9月18日 聖霊降臨節第16主日礼拝
「イエスの涙」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 11:28~44
現在山口信愛教会の主日礼拝で続けて読んでいるヨハネによる福音書ですが、ただいま「有名なラザロをイエスが生き返らせる」箇所である11章を味わっているところです。 今回は、「ラザロの姉妹、マリア」と接されるイエスの姿が描かれた部分、そして「ラザロを生き返らせる」奇跡が描かれている箇所ですが、この部分には「聖書中で唯一、イエス・キリストが涙を流された」ことが記された25節が含まれます。早速御言葉を味わってまいりましょう。
まず28節から44節のあらすじを28節から流れを追って見てまいります。
28節から32節をご覧ください。
ここではマリアが家から出て、村の入り口までいってイエスに会いに行ったこと、その際多くの「ユダヤ人」が一緒に付いていったことが語られます。
マリアはマルタが言ったのと同じく「ラザロが大変だった時、イエスが傍におられなかったことを残念がる」言葉を発します。
続いて33節から36節をご覧ください。
姉マルタと同じことを言われたにも関わらず、イエスはマルタに「大切な復活の話を熱心になさった」のとは違い「どこに葬ったのか」としかお答えになっていません。でも、私は思います。イエス・キリストは、その表情と仕草で「豊かに語って下さっているのだ」と!
イエスは、ただ涙を流されたというだけではなく「心に憤りを覚え、興奮された」ことが記されています。何に対して激しい怒りを覚えられたのか…これまでいろんな説が挙げられてきましたが、私は「人々を悲しませる死の力に対してである」と理解します。
このときラザロはまだ若かったと言われています。長寿を全うされた方の死に比べて、若い年齢の方々の死は、理不尽さを感じて当然ですし、やり場のない怒りを覚えるものです。しかし、私たち人間がどんなに怒っても、その状況を変えることはできません。まさに「死の力の前にはなすすべがない」のが人間です。
しかし、人間の姿をとってこの世に来てくださった神の御子イエス・キリストは「死の力の前になすすべがない私たちの怒り」に対し、深く同情してくださるのです。
イエス・キリストの流された「涙」は、私たち人間が生きていく中で直面する「死の悲しみ」を共に担ってくださるお方であることの証しなのです。
36節では、周りにいた人々の声として「御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか」という言葉が記されます。この言葉はとても大事なことばだと私は理解しています。
人の死に立ち会う場面にいさせていただく時、私はいつも「イエス様は今涙を流されているのだな。そして、ラザロと同じようにこの人をも愛していてくだっているのだな」と自然に思い返しています。
続いて37節から40節です。
神の御子イエス・キリストがラザロの死に対して憤り、悲しみを悲しんで下さることは分かったとしても、その周りの人は「イエスも死の力の前ではなすすべがないと思われた」ことがこの部分で描かれています。
37節では人々が「盲人の方の目が見えるようにできても、ラザロの死は止められなかった」と呟いたこと、39節では、墓石を取り除くように言われたイエスに対し、マルタが「遺体が腐敗している」ことを気にしたことが書かれています。いずれも「イエスは死の力の前ではなすすべがないと思われていた」ことの表れです。
ここを読んでいる私達も「彼らと同じような思い」になることが多いのではないかと思います。「イエスが起こしたあの奇跡は信じられるけれど、このラザロの奇跡は信じられない」とか「死後4日も経った傷んできている肉体がよみがえるなんて、到底信じられない」という気持ちです。
正直私も、そんな思いを抱いていました。おそらく皆がそうではないかと思います。何の疑問も感じずにこのラザロの話を信じられる人は少ないでしょう。
しかしそんな私達に語られていると感じるのが40節だと強く感じます。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」
この言葉は今日最後に深く掘り下げます。
続いて41節と42節をご覧ください。
イエスはここで敢えて「天の父に対して」祈られた様子が描かれます。
御子イエス・キリストは、天の父なる神と一つであられ、共同で業を成されます。だから地上におられる間「父なる神によって願いが叶えられることを確信して」業をなされていることが分かります。
癒しの奇跡などの業を行われる際、多くは「祈った上で業がなされた」ことが記されていません。逆に祈りをささげてから業をなさったと記されている場面には「イエスの明確な意図がおありになった」と考えられます。それは「5千人の給食」の場面などがそうですが、ご自分が「神の独り子であり、神から遣わされたお方である」ことが人々に示されるためです。今回の箇所の42節からもそのことが見て取れます。
続いて今回の箇所の最後の部分、43節と44節です。
祈りの後、イエスが大声でラザロを呼ばれると、驚くべきことに「ラザロがその声に従って、墓から出てきた」のです。その体を覆っていた包帯を解いてもらったところでこの話は突然のようにして終わります。
この後ラザロが何歳まで生きたのかとか、マルタ、マリアとその後どのように生活したか…などは一切触れられずに終わっていることも、この福音書の著者であるヨハネの意図を感じます。以上今回の箇所を流れに従ってみてまいりました。
最後に今回の箇所の中で、私にもっとも迫ってきた40節をじっくりと味わってメッセージを閉じることにします。
これはマルタにだけ語られた言葉ではなく、私達一人ひとりに語られた言葉だと、今回改めて感じました。40節をもういちどご覧ください。
イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
この言葉は先週よんだ25節と26節を受けています。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて(つまりこの地上の人生において)わたしを信じるものは誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」というこの言葉を信じるなら、神の栄光を見ることができる…ということです。
色々とつぶやき、疑うことが多い私達人間の弱さをイエスはすべてご存じです。
しかし、それをご存じの上で「信じてこそ、神の栄光は見ることができる。逆に信じないなら神の栄光をみることはできない。信じないものではなく、信じる者となるように!」そのようにして、イエスは私達を招いてくださっている、そう私は感じます。
ここでイエスが言われる「信じる者が見ることのできる栄光」、それは「一回死んだ人が生き返るという物凄い奇跡が目撃できる」ということではありません。イエスが死者を復活させる力を示すことによって、人々が「すごい方だ」とほめたたえることが目的で、ラザロを生き返らせたのでは全くありません。
神の栄光・イエスの栄光とは「神の独り子が人々を救うために十字架で死なれ、墓に葬られていたその神の独り子が、父なる神によって復活させられる」ことによって表される「栄光」です。ラザロの「死からの復活」は、神の子であるイエス・キリストの十字架の死と復活をあらかじめ示すため、そしてその恵みは「信じる者すべてが受け取ることができること」を示すためのものです。
死は誰にでも必ず訪れるものです。ラザロがこのときイエスの奇跡的な業によって蘇りましたが、それは決して不死の命を得たというわけではなく、いつか必ず死を迎える日が来ることは避けられなかったことでしょう。
しかし、「ラザロを蘇らせた神の子イエス・キリストは、ご自分の十字架の救い、復活の恵みに、ラザロをも与らせて下さる」「その神の栄光を信じる者は見ることができる!」そのことが、十字架に掛かられる前の最後の奇跡である「この場面」ではっきりと示されたのです。
もちろん、ラザロやマルタ、マリアだけではありません。イエス・キリストを「私を救うために、十字架にかかり、そして死の力を打ち破って復活して下さった救い主だ」と信じるなら、彼らと全く同じ恵みに与ることができるのです。
まだまだこの箇所から私に示されていることは「沢山あり」、語り尽くせないほどの恵みがあるのですが、また召天者記念礼拝のとき、コンパクトにして語らせていただきたいと願います。
皆さまも、それまでの時、お家で何度もこの箇所を読みかえしていただくことをお薦めします。ラザロの復活は、イエス・キリストがご自分を信じる者に「肉体の死を超えた復活と永遠の命を与えて下さる」という救いのしるしなのだということを心に留めて、歩んでまいりましょう。 (沈黙・黙祷)