11月10日説教 「イエス・キリストによって強くされた人」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:テモテへの手紙Ⅰ1:12~17
2週前、私は旧約聖書申命記31章の最初の部分から「神にあっての強さとは」という題でメッセージを取り次がせていただきました。今日のメッセージともつながりますのでそこをおさらいします。 皆様旧約聖書のP330をお開きいただけますでしょうか。
「強く、雄々しくあれ、恐れおののくな」という言葉が何度も繰り返されている箇所だったのを思い出していただいたでしょうか?ヨシュアがこの時「恐れをいだいていたから」こそ、神はモーセを通して繰り返し「強く雄々しくあれ、恐れおののくな」と言葉をかけられたのだ…とお話ししました。
強力なリーダーだったモーセが天に旅立とうとしている。これからモーセ抜きで「神の示す地」に行かねばならないのです。その地には先住民もいることから、本当に不安だったことでしょう。
しかし!それでも主は確かにともにいて下さる。どんなに苦しい状況を通ることがあっても「決して見捨てられないのだ」ということが6節から8節で教えられました。神がともにいて、最善の結果に導いてくださるのです。このことを知っていること、覚えていることが「強く、雄々しい」ことなのです!
私自身、若いころは「本当の強さ」というものを誤解していましたが、病を持ち「弱さを知り、神に委ねなければならない状態になって初めて」「神にあっての強さ」を理解できた、という話をさせていただきました。
皆さんの人生の歩みの中で、この先「不安や恐ろしさ」を感じることがあっても、それでよいのです。 ご同行してくださる神に全てを委ねることで、弱い私たちが「強く、雄々しく」歩む希望があることを確認しました。
永眠者記念礼拝を挟んだ、今週、来週と引き続き「神にあっての強さ」が教えられている聖書箇所を味わうことにします。示されたのは、新約聖書「テモテへの手紙Ⅰ1:12節からの部分」です。最初の12節に、いきなり「わたしを強くしてくださった、私達の主イエス・キリストに感謝しています。」とあります。
この聖書箇所は、使徒パウロから、その弟子「テモテ」にあてた手紙の言葉ですが、パウロはどうして、「自分を強い者だ」と言い切っているのでしょうか?今日の箇所からも「聖書の教える強さ」について学びたいと願います。
今日読む12~17節までのところで、私には大きく「三つの強さの理由」が見て取れました。
このあとパウロの強さの根拠となっている「この三つの強さ」についてお分かちします。
まず一つ目は「自分の本当の姿を知っていることの強さ」です。これは13節と、15節の後半の言葉です。 両方を読んでみます。
まず13節の方から見ましょう。ここに書かれているのは、この節の後半にある通り「イエス・キリストを救い主として知る前、また信じる前」のことです。ここにある通り、パウロは「キリストを信じる者に暴力を振るい、迫害する者」でした。 パウロはその状態から「神の一方的な招き」「ダマスコ郊外の出来事」によってキリストを知り、救われたのです。その後身を粉にして伝道するわけですが、パウロは救われた後、どんなに熱心に神の奉仕をしても、もともとの自分がどんな姿だったのか、常に思い出しているのです。
キリストが救い主なんて知らなかった。知らずに迫害していた。だからもう昔のことは思い出すまい…という態度ではありません。逆に15節の後半にあるように「わたしは、罪人の中で最たるものです」と告白しています。別の訳で「罪人の頭」とあるように、「自分が一番罪深いのだ」ということを常に思い出し、心に留めているのです。
私たちは、キリストと出会う前、パウロのような迫害者だったという人はほとんどいないことでしょう。でも「自分がイエスと出会う前に、どんな風だったのか思い出すこと」は大切ではないでしょうか?
「あの人に比べたら、自分は大した罪を犯していない。私は良識ある人間だ!」と自分を誇るような態度をする人を、世の中の人々は「強い人だ」と勘違いします。しかし、それは見掛け倒しの「強さ」です。ここで教えられている強さとは、自分がこれまで犯した罪に目を背けないことによって生まれる「強さ」なのです。もともと罪深かった自分が、イエス・キリストによって特別に赦されたのだという「憐み」を深く味わうことは、「強さの原動力」だと信じます。私達もキリストに出会う前の自分の姿を時々思い出し、「本当の自分が何者であったのか」を思い返すようにいたしましょう。
二つ目の強さは「自分が神に頼らざるを得ない存在であることを知っている強さ」です。14節と15節の前半で分かります。
まず15節前半です。
この言葉は聞き覚えがあるという方も多いでしょう。これは、この後持たれる「聖餐式」で読まれる「招きの言葉」なのです。
この言葉のポイントは最後の「そのまま受け入れるに値します」という部分だと個人的に思います。つまり、神の子イエス・キリストが罪人を救うためにこの世に来られたことは「真実」なのですが、そのことを「自分のこととしてそのまま受け入れるか」どうかが大きいのだということです。
先ほど見たように、パウロはもともとキリストが救い主であることを認めようとせず、逆にキリストを信じるものを迫害していたのです。それは「自分が罪人であることを認めず、自分は善人だと思い込んでいた」からでした。
しかし、キリストに出会った後のパウロは、「自分の力に頼って生きていくことができない弱い者だ」ということを心から悟ったのです。また「自分のような罪人を救うためにこの世に来られたイエス・キリストをそのまま受け入れる以外にない」ということを悟ったのです。
そのようにして、「自分の力を捨てて、神の力に委ねることを知った」パウロは本当の意味で「強い者」となったのです。それが14節に表れています。
「主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました…」
これは自分の力に頼ることをやめて、「神の力に委ねた者だけがしる本当の強さ」なのではないでしょうか? 私達も「自分が神に頼らざるを得ない存在である」ことをいつも覚えていましょう。そうすれば「神の恵みがあふれでて」、本当に意味で「自分が強められている」ことを感じられると信じます。
最後の三つ目の強さです。それは「人生の目的を知っている強さ」です。これをお話ししてメッセージを閉じます。
パウロがキリストに出会った後「人生にどのような目的」を感じていたか、それが表れているのが12節、16節です。
まず12節です。
「忠実な者と見なして」とある言葉は、来週詳しく掘り下げます。
「務めに就かせてくださった」とありますが、具体的に神がパウロに対し「どんな務めに就かせたのか」が16節の後半で分かります。読んでみます。
『私が「この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の見本となる」ためでした』とあるように、パウロは「神から」「後から救われようとしている人々の見本となる」役割を与えられると悟ったのです。 もともとはキリストを迫害する罪人だったパウロが「救われる人々の見本となる」ように神から役割が与えられたのです。どんなに嬉しかったかと想像できます。
私たちはキリストに出会う時、ただ罪人としての自分、弱い自分に気づかされてそれで終わるのではありません。弱さを知り、神に頼らざるを得ないことを知ったからこそ与えられる務め…それが「後から救われようとする人の見本、手本となる」ということです。
私達一人ひとりは、罪深く小さな存在です。しかし主はそんな私達を「救いの恵みに満たし、大切な務めにつかせ、私達を用いて次の新しい人を導こう」となさるのです。こんなに弱く小さな私達が、主のご用のために用いていただける…それを知るか知らないか、受け入れるか受け入れないかで人生は大きく変わります。
自分のために生きるのではなく、神のために生きる。「神に用いられるために生きる」ことを理解することは、本当の意味で「主に在って強く生きる」ことにつながると信じています。 (祈り、黙想)
「忠実な者と見なして」とある言葉は、来週詳しく掘り下げます。務めに就かせてくださった」とありますが、パウロは先ほどから繰り返しているように、もともと迫害者でした。
自らが言っているように「罪人の中で最たる者」でした。そんなパウロを「神・キリストが忠実なものと見なして、務めに就かせる」とは…。神ご自身がパウロをご自身の助け人としての務めに就かせ、「忠実な者」に変え、成長させたと捉えることができると考えます。私達も、同じように神の助け手としての務めを与えられ、その務めを通して「忠実な者」へと成長させてくださるのです。
私たちは「この世で何の職業に就くか」ということより、「神ご自身が召してくださり、そのお手伝いをさせてくださり」ことの方が人生を支える強さになるのではないでしょうか?
この世での職業は変わることありますし、生涯ずっと続けられることはほぼありません。でも神ご自身が召して、成長の機会ともさせて下さる「神を助ける働き」は一生続くのです。