「わたしたちの罪、隠れた罪」3/3 隅野徹牧師


  3月3日 受難節第3主日礼拝
「わたしたちの罪、隠れた罪」隅野徹牧師
聖書:詩編 90:1~17

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 受難節第二節の今朝は、「聖書日課」のうち、旧約聖書の詩編90編1~12節を選びメッセージを語ることにしました。ここは私たち人間の人生について、大変に深い表現がなされています。とくに「人生の長さとその中身について」、教えられる箇所です。

先週のシオンの会の例会で、柳井姉妹によって「健康について」のよい発題がなされました。そのなかでも今回の詩編90の10節が紹介されました。ここに「人生の年月は70年ほどのものです」という言葉が出ます。

詩編が歌われた3000年前の平均寿命は30歳、40歳だったといわれ、その当時、70年生きることの出来る人はまれだったと言われています。

1節を見ると、この詩は「神の人、モーセの詩」となっていて、聖書の記述では「120年生きたとされるモーセ」のように、長生きした人物によって詠われた詩であると理解されています。

運よく長生きしたと思われるこの詩人ですが、この人の人生観は「長生きできるから幸せだ」とか「人生の長さが大切だ」といっているのではなく、「どんな人の人生でも振り返ってみれば、一瞬の人生であること」、「人生の長さが大切なのではなくて、どう生きたかが大切だ」と詠っていることに気づきます。

さらに言えば「創造主である、神をいつも心に留め、その神の眼差しを意識しながら生きていくことが、人生の鍵だ」ということが今日の箇所の主題として語られているのです。

現在の私たちは当時では考えられないほどの長寿を生きることが出来るようになりました。しかしながら、この世の中には10節の言葉のように「健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません」という人で溢れているように感じます。

先週、柳井姉が発題してくださったように、「ただ肉体的に健やか」であるだけでなく、「心が健やかであること」、さらに聖書は「霊的に健やかである」つまり「神との関係において健やかであること」が大切なのです。

詩編90編で最も有名なのは12節の「生涯の日を正しく数えられるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」という言葉ですが、これは今言った「霊的に健やかな自分であるように!」、つまり「神との関係において健やかな私であるように!」と神に祈り求めている言葉だと私は理解します。

今日は、そのような「人生について大切なことが教えられた詩編90編」を読んでいるわけですが、受難節でありますので、「イエス・キリストの十字架を見上げつつ、自分の人生を捉える」ということに関して、皆様と共に詩編90編を味わって参りたいと願います。

まず1節の二つ目の文から3節を読んでみます。

ここでは「人間は神に造られた者であり、命を与えるとともに、命の終わったあと、ご自分に御許に召される方だ」ということが示されています。

聖書全体で教えられている人生観として「死を忘れないこと、自分の限界を知ること」があります。

自分が被造物に過ぎないこと!一見残酷なようにも思えますが、「死に対する決定権が自分にはない」ことを認めること…しかしそこから創造者である神を思う心が生まれるのではないでしょうか。

神のまなざしを意識して生きるならば、神とは「人間とは異なる永遠の御方である」ことに気づきます。今日の聖書箇所のなかでは11節の言葉がそれを表していると感じます。11節を読んでみます。

神を知れば知るほど、このお方が「いい加減なお方ではなく、罪や悪をお嫌いになるお方だ」ということが分かってきます。そして私たちが犯しつつ大して気にもしていないような罪や、気づかずに犯している罪、つまり「隠された罪」をもすべて、見のがさずにおられるお方なのだ…ということも、心に迫ってくるのではないでしょうか。

7節8節の言葉は、まさにその気づきの告白だと思うのです。7節8節を読んでみます。

しかし、この詩編はただその「罪に気づかされて、落ち込む」ところで終わっていない!そこが大きなところなのです。

この罪深い私たち一人ひとりと向き合ってくださるお方なのだ!ということをこの詩人ははっきりと告白しています!

神を近くに感じた時、その聖なるまなざしが、罪深い私たちとあまりにも違うことで「畏れを感じてしまう」のは当然です。しかし罪深い自分をさらけ出して「神と語り合うこと」が許されている、ということをこの詩編90編から読み取れます。

では、この詩人が「自分をさらけ出して、どのような祈りの言葉をしているか」を残りの時間で見てまいりましょう。それが13節から17節に記されています。まず13節から15節をよみます。

12節以下とトーンが全然違うことにお気づきいただけないでしょうか。

罪深く、神の大きさや聖さの前に「畏れを感じている」にもかかわらず、13節以下では、驚くべき言葉で次々と祈るのです。

13節で「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。力づけてください」と祈り始めます。

 さらに14節15節では、「厚かましい」ぐらいの口調の祈りを口にしているのです。この世での歩みの苦難を「神の責任であるか」のように語り、「私たちに喜びを返してください」と厚かましくも祈っています。

12節までの祈りの言葉とは全くトーンが変わっているかのように感じます。自らの罪深さには十分気づいているが、だからといって自分の人生が労苦と災いでおわってしまわないように、諦めずに祈っているのです。

この祈りの姿勢は私も大いに見習いたいと感じさせられました。

最後に残った16節と17節を読みます。

ここは13節から15節の「神へ、正直な思いをぶつけた、厚かましいかのような祈り」をしたあと、この詩人が「心に平安を得て」また「確信を得て」祈った言葉が記されていると受け取ります。

罪深い人間一人ひとりが神の威光をあおぎ、自分の人生での労苦の意味を確かに見出す!そのことが祈られているのですが、これは「神が私たちのために、送ってくださった救い主イエス・キリストを通して成し遂げられること」なのです。

神の御子イエス・キリストが十字架で死なれたということは、「私たちすべての人間の罪深さ」を何よりも表しています。しかし、このキリストの十字架を見上げる時、罪の中にある私たちが、キリストのゆえに完全に赦されていることを同時に知ることになるのです。私たちの命は、イエス・キリストによって罪赦され、神のものとして「聖なる者として生きる希望」が与えられたのです。

だから!!どんなに罪や悪に襲われたとしても満ちたとしても、私たちは人生を諦めてしまうのではなく、神に「この先の希望を祈り求めること」ができるのです。

私たちの地上の命は「短く、はかない」かもしれない。だけれども、造り主である神の目から見れば「本当に尊いもの」なのです。

人生のはかなさと空しさを感じることは、私たちの人生に必ずあります。罪深さも当然感じる日々でしょう。しかし!そこで「自分はどうせこんなだから…」と落ち込むのではなく、この詩編90編の詩人の祈りを思い出しましょう。

「自分は小さなものであり、罪深いものである。神の前に赦しを乞うことは、本当はできない者である。だけれども、キリストはこんな者のために十字架にかかって死に、そして復活してくださった。だから希望があるのだ」と。

その思いをもって、この詩人のように「大胆に、一見厚かましくみえるような祈りで」神に救いの確信を見せて下さるように、祈って参りましょう。

先日、ある信徒のお宅で行われた「家庭集会」で、「信仰と感情~自分の気持ちを正直に認める~」という百万人の福音の記事を用いての学びをしましたが、そのなかで「自分の気持ちを大切にすることと、盲目的に聞き従うことは全く別である」という著者の指摘があり、一同あらためて大切なことを考えたのでした。

さらに印象深い言葉として「もし神が正直な気持ちを責められるなら、人は神の御前に自分を偽って生きていかねばならない。「偽りの一歩は自分の気持ちに嘘をつくことだ。それこそが、神の心を悲しませることになる」というテキストの言葉を受け止めました。

私たちは、もっと正直に、そして素直に「神に祈ってよい」のではないでしょうか?

詩編90編の詩人のように、自分の小ささ、罪深さを認めた上で「厚かましいぐらいに、求める、要求する」ことはあってよいと考えます。

「なぜこんなに人生に虚しさを感じなきゃいけないのですか?もっと人生を喜びに満たさせてください。 神様に愛されていること、イエス様の十字架の赦しに与っていることを確かに分かるようにさせてください。ゆるぎない確信をください!」

 そうやっていのることを神は待っておられます。どうぞ、神の前に心を偽らず、感情をだして「救いの確信を求めて」祈ってまいりましょう。 (祈り・沈黙)