「神の小羊に出会う」6/27 隅野瞳牧師

  

  月27説教 ・聖霊降臨節第6主日礼拝
「神の小羊に出会う」
隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書1:29~42

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 本日は救い主に出会いキリストを証することについて、3つの点に目を留めて、ご一緒に神の御言葉にあずかりましょう。

1.キリストは神の小羊である。(29,36節)

2.主のもとに行けばわかる。(39節)

3.救い主に出会った者は、隣人を主のもとに連れて行く。(34,41-42節)

 

1. キリストは神の小羊である。(29,36節)
洗礼者ヨハネは荒れ野で、救い主がおいでになるために備えよと告げて、多くの人に悔い改めのしるしとしての洗礼を授けていました。ローマ帝国の支配に苦しむ民はヨハネの叫びに、もしかしたらこの人こそ救い主かもしれないと期待し集まってきました。その中に今日出てきます、キリストの最初の弟子となったアンデレもいました。ヨハネの噂を聞いてユダヤ教の指導者たちが確かめにヨハネのもとにやってきたことが1:19~に記されていました。そこでヨハネは、私は救い主ではなくその到来に備えさせる者にすぎないと答えました。

そしてその翌日のことです。ヨハネは自分の方へ主イエスが来られるのを見ました。他の3つの福音書の並行記事を見ると、主イエスはヨハネから洗礼を受けるためにおいでになったとわかります。神はヨハネに告げておられました。「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」。そして多くの人々と共に洗礼を受けられた主イエスの上に、聖霊が降り留まりました。それを霊の目で見たヨハネは、「この方こそ聖霊によって洗礼を授ける人、神の子である!」と確信しました。主イエスが洗礼を受けられた出来事は、救い主としての公生涯の開始でした。主イエスは罪なき神の子ですが、洗礼を受けることによって罪人の一人に数えられ、すべての者を救う十字架の死に向けてまっすぐに進み始められました。

ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と告白します。ヨハネと主イエスは親戚であり、年齢的にも半年の違いです。母親はそれぞれ神の不思議な導きによって懐妊し励まし合った間柄でした(ルカ1章)。しかし近い関係だけにかえって、主イエスが救い主として神から遣わされた方であることがわからなかったのでしょう。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。」(26節)救い主はこんなに近くにおられたのだ…。そのような驚きを、私たちはこれから幾度となく味わうことでしょう。主がここにおられる、主は私の救い主であると気づくためには、聖霊の注ぎが必要なのです。

ヨハネの授けていた悔い改めの洗礼は、間もなく明らかにされるキリスト信仰による救いの道を備えるものでした。それに対しキリストによってもたらされる聖霊の洗礼は、ペンテコステ以後現わされる、すべての人にもたらされる救いの恵みです。キリストの十字架と復活、聖霊によって実現したこの救いを受けたすべてのクリスチャンは、聖霊による洗礼を受け、神の子どもたちとして新しく生まれさせていただいたのです。

 主イエスは「世の罪を取り除く神の小羊」です。ここでの「罪」は単数で、ねたみや盗み悪口などの外に現れる多くの罪ではなく、その行為の根本にある罪の性質を示しています。

ヨハネは何を思いながら「神の小羊」と語ったのでしょうか。レビ記には、イスラエルの人々が罪の赦しを得るために羊を犠牲としてささげ、祭司が罪の贖いの儀式を執り行うよう命じられています。しかしその時は罪の赦しをいただいて救われたと思っても、また罪を犯してしまうのが人間です。イスラエルの民は、真の救いを求め続けてきたのです。またイザヤ書53章には、私たちの病や痛み、すべての罪を、主の僕が犠牲の小羊のように担ってくださったことによって私たちは救われたとあります。そしてこれら贖いの信仰の原点には、「主の過越」があるのです。

 主イエスの時代から千年以上も前、イスラエルの民はエジプトの奴隷でした。その民がモーセに率いられてエジプトを脱出する過程が出エジプト記5~12章に記されています。神はエジプトに十の災いを下しイスラエルを解放されます。しかし聖書には、イスラエルが善であるから救われたなどということは一言も書かれていません。出エジプトは、イスラエルの民が救われるにふさわしくないにもかかわらず救われた出来事なのです。

 そのことを示すために、神はただ単純にエジプトを裁いてイスラエルの民を導き出すことをなさいませんでした。神はモーセを通してイスラエルの民に、家族ごとに羊を犠牲として屠って共に食べ、家の鴨居と入り口の二本の柱に小羊の血を塗って、翌朝まで家から出ないよう命じられました。それはその晩主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血をご覧になって、そこを過ぎ越されるからです(出エジプト記12:21‐23)。まことの神を知っていたとしても、主の御前にはイスラエルの民もまた罪人であり、エジプト人に比べて義しい人々ではありませんでした。イスラエルが救われるのは、ただ神の特別な憐れみと赦しによったのです。神の裁きはイスラエルの民を見て過ぎ越すのではありません。血を見て過ぎ越すのです。それは彼らの救いのために屠られた小羊の血だからです。

 主がイスラエルに求められたのは、極めて単純なことでした。小羊を屠ってその血を鴨居と入口の二本の柱に塗り、主が過ぎ越してくださると信じてその家に留まることです。そして私たちの救いのために主がお与えになった福音もまた、単純です。御子イエス・キリストの十字架の血によって救われると信じ、ひたすらその御言葉の約束に留まることです。私たちが聖霊を受けて新しく生まれ、「アッバ、父よ」と祈ることができるのは、ただ御子の十字架の恵みによります。奴隷であったイスラエルのように、私たちも罪とその裁きとしての死に支配され、神と人を愛することができません。かえって人を憎み、妬み、見返りを求めて愛しています。しかしこの罪を取り除くために神ご自身が用意してくださった小羊、ただ一度すべての人の罪を贖うことのできる完全な献げものとなってくださったのがキリストです(ヘブライ10章)。その小羊を、ヨハネは主イエスのうちに見たのです。

2.主のもとに行けばわかる。(39節)
「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の子羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」(35~37節)

 さらにその翌日のことです。ヨハネは二人の弟子と一緒にいる時に、再び主イエスが歩いておられるのを見ました。ヨハネは主イエスを真剣に見つめ、「見よ、神の小羊だ」と証しました。ヨハネの言葉に促された二人の弟子は、主イエスの後を追いました。弟子たちは主イエスに強い興味を持ってついていきましたが、どう声をかけて良いか分からずにいたようです。すると主イエスの方から振り返り、彼らに声をかけてくださいました。「何を求めているのか。」

主は私たちにも、何を求めてご自身のもとに来ているのか尋ねてくださいます。二人の弟子は、政治的解放者としての救い主を求めてはいましたが、本当の意味で自分が求めているものについてはわかっていなかったと思います。しかし分からなかったけれども、分かりたいと必死で求めていました。それが次の彼らの言葉に込められています。「ラビ…どこに泊まっておられるのですか」あなたは本当に、ヨハネ先生が神の小羊と言われた、待ち望んでいた救い主なのか知りたいのです…。彼らは主のもとに留まり、深い交わりを持ちたいと願いました。

私たちはこの二人の弟子のように、キリストとの交わりを真剣に求めているでしょうか。「主よ、お話しください。僕は聞いております。」サムエルのように、主が語られる言葉を一つももらさないで聞く姿勢を持ちたいと思います。主は弟子たちの願いを受け入れられ、一緒に泊まらせてくださいました。その日はおそらく徹夜で主イエスと語り合ったことでしょう。そうしているうちに彼らの心の目が開かれ、このお方は本当に救い主だという確信を与えられたのです。

 「どこに泊まっておられるのですか」と尋ねた彼らに対する主のお答えは、シンプルなものでした。「来なさい。そうすれば分かる。」そして実際に彼らは主イエスのところに行きました。二人の弟子と主イエスの会話について、くわしい様子は書かれていません。「書けなかった」というほうが正しいかもしれません。主イエスとの出会いは、「来て、わかった」というものだからです。 

主イエスを信じるには、ある程度の予備知識が必要です。二人の弟子たちはヨハネに救い主についてずっと聞かされていたでしょうし、あの方が「神の子羊」であると示されて、主のお話を聞こうと歩み出すことができました。しかし実際に主イエスにお会いしなければわからないことがあります。信仰とは、神を信頼し神のことばに従って生きることです。そこには決心が必要です。多くの人々は、分かるまでは行きません。しかし小さな私たちの力で、天地を創造された神を理解することはできません。主のもとに行くなら、分かるようになります。それが信仰の順序です。

たった一晩でしたが主イエスと共に語り合ったことによって、二人は変えられました。彼らは最初主イエスを「ラビ(先生)」と呼んでいましたが、このお方が単なる「ラビ」ではなく「メシア(救い主)」だと分かったのです。罪からの救い主であると完全にわかってはいなかったと思います。しかしこのお方は私たちのあらゆる悩み、苦しみを根本から救ってくださる方なのだと信じたのです。

私は日々主とお交わりをさせていただきながら、主の恵みを何とか皆様に伝えたいと願っています。しかし欠け多き私がお伝えできるのはほんのわずかです。皆様がご自分で主に出会われたら、人の言葉では表現しきれなかった部分、生きた主イエスの恵みとはこのように深いものなのだとわかります。それは日ごとに新しく深められていきます。信じて恵みの海に飛び込んだら、その前とは比較になりません。ぜひさらにご自身で聖書を読み、祈り、主との交わりを深めてください。心の扉を開いて主のもとに出かけていきましょう。いや、すでにここにおられる主をお迎えしましょう。

3.救い主に出会った者は、隣人を主のもとに連れて行く。(41-42節)
私たちは本日の御言葉から、「証する」ことを考えたいと思います。ヨハネのような人でなければ、証はできないのでしょうか。「クリスチャンらしさ」からはずれるような自分であることを見せたら、神の栄光が現わされない、証にならないと思う方がおられるかもしれません。しかし「クリスチャンらしさ」とは誰の目から見たものなのか、もう一度考えてみてください。証しとは、「神がどれほど憐れみ深い方か」を明らかにするものです。

自分たちの能力や努力によらず、神がただ一方的に愛し救いをお与えくださった。その神の恵みによって信仰によって救われるのが福音です。そうであるならばその神の憐み深さを証しするには、「清く正しい自分」ではなく、「この自分の「『弱さ』の中に、神がどのように働いてくださったか」を話せばよいのです(Ⅰコリント1:26~31、Ⅰテモテ1:15~16)。人の心をゆさぶるのはサクセスストーリーではなく、「失敗や挫折、弱さの先にあるもの」です。この私を贖ってくださった神はあなたも救ってくださる。それがあなたらしく「神の小羊」を指し示すことです。クリスチャンは神に似た者として変えられ続ける必要がありますが、それはありのままを受け入れていただいた者が、神に喜ばれる生き方がしたいと、おのずから神に願ってそのように変えられていくものです。私たちは光ではありません。しかしすべての人を照らすまことの光であるキリストを仰ぐ時に輝き、隣人をお導きすることができるのです。

ヨハネの弟子で主イエスについていった二人のうち、一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレでした。ずっと求めていた救い主に出会った喜びに、アンデレはいてもたってもいられなくなり、兄弟シモンのもとに急ぎました。「わたしたちはメシア――『油注がれた者』という意味――に出会った」」(41節)

アンデレはペトロに比較すれば表に出ないおとなしい人柄でしたが、主のもとに人を連れて行く賜物がありました。アンデレがペトロに語ったことは、ヨハネが弟子たちに「見よ、神の小羊だ」と語ったのと同じ証しの言葉です。ヨハネの証しを聞いて主イエスに出会ったアンデレが、今度は自分の身近な人に主イエスを証しする者となったのです。皆さん、まことに主に出会った人は、出会ってすぐその喜びを伝えることができるのです。アンデレの言葉を受けて主イエスのもとに行ったペトロは、同じく主イエスの弟子となりました。

救われた者は、自分の家族や友人をキリストのもとに連れて来るようになります。聖書について説明できなくても、教会に連れて来ることならできます。キリストに会いたいと願う人がいればだれでもキリストのもとに連れて行くのです。アンデレは普段からシモンと心の底を分かち合い、シモンに救い主を求める願いがあることを知っていました。だからすぐに導くことができたのです。私たちの大切な人を思い浮かべる時、その人が笑顔なら私たちもうれしいですし、悩み苦しみの中にある時には、その方の幸せを心から願い求めます。見えるところの幸せとともに、その方が主にお会いし真の平安と喜びを得るように。そのために小さき者ですが主が用いてくださいますように。「一緒に礼拝に行かない?」と言える関係を築くことができますように、祈ってまいりましょう。

 主イエスはシモンに、ケファという名をお与えくださいました。「ケファ」は主イエスが使っておられた地元の言葉、「ペトロ」は公用語であったギリシア語で、どちらも「岩」を表しています。その時のシモンは思ったことをすぐ口にし、感情的に行動する人でしたが、主はあえてその名をお与えになりました。それは「お前は今「岩」とは真逆だが、だからこそ神によって造り変えられる時に、岩なる神がお与えくださる信仰を証する者となるだろう。私はその信仰をこれから私が建てあげようとする教会、世界中に福音が宣べ伝えられる土台に据える」という恵みのメッセージなのです。ペトロがこのような者とされるためには、多くの失敗や苦難を経なければなりません。しかし何度失敗しても、見捨てることなく主が彼を立ち直らせてくださり、彼は岩として用いられました。私たちにも主はこのようなご計画をもっていてくださいます。感謝です。

ペトロは後にその説教を通して、三千人が一日に主イエスを信じるために用いられました。彼の信仰告白の上に教会の基礎が築かれました。そのような主の証人として使徒としての大きな働きにペトロは仕えていくのですが、アンデレはこのペトロに証をしたことを覚えましょう。アンデレがペトロを主のもとに導かなければ、今の教会も私たちもいなかったかも知れません。あなたが声をかけるその人、たった一つの小さなことが、その人を立ち上がらせ、生涯をも変える可能性があります。誰かが洗礼を受けるということは、出産に立ち会う喜びに似ていますが、それ以上の、この世が与えることのできない喜びです。神の小羊キリストを、ともに証ししてまいりましょう。

 

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