生きてくださり、そして十字架で命をささげてまで私たちを救おうとしてくださった、その愛を受けて結ぶことのできる「実」なのであります。

私たちは、神の助けを借りながら「この世の成果とは違った意味での実りをもたらす存在である」、この考え方は聖書中を通して教えられる真実です。開かれなくて結構ですがマタイ13章、マルコ4章、ルカ8章に出てくる有名な「種まきのたとえ」もそうです。

神の福音という種が、4種類の土地に落ちて、それぞれその結果がどうなるかを譬えたものですが、この譬えでも、私たちひとり一人が譬えられているのは、「種の落ちた土地」です。そして結論的に、「まかれた神の言葉という種が実を結ぶような私たちひとり一人として生きることの勧め」がなされているのです。

長い前振りになりましたが、まさに!今朝の聖書箇所であるⅠコリントの3:1からの箇所も「私たちを通して、神は豊かな実りをもたらせてくださる」ことが教えられます。

皆さんおひとりお一人は、農業をする人ではなく、また作物そのものでもない、「畑」である、それが今日のメインテーマです。どういくことなのか、じっくり噛み締めながらお聞きいただければ幸いです。

まず1節、2節から見てまいりましょう。

この手紙の筆者であるパウロは、コリントの教会の信徒たちに対して、「あなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えなかった。あなたがたはまだ固い物を食べることができなかったからだ。そして、今でもそれができないでいる」と言っています。

その状況は3~4節で明確に説明されています。

ここから分かるのは一言で言えば「教会内の分派争い」です。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っている」というように、教会内で派閥ができて、お互いが対立し合っていたのです。

神が中心でなく「人間が中心となる」と、教会の中はこのような問題が起きてしまう…時代を超えて、場所を超えて、現在のわたしたちへ大切な教訓を伝えているのではないでしょうか。

続く5節からのところでは、コリントの信徒たちの根本的な信仰の間違いを正しつつ、キリストに出会ったものがどのように生きればよいのか…それをパウロが分かりやすいたとえで教えています。ここは大切なので私が読みます。まず5,6節、飛ばして9節を読みます。

先ほどから、聖書全体の教えとして「私たち人間一人ひとりが、神の助けを借りながらこの世の成果とは違った意味での実りをもたらす存在である」という考えが「貫かれているとお話ししていますが、コリントの信徒たちは、次のような間違った考え方をしていたのではと私は考えます。

「パウロ先生と結びつくことで、」あるいは「アポロ先生と結びつくことで、自分たちの信仰はより成長する、より優れたものになるのではないか!」というものです。

つまり!「神・キリストにつながる」というより、「いち人間にすぎない教会の教師につく」ことを何より大切にしていたのがコリントの信徒たちだったのです。

パウロは、まだ福音の種が蒔かれていない所に初めて伝道し、教会を生み出していった人です。それに対してアポロは、教養に富んだ雄弁な人であって、既に生まれた教会を養い育てていくという働きにおいて優れていた人のようです。

そのようにこの二人はかなり性格の、あるいは賜物の違う指導者です。当然教会の人々の間にも、それぞれの性格や好みの違いによって、どちらかの指導者により親近感を抱く、ということが起ると言えるでしょう。しかし!問題は、「この指導者を絶対視し、神のような存在として見てしまった」ことにあります。

さらにもう一つ、コリントの信徒たちが「自分たちは植えられ、育てられている苗、作物である」と勘違いしていたのではないかということです。

つまり、どういうことかというと、コリントの信徒達は「作物である自分たちが、いろいろな指導者によって植えられ、養われ、育てられて、立派な作物になっているのだ」ということです。

果物で「〇〇産」ということで「ブランド化され」、値段が跳ね上がるものがあります。メロンやいちご、ぶどうなど、皆様も思い浮かぶと思います。コリントの信徒たちは「自分はパウロ先生ブランドだ」とか「アポロ先生ブランド」など、自分を育てた牧師を「ブランド」のように考えることがあったと思われます。

もちろん一人間に過ぎない教師・伝道者を「ブランド」のように考えることは間違っていますが、それとともにまずいののが「自分自身が〇〇先生によって育てられた優れた実りだ」と考えることによって、「自分はすでに完成品だ」という考えに陥り、この先「成長しよう」という思いが欠如してしまうことだと私は理解しました。

実ではなく、自分を「枝」や「畑」のように、良い実りをもたらすものとして捉えることによって、「私たちは、これからも実りを生み出すものとして、歩んでいこう」と、成長を願う私たち一人ひとりになれるのではないでしょうか? 自分は「実り」だと捉えるのは受け身の生き方ですが、自分は「枝や畑」だと捉えることによって、能動的な生き方へと導かれます。

パウロも、そのことを悟ったからこそ、ここで「畑と育てる人」の譬えを使っているのではないかと思うのです。そして、「あなたたちがどう生きていくかによって、実りをもたらすことも」、その反対に不作に終わらせることもある」。そんな、結果が分かれてしまう可能性のある「畑」に譬えたと私は理解します。

9節の最後で、パウロは「畑」の譬えに加えて「建物」の譬えが出てきます。「全く関係ないように感じる」かもしれません。確かに「実り、収穫」とは離れてしまいそうになりますが、しかし、つながった教えがなされているのです。

それは、建物も畑と同じで、建物そのものよりも「中でどんなことがなされるか」が大切ということで共通しているからです。

私たちが今いる「山口信愛教会の会堂」も、すてきなきれいな会堂です。しかし外見よりも大切なのは、「中でどんな礼拝がささげられているか、どんな祈りがささげられているか」にあります。 そんな建物に自分を重ねるとき、「立ってそれで終わり」ではなく、畑と同じように「この先がどうであるか」が大切だ!という思いになり、日々の成長を志す、能動的な生き方に導かれます。

終わりに、残っている7から9節を味わっておわりましょう。

「神の愛に基づく成長を成させてくださるのは神である!自分で自分を成長させていくのではない!もちろん一人間にすぎないパウロやアポロが成長させるのではない」ということが教えられます。

一方でその成長にいたるために、「パウロやアポロなど、教会の指導者・教師」の働きが用いられます。しかし、「教会の指導者・教師」は神に用いられている奉仕者に過ぎないのです。

「神の働き場である」いわば「神の畑」である一人ひとりを手助けするために、「パウロやアポロはいるのだ」ということがここで教えられているのです。実りを生み出す畑は「信徒」なのであり「教師ではない」ということがはっきりと教えられています。

具体的には6節にあるとおりです。「神の畑」であるはずのコリントの信徒たちに「キリストの十字架と復活による喜ばしき知らせの種を植えたのがパウロ」であり、それが育つように「水をやったのがアポロ」です。しかし!何より大切なのは「この世の成果とは違った神の愛に基づいた実りをもたらす存在である一人ひとりと、神・キリストの関係」なのです。

皆さん、ぜひ牧師との関係も大切ですが、まずが「ご自身と神・キリストの関係」をもう一度見直し、より豊かな関係を構築することを目指していただきたいと思います。その上で、私はパウロやアポロの足もとにも及びませんが、皆さんが「より神の畑として、神の愛の実りを生み出すことができるように」、信徒の皆さんに霊的な栄養をあたえられるようなお助けをすることをお約束します。

最後に短く、先週月火と出させていただいたホーリネスの群、信徒教職セミナーで学んだ内容を分かち合いさせてください。

今回の研修のテーマは「信徒による伝道、教会形成」でした。現在、牧師不足で一人の牧師がいくつもの教会をかけ持つような時代にあって、いかに「特別なことをせず、信徒と牧師が助け合って、教会を維持した上で伝道を推し進めるか」ということを、講師の先生がレクチャーしてくださいましたが…「これはできない」と思うものはなく、本当に目からうろこの話がたくさんでした。

2つだけ紹介させてください。

①教会の中で「うけた御言葉の感想を互いに分かち合う」友をもつことです。これで、聞きっぱなしにならず、自分の言葉で御言葉を語られ、御言葉を実践することがより進むそうです。

②定期的に祈り合える友を「一人だけでも」つくることだそうです。祈りがその通り聞かれることは少ないかもしれません。それでも祈りを共有する仲間をもつことで「祈りの実現を共に待つことができる」ので祈りが聞かれなくても、孤独ではない歩みが実感できるといいます。そしていつか「共に祈れることの喜び」が大きくなり、「新しく、この喜びを知る人が出てほしい!」と自発的に伝道する信徒に成長するのだそうです。

ぜひ皆様も「神の収穫をもたらすために」この山口信愛教会の中で「より深い、信仰の友との交わり」を持っていただくことをお勧めし、そのことを願い祈ります。(祈り・沈黙)