「もう泣かなくともよい」7/9 隅野徹牧師

  7月9日 聖霊降臨節第7主日礼拝
「もう泣かなくともよい」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書7:11~17

 今朝は、「聖書日課」のうち、ルカによる福音書7章11節~17節を選びメッセージを語ることにしました。説教題は13節の「もう泣かなくともよい」というイエスの母親に対しての言葉から語ることにしました。

この言葉は、いま泣いている人に対して「泣くのはもうやめて、気持ちを切り替えよう。新しい一歩を踏もう」などと励ますのとはまったく違う性質のことばです。本当の意味で「もう泣くことがなくなる、希望を私はあなたに与えます」という、イエスの真の愛と慰めのこもった言葉なのです。

近しい方を失うという悲しみだけでなく、私たちの周りにはたくさんの「泣きたくなる悩み」があふれています。どうか、ご自分にも与えられる「イエス・キリストからの慰めの言葉」として受け取っていただくことを願います。

最初に…今回の箇所の流れを見たいと願います。

11節に「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた」とあります。

いま開かれているP115にしおりをされて、聖書の後ろの地図6「新約時代のパレスチナ」をお開けください。

 ルカの7章は、イエスが宣教をはじめられた初期の出来事が記されたものですが、その舞台は「ガリラヤ湖周辺」でした。

 ガリラヤ湖の左側に、イエスが育たれた「ナザレ」という町があるのを見つかられたでしょうか? 今回の箇所の舞台「ナインという町」は、すぐその下にあります。

今回の箇所の出来事の直前には「百人隊長の僕を癒す」場面が描かれるのですが、その舞台は、ガリラヤ湖の上側の「カファルナウム」です。

イエスは、宣教の初期「神の愛、罪の赦し、そしてそこから与えられる永遠の命」を伝えるために、ガリラヤ湖の周辺の村をくまなくまわり、苦しむ人々に寄り添い、そして「神の御心のあらわれ」として、癒しの業をたくさんなさったのであります。 

もう一度今日の聖書箇所の新約聖書P115を開いていただけるでしょうか?

12節では、あるやもめの子どもが亡くなって、棺が運ばれる、そのタイミングでイエスが近づかれました。

そして後程詳しく見る13節から15節でこの子どもは「生き返る」のです。

わたしは若いころ、こんなことを思いました。

「直前に書いてある百人隊長の僕は、遠く離れたところにおられたのに、イエス様は癒されたんだから…この息子も、こうなる前に離れたところから癒してあげればよかったじゃないか? そうすれば家族がこんなに悲しむ必要もなかったのに…」

いまでは、なんと浅はかだったのか…と思います。

イエス・キリストの癒しの業は「医療行為」をはるかにこえた「命の業である」こと、

また行われた癒しの業は「病んでいる人やその家族」のためだけに行われるのではなく、「場所を超え、時代を超えて多くの人々につながる業として行われる」ことが後になってようやくわかるようになりました。

16節には「人々が、恐れをいだいて、神を賛美した」とあります。

人間は、文明の発達とともに、神を軽視し、神を畏れることがなくなっていきます。現代の私たちがとくにそうです。 

しかし!「天地を創造された神に畏れをもつことができるように」そして「その神がお遣わしになった独り子イエス・キリストを通して神を賛美できるようになるために」神は現代の今も「業を行って下さる」のです。

16節の後半に「大預言者が我々の間に現れた」とありますが、人々が言っているこの大預言者とは旧約聖書の列王記上にでてくる「エリヤ」を指していると言われます。

エリヤの時代、ユダヤの人々は神から離れ、神を畏れない歩みをしていましたが、そんな中、神はエリヤを通して「今回の箇所でイエスがなさったのと同じような奇跡の業」をたくさんなさったのです。

そのことを通してユダヤの人々は「神を忘れたような罪深い歩みをしていた、こんな私たちをも、神は心にかけてくださった」と感じたのです。

イエス・キリストが癒しの業を行われたことは、実に「奥が深い」ということを感じていただければと思います。

イエスはこの時なぜ「この子どもを生き返らせること」ができたのでしょうか?私なりの答えですが、それは、イエス・キリストをこの世にお送りくださった「父なる神」が、死をうちやぶる「復活の命を与えて下さる方だから」ということだと思います。

神の恵みの力によって「この子どももよみがえった」のですが、その神は、十字架で死んだ、ご自分の独り子イエス・キリストを「やはりよみがえらせた」のです。このことによって「私たちを死から解放し、新しい命を与えて下さる神」なのだ、ということを示して下さったのです。これが、今朝皆様とともに味わっている、この奇跡において示されているのです。

私たちは、いつか必ずこの地上を去るときがきます。それは、親しい家族、友人にとって耐えがたい痛みです。しかし、その「死の経験」を、神の独り子イエス・キリストもして下さったのです。そしてその独り子イエス・キリストを、父なる神様は三日目に復活させて下さったのです。だから、私たちも「そのイエス・キリストを救い主として信じ受け入れるならば」この地上の命を超えて、永遠の命を得ることができるのです。

だから「もう泣かないでよい」のです。

最後に、この「もう泣かなくともよい」ということばをイエス・キリストがどのように「話されたか」に注目してお話しします。「私たちにも同様に、愛と慰めをお与えくださる、神の独り子、イエス・キリスト」を共に感じられたらと願います。

ここまで語ってきた通り、イエスは母親に対し「もう泣くのはおしまいにしなさい」ということが伝えたくて「もう泣かなくともよい」と仰ったのではありません。

どんな思いで伝えられたのか…それが表れているのが、直前の「憐れに思い」という言葉です。この言葉は、私たちが気の毒な人を見て感じる憐れみの思いとは全く違うのです。

ルカによる福音書の著者「ルカ」は、この「憐れに思い」という言葉を、この他2か所で使っているそうです。

他二つは皆さんもご存じであろう有名な箇所で、いずれもイエスがなさった「例え話」の中で出ているそうです。

一つ目はルカ10章の「善いサマリア人」の話です。

強盗に襲われて倒れている人を見たサマリア人が、「憐れに思い」介抱したという所で出ます。

もう一つの箇所ルカ15章の「放蕩息子」の話で出ます。

父の財産をもって家を飛び出し、放蕩の限りを尽して「ボロボロになって帰って来た息子」を見た父が、「憐れに思った」と書かれています。

この二つはいずれも、私たちが普通に抱く同情や憐れみをはるかに超えたことです。

イエスが譬えの中に登場させた「サマリア人」は、民族的に対立していた人を「自ら痛みをもって助け」ています。そして「放蕩息子の父親」は、自分に対し罪を犯した人を赦して受け入れています。それが、イエスの示される「憐れに思う」ということです。

まさに、「見返りなしに、無制限に相手を憐れむアガぺーの愛」が「憐れに思う」という言葉で教えられているのです。それはまさに、「父なる神の愛」「御子キリストの私たちすべての人間に対しての愛」なのです。

子どもの死を激しく嘆き悲しんでいるこの母親を見てイエスは、「自ら痛みをおって救いたい」という「憐れみを覚えられた」のです。その上でかけられた言葉が「もう泣かなくともよい」という言葉だったのです。

死の力に翻弄されたりするなど、悲しみの多いこの世の旅路を生きる「私たち人間一人ひとり」を、神の独り子イエス・キリストは深く憐れみ、愛して下さることを覚えていましょう。

今朝は皆様とご一緒にルカによる福音書7章11節から17節を深く味わいつつ読みました。ここに語られているのは、イエス・キリストが単に「人を生き返らせるという信じられないような奇跡を行なった」というだけのことではないことが分かられたと思います。

この奇跡の業には、神が、その独り子をお与えになることで「死の痛みを頂点とする、様々な痛みに直面する私たち」を「深く憐れんでくださる」神の愛が示されています。

今、涙を流さざるを得ない悲しみ・苦しみにある世界中の人々が、「もう泣かなくともよい」と心に語り掛けて下さる、神の御子であり、救い主である「イエス・キリストの愛」に触れることができるように、切に願い、祈ります。 (祈り・沈黙)