「主の御手がわたしを囲む」2/25 隅野瞳牧師

  2月25日 受難節第2主日礼拝
「主の御手がわたしを囲む」 隅野瞳牧師
聖書:列王記下 6:8~23
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本日は、私たちを囲んでいてくださる主に気づくことについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉に与りましょう。

1.霊の目を開くのは主である(17,18,20節)

2.神はすべての人を生かす道に導かれる(22~23節)

3.神の業は祈りから始まる(17,18,20節)

 

1.霊の目を開くのは主である(17,18,20節)

本日の箇所には、イスラエルが北隣(現在のシリア)にあるアラムと戦っていた時のことが記されています。アラムの王は家臣を集めて協議し、陣を張りました。すると神の人(預言者エリシャ)はイスラエルの王に人を遣わして、ここにアラム軍が下って来ていると警告を与え侵略を阻止しました。あまりにもこのようなことが続くので、アラムの王は内通者がいると考えて家臣たちを問い詰めます。するとその一人が答えました。内通者がいるのではなく、イスラエルの預言者エリシャが、王が寝室で話す言葉までイスラエルの王に知らせているのですと。これを聞いたアラムの王はエリシャを探させ、ドタンにいる彼のもとに大軍を遣わして、夜中にその町を包囲したのです。

「従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」 するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た」(15~17節)。

さてエリシャには身の周りのお世話をする従者がいましたが、彼が朝早く起きて外に出ると、アラムの軍隊に包囲されているではありませんか。パニックになっている従者に、エリシャは「恐れてはならない。」と言って、彼の心の目が開かれるように主に祈りました。主が彼の目を開かれると、神の守りである火の馬と戦車が、エリシャを囲んで山に満ちているのが見えたのです。

私たちは目に見える肉の世界と目に見えない霊の世界、二つが同時に存在しているところで生きています。実は霊の世界の方が永遠であって、物理的な世界を支えています(ヘブライ11:3)。私たちは、自分が見て感じていることがすべてであり正しいと考えがちですが、見えるものは偽ります。祈りつつ聖書を読む時に、主は私たちが「当たり前」と考えていることを、「本当にそうだろうか?」と問うてくださいます。自分は何も見えていなかったと示され、揺るがぬ神の真理を通して正しい位置に引き戻される、それが主の御言葉によって起こります。

神はどのようなお方か、罪・救いとは何か。それもまた、頭で納得してわかるのではありません。神が心の目、霊の目を開いてくださる時に見えるようになるのです。十字架につけられたキリストこそ真の救い主であり、そこにこそ神の愛が満ちあふれ、罪人である私も救われる。そう信じることができるのは、御言葉を通して聖霊がお示しくださるからです。ルカ24章には、主が十字架で死なれたことで希望を失い、悲しんで都から離れていく二人の弟子について記されています。彼らに復活の主が近づかれましたが、彼らの霊の目は遮られていました。目の前に愛する当に主ご自身がおられるのに見えないのです。しかし主のパン裂きに与ったときに二人の目が開け、主イエスだとわかりました。

心が波立ち希望が失われたときには、主が私たちを取り囲んで守ってくださることをしっかりと見なければなりません。どんなに周囲が騒ぎ立て、危険が大きく迫っていても、エリシャは天の幻を見て平静な心を与えられました。それは私たちにとっては御言葉の約束です。私たちの目の前に主はおられます。日々の見える出来事の背後には、全能の愛の主が共にいまし、御手がすでに私たちを囲んでいます。それを私たちが見いだせるかどうかだけなのです。

私たちの戦いはこの世のものに対してではなく、霊的な闘いです。この世にある限り、旧い自分の思いのままに生きたいという誘惑が襲います。聖霊の導きを祈り求めましょう(ガラテヤ5:16~26)。その戦いは身を守ることに重点があります。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。…救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェソ6:10,11,17)。私たちはまことに弱い者であることを自覚し、自分の力で立ち向かうのではなく、御言葉なる主により頼むのです。憎しみではなく平和を、自分中心ではなく愛し与えるという勝利をいただきましょう。

 

2.神はすべての人を生かす道に導かれる(22~23節)

「イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに、「わたしの父よ、わたしが打ち殺しましょうか、打ち殺しましょうか」と言ったが、エリシャは答えた。「打ち殺してはならない。あなたは捕虜とした者を剣と弓で打ち殺すのか。彼らにパンと水を与えて食事をさせ、彼らの主君のもとに行かせなさい。」そこで王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった」(21~23節)。

町を囲んでいたアラム軍が攻め下ってきました。そこでエリシャがアラム軍の目をくらましてくださいと祈ると、主はそのようになされました。兵士たちはエリシャによってイスラエルの首都であるサマリアに連れて行かれます。彼らの目が開かれると、敵陣の真っただ中にいることがわかりました。しかしアラム軍の目をくらましてくださいというエリシャの祈りは、彼らを打ち殺すためではなく、進むべき道を彼らに示すためのものでした。兵たちはどこに、誰のところに導かれたのか。それは、彼らをも救う主のもとにであります。

驚きあわてるアラム軍の兵隊たちを前にして、興奮したイスラエルの王は彼らを打ち殺しましょうかと尋ねますが、エリシャは捕虜となった者たちを寛大に扱うように答えます。彼らを解放するだけでなく、なんと食事を与えよというのです。イスラエルの王は不服だったと思いますが、これまでイスラエルを守ってくれたエリシャの勧めに従って盛大な宴会を催し、捕虜たちを主君のもとへ帰しました。そしてそれ以来、アラムはイスラエルに二度と攻めてこなかったのです。エリシャはアラムの王が恩義を感じて少しの間でも侵略を思いとどまり、平和な関係を作れるような道を残したのです。

主の助けがエリシャを囲んだのは平和のため、救いのため、主がどのような方かを知らせるためでした。目が見えなくなっていたアラムの兵が導かれ、食卓を共にして、また自分の場所に帰っていく姿は、異邦人が救いへ、主の教会へとそのままの姿で招かれていることを表しているように思えます。

私たちも、自分に敵対する相手に寛大であること、祝福をもって臨むことを示されます。そのようにしたからといって、相手の態度が変わらないことがほとんどでしょう。けれども私たちは、敵対する相手に同じ反応で返していたところから、主にあってあえて「赦すこと」「愛すること」を選ぶ者とされます。なぜなら神が私たちに限りない忍耐をもって、そうしてくださったからです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。

かつて教会の迫害者であったパウロは、天からの光の中で復活の主イエスに出会い、目が見えなくなりました。力が奪われた彼は三日間断食して祈り、正しいと思っていた自分の歩みがまったく的外れであったことを知らされます。悔い改めの期間を経たパウロが再び見えるようになるために、主はアナニアをとりなし手として遣わします。彼はパウロがまさに迫害の手を伸ばそうとしていた、ダマスコのキリスト者でした(使徒9:1~19)。アナニアによってパウロは洗礼を受けて食事を共にし、聖霊に満たされて、大きな苦難の中でも異邦人に福音を宣べ伝える使徒として立てられました。パウロの目が開かれ異邦人の器とされたのは、もちろん主によることです。しかし同時に、パウロに対して恐れや憎しみをもっていたのであろうアナニアが、祈りの中で命がけで十字架の愛に従うことを選んだ、そこにパウロが真の福音、神の愛を身をもって体験したからといえるのです。

後にパウロはこう祈っています。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」(エフェソ1:17~18)。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(Ⅱコリ4:18)。パウロは「見えなかった」時に見えた復活の主、その救いの確かさを伝え続け、一人でも多くの人が同じ永遠の命の希望に目を注ぐようになるために、仕える僕となりました。

私たちは、自分と自分の側にいる人だけの益になるように願うことが多いものです。しかし神は、私たちの敵と思える人のためにも御業を行われます。神は私の味方であると同時に、すべての人を愛し、同じく味方になってくださるお方です。私たちが正しくて何かができるから、神が私たちを愛し救ってくださるのではありません。私たちの主は平和の神です。御子が神と私たちの間に平和を実現してくださったように、私たちも神と人、人と人との間に入ってとりなす者となることを主は願っておられます。そこに平和の神が臨在してくださいます(Ⅱコリント5:18)。

 

3.神の業は祈りから始まる(17,18,20節)

「エリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。…エリシャは、「主よ、彼らの目を開いて見えるようにしてください」と言った。主が彼らの目を開かれ、彼らは見えるようになった」(16,17,20節)。

エリシャは困難が襲った時も順境の時も祈り、彼の祈りを通して主は御業をなされました。祈る時に私たちは自分の力を手放し、主と隣人に心を開くことができます。私たちは祈りのうちに悔い改め、愛と希望に満たされ、道を見出します。祈りによって主の働きが成し遂げられた時、私たちは喜びの中でまったく主に栄光を帰すでしょう。

多くの人は、祈りが神に何かを願うことと考えます。しかしそれでは私たちのために神に使い走りをしていただく、ということになります。真の祈りが求めるものは神御自身です。祈りは神との交わりですから、祈りにおいて自分の思いを申し上げるとともに、まず御言葉を聞くことです。愛し合う関係にある親子であれば、必要なものを要求する時だけ何かを言うということはありません。重要な祈りの課題については、何度でも何年でも、御父とのやりとりを繰り返し積み重ねていくことになるでしょう。

主を信じる者は自分の願いを神に申し上げるだけでなく、自分以外の人のために神に祈ります。これを執り成しの祈りといいます。エリシャは自分の召使のためだけでなく、アラム軍のためにもとりなしの祈りをささげました。天使は私たちが御心に従い、この世で隣人を愛し、その救いの使命を果たすために祈りを支え、信仰の闘いを力づけられます(ルカ22:43)。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください」(エフェソ6:18~19)。

「目を開いてください」という祈りをわたしたちも祈る事が求められています。私たちの目が開かれて、私たちは今神の子である、救われているという神の御言葉への確信が与えられるならば、苦難や試練の中でも確かな歩みを積み重ねていくことができます。それとともにすべての人の救いと祝福のために、為政者が御心を行うことができるように(Ⅰテモテ2:1~4)、また主の御用のために最前線で仕える兄弟姉妹、牧師のために祈って支えてください。

「主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。…天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府(よみ)に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます」(詩編139:4,5,8)。世が揺れ動き恐れの中にある時、人の目には望みが見えない時に、「私たちは主の愛に囲まれている、主はここにも共にいてくださる」と伝える人が必要です。エリシャのように、先に主の守りを見た私たちが周りの方にお伝えしていきましょう。

祈りは生きたクリスチャンであるかどうかのしるしです。救われる人が起こされ、私たちがキリストに似た者とされること、教会のすべては祈りにかかっています。霊の目によって神を見つめ続けた信仰者たちは、主の器として大きく用いられてきました。主はきのうも今日も、また永遠に変わることのない方ですから、私たちを通しても救いの御業をなさいます。

伝道、奉仕のために体を動かすことができなくなっても、私たちは実際に動く人のために祈ることができます。一部の人だけが祈りの賜物をもっているのではありません。神の子とされたすべての者は、御子によって神を天の父とお呼びすることができるのです。御言葉に耳を傾け、主が祈るように示してくださっている方の名前や出来事について書き留め、一人静まって祈りましょう。そして主が祈りを聞き届けてくださった恵みを振り返って感謝する時、祈り続ける力が与えられます。

今は主イエスのご受難を覚える時であります。主は十字架への道を、絶えざる祈りによって歩み抜かれました。主に従う弱い私たちは、なおさら祈りに向かう必要があります。もし私たちが祈ることについて父のもとから離れているなら、今日決意しようではありませんか。ここを立って、父のもとに行こうと(ルカ15:18)。主が私たちをいつも、どんなことでも祈る教会とならせてくださいますように。