7月4日説教 ・聖霊降臨節第7主日礼拝・聖餐式
「イエスのもとに泊って」
隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書1:35~42
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只今山口信愛教会の主日礼拝では、ヨハネによる福音書を主日礼拝で続けて読んでいます。先週は瞳牧師によって「イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたこと」そして、洗礼者ヨハネがイエス・キリストのことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い表した箇所を見ました。
今朝の箇所は先週と多少重なりますが、「最初にイエスの弟子になった人物」について記された箇所を深く掘り下げます。早速味わってまいりましょう。
まず35~36節です。
「その翌日」とありますが、これはイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた次の日のことを指すと思われます。洗礼者ヨハネが二人の弟子と一緒にいたその時に、再び「イエスが歩かれている」ところを目撃します。ヨハネはイエスを見つめ、「見よ、神の小羊だ」と証しました。
29節と全く同じ言葉を繰り返しているように感じますが、これは単なる繰り返しではありません。
他の人に対して「見なさい。この方こそ神の小羊だ」ということ、つまり、この方こそ「ご自分が犠牲になって、世の人々を罪から救いだすメシア」なのだと証しすることは、何度でも繰り返ししなければならない、ということを教えられていると私は捉えます。
イエス・キリストとは何者か?私達も短い言葉で「証ししつつ」、信仰の告白を積み重ねていく者でありたいと願います。
もうひとつ大切な点は、洗礼者ヨハネが、「愛する自分の弟子たちに対して!」「見よ、神の小羊だ」と伝えたことです。
この後ヨハネの言葉に促された二人の弟子は、イエスの後を追いました。弟子が去っていくことに寂しさは感じたでしょう。それでも、愛する弟子たちのことを思い、「あなたたちが付いていくべきなのは、あの方なのだ」と伝えることが出来たのです。
私達も、人間を過度に信頼し、付いていこうとすることがあります。でも本当についていくべきお方、それは「神の子であり、救い主であるイエス・キリスト」以外ないのです。そのことを洗礼者ヨハネのように証ししてまいりましょう。
つづいて37~39節です。 ここが今日のメッセージの中心となりますので
読んでみます。
洗礼者ヨハネの二人の弟子は、ヨハネを離れイエスに付いて行きました。新共同訳の「従った」だと大分ニュアンスが違って聞こえますが、実際は「少し距離を取って後ろをついていった」のだろうと理解されています。どこか「おどおどした感じで」どう声をかけて良いか分からずにいた…そんな時イエスの方から振り返り、彼らに声をかけてくださるのです。それは「私に何を求めているのですか」という声掛けでした。
イエスは私たちにも、同じことをしてくださいます。私たちが何かを求めてイエスのうしろに付いていこうとするとき、無視したりは絶対になさいません。そうではなく「何を求めてご自身のもとに来ているのか」それを心の中に語りかけてくださるお方です。皆さんにも主からの語りかけがありますから、ぜひ答えてみてください。
さて、二人の弟子たちは何と答えたでしょうか?それが38節です。
「ラビ…あなたはどこに泊まっておられるのですか」というこの質問…それは単なる好奇心からではありません。
彼らが望んでいたのは「路上で、歩きながらイエスと話すこと」ではなかった!そのことが表れているのです。ちょっとやそっとの関係を望んではいなかったということです。
洗礼者ヨハネが神の小羊と言ったこのお方がどんな方なのか、彼らはイエスのもとに留まって、深い交わりを持ちたいと願いました。そんな彼らに対するイエスのお答えは、シンプルなものでした。それが39節の「来なさい。そうすれば分かる。」というものです。
一晩中話したであろうイエスとの会話について、聖書はくわしく伝えてはいません。ルカ19章の「ザアカイの家にイエスがお泊りになった場面」に似ています。ザアカイの箇所も、泊まられた夜、どんな会話がなされたのかを聖書は伝えません。しかし、ザアカイの箇所が次の日以降の「ザアカイの変わりぶり」だけを記して、イエスとの出会いがいかに大きいかを伝えています。それと同様、この箇所も、「その後の二人の変わりぶり」を伝えることで、「イエスのもとに泊まったその夜、何が起こったのか」を、ここを読む私達一人ひとりが思い起こすように導いているのです。
イエスのもとに泊まることとは具体的にどんなことなのでしょうか?
それを「泊まった後の二人の弟子たちの姿から」理解してまいりましょう。
40節を見ましょう。ここでは二人の弟子たちの内、ひとりが「アンデレ」だと書いてありますが、もう一人の名が記されていません。何故かというと、ヨハネ福音書の著者「ヨハネ」が、もう一人の弟子だからです。他の何箇所かでも見られるのですが、福音書の著者「ヨハネ」は、自分に関する記述なのに「敢えて自分の名を記さない」ということをしています。
39節の最後の言葉をご覧ください。もうひとりの弟子が「著者ヨハネだ」ということ、そしてそれ以上の大切なことを教えてくれる言葉なのです。
「午後4時ごろのことである…」何気ない言葉に見えますが、これには「自分がイエスと出会い、そして一緒に泊まったその時を忘れることが出来ない!」というヨハネの思いが詰まっていると私は理解します。
イエスと出会った、あの時から人生が変わった…そんな強烈な印象に残る出来事だからこそ「時間だけでなく、その時の光景もすべて思いだせる…」そのような感じではなかったかと思います。
少し私の話をさせてください。私が洗礼を受けたのは1993年、大学一年生のクリスマスでしたが、洗礼の決心が与えられたのは、その半年前の「KGK キリスト者学生会」の夏期学校でした。
それまで宣教師の集会に通い続け、神の存在は信じ受け入れていたものの、「キリストによって新しく生きる」ことの必要を感じていなかった私は、救いの決心のないままダラダラ過ごしていましたが、神の導きでしょう、このキャンプに参加することになったのです。
同年代のクリスチャンたちが、「自分の罪や弱さを神の前に告白し、キリストと共に生き生きと歩んでいる」その姿を見て、私も「人の目を気にして生きるのではなく、あのような生き生きとした人生を送りたい」と思い、「自分の中にある罪や弱さ」をキリストによって救っていただきたいとはっきり決心したのでした。
それは三重県の尾鷲市の青年自然の家で行われたものでしたが、あのとき見ていた美しい海の景色や、星空などを今も忘れることが出来ません。それだけ、「あのときを境に自分の人生が変わった」と痛感しているからだと思います。
皆さんには同じような経験はないでしょうか?自分を新しくする決心が与えられた時や場所など「具体的なことを思いだして」いただければ幸いです。そこには、まるで「主のもとに泊まって、主とじっくり交わった」かのような心が燃えるような経験があると思うのです。ぜひそれを思いだし、新鮮な気持ちで日々歩んでまいりましょう。
まだ、そういう経験がない、という方は、ぜひ「深くと交わる」機会があるように求めていただくことを願います。
最後に、イエスについていった二人のうち、もう一人の「アンデレ」から、「イエスのもとに泊まったことで起こった変化」を見ましょう。
アンデレは、救い主イエス・キリストに出会った喜びに、いてもたってもいられなくなりました。そして兄弟シモンのもとにいき、「救い主にあった」ことをそのまま証しし、ペトロを、イエスのもとへとお連れしたのです。ペトロのことは今日敢えて触れませんが、「主のもとに泊まって、じっくりと交わり、新しく生まれる体験をしたアンデレがいたからこそ」、その後のペトロがあるのです。
イエス・キリストのもとに泊まるようにして、「じっくり交わった人」は、その喜びを伝えることができるのだ、ということを聖書は教えています。さらに「練られた人格も与えられるのだ」ということも教えられるのです。
アンデレは、12弟子の中でも目立たない存在です。普通なら「私が一番先に主にお会いしたのだ!」と威張りたくなるところかもしれませんが、そういう高慢な態度は聖書の記事からは見て取れません。
他の弟子たちが「優秀なのは自分だ!」という態度で威張ろうとしていた中、彼は「誰かをイエスのもとにお連れする」ということを何より大きな喜びとする人でした。ヨハネ6章の5千人の給食の場面で、魚とパンをもった少年をイエスの前にお連れしたり、ヨハネ12章のギリシャ人をイエスのもとにお連れしたり…そういう目立たない、だけれども大切な働きを喜んですることができたのです。
私達も「アンデレ」のように用られ、悩みの中にあるこの世の人々を一人でも多くキリストのもとにお連れできることを切に願います。そのためにはまず、イエス・キリストのもとに泊まるようにして、「主とじっくり交わり」救われた喜びに満たされることが大切です。
暗いニュースが溢れるいまだからこそ、私たちがまず、消えることのない主に在る喜びに満たされてまいりましょう。(祈り・黙祷)
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