「イエス様と食べ物」11/21隅野徹牧師

  11月21日 降誕前第5主日礼拝
「イエス様と食べ物」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書6:1~15



説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今日は、教会で年に一度もっている「収穫感謝礼拝」です。私たちに日々の食べ物が与えられていることに改めて感謝し、神様に生かされていること、周りの人に支えられていることを覚えるために大切にしています。

 さて今週の収穫感謝礼拝で一緒に読む聖書箇所は、イエスさまが5千人以上の人に食べ物を与えられた箇所です。今、毎日曜日の礼拝ではヨハネによる福音書の箇所を続けて読んでいますが、1章からここまでのヨハネによる福音書の箇所は、イエスさまが「全知全能の神である」ということが、だんだんと迫るかたちで語られてきました。今回の箇所も、人間の姿をとってこの世に来てくださったイエスさまが、「すべてのことがお出来になる神様」であり、私たちにとって「命の源」とも言えるお方であることを教えています。 場面を聖書の言葉をともに味わっていきましょう。

まず今回の聖書箇所のあらすじをお話しします。

イエス様は弟子たちとガリラヤ地方で、多くの人に神の愛を伝えました。そしてかなり頑張った弟子たちと一緒に休息をとり、再び多くの人に「神様の愛を伝えられるように」に励むことができるように。「ガリラヤ湖の反対の町」の周辺に人のいない場所で静まろうとしていました。 しかしそこにも多くの群衆が押しかけてきたのです。それは「私も病気を治してほしい!」という目的でした。

弟子たちだけでなく、イエス様も大変お疲れだったと思われます。しかし!ご自分を犠牲にしてでも人を救おうとされるお姿が表れているのです。ご自分は何も悪いことをされていないのに、すべての人間を罪から救うために十字架に架かって「犠牲になってくださったイエス様」の愛が、この場面でも表れているのです。

さて、ここでイエス様が群衆に対し何をなさったのか…同じ場面を描いた他の聖書の箇所では「神の国について語った」と書かれています。追いかけてきた多くの人は「病を癒してほしい!」と願ってきた、または「奇跡をこの目で見てみたい」と興味をもって出かけてきたことが予想できます。しかしイエス様は癒しという「奇跡の業」だけで終わらず、神の国について「力強く」語られたのです。 

イエスさまは、相手が「病気がなおったことで『ラッキーだな』と思うようにはされないのです。 癒しという行為にも「そこにこめられた意味、神の愛だったり、やがて私達が行くことのできる神の国・天国」とつながっていることをきちんと教えられるのです。 

この後、「食べ物の奇跡」を見ますが、これも同じです。ただで食べ物がもらえて「ラッキーだな」としか感じることがないように、その奇跡を通して、群集が大切なことを考え、胸に刻めるように望んでおられることを覚えましょう。

さて、集まった人たちは時間が経つのも忘れてイエス様の話を聞いていたのです。そして、いつしか食事をとる時間になったのです。周りにお店などありません。追いかけてきた人々は勝手についてきたのだから、「みんな帰りなさい。それぞれで食べ物を確保してください!」と言ってよかったでしょう。

しかしイエス様は、勝手についてきた一人ひとりを心から愛し「食べ物のことを心配してくださった」のです。

14節に5,000人以上の人々が人里はなれた場所にいたことが記されています。ですので、5000人を食べさせる食べ物がない状況でした。それに対し、弟子のフィリポは「お金がいくらあっても足りっこないですよ!」という答えをします。

そんなとき一人の少年が弟子のアンデレに「パンが5つと魚が二匹」を差し出しました。でもアンデレは「たったこれだけではどうしようもない」というような言葉をいいます。無理だ「あきらめるしかない」というようなこの状況で、主イエスは道を開いてくださるのです。

私たちも目の前の現実に対して「打つ手がない」と考えてしまう時があります。しかし、そんな状況でこそ、主の業は表れるということを覚えたいと思います。      

 さて、どのようにイエスさまが、5千人以上の群衆に食べ物を与えられたのでしょうか。それが10節から13節にあります。(※よみます)

イエスは人々を草の上に座らせました。そして特別な事をされるのです。天の父なる神様に祈られ、そこにあった食べ物、つまり5つのパンと2匹の魚を祝福されました。その後食べ物を人々に「欲しい分だけ」渡されました。人々は食べて、満腹しました。ちょこっとずつ食べたのではないのです。食事の後、残ったパンの屑を集めると、十二のかごがいっぱいになったのです。

実際にどうやって食べ物が増えたか、その解明は誰にもできません。しかし神様に不可能はありません。今日の箇所もイエス様が「神様だからこそ!」この奇跡を起こすことができたことを聖書は何より伝えているのです。

 残りの時間、今回の聖書箇所から、収穫感謝礼拝の今日、私たちが覚えたい大切なことをいくつかお話しします。

①まずイエスさまが、ただ「よい教えを伝えるだけの方ではなく」、私たちに食べ物など「生きていくためのすべての物」を与えることのできる方であるということを覚えましょう。

私たちはとくに「日々食べる物」を、自分の力で獲得しているかのように思ってしまってはいないでしょうか?しかし、今回の箇所が示すように、食べ物は「神様、イエス様が、私たちのことを気にかけてくださり、憐れんでくださり、与えてくださるもの」なのです。そのことをまず覚えましょう。

 ②次に覚えたい大切なことは、「食べ物をいただくとき、何も考えず、無意識に食べるのではなく、大切なことを考え、思い出すこと」です。

 イエス様は、群衆をきちんと座らせ、御自分がしっかりと祈られたあとで、食べ物をお与えになりました。 次々と食べ物を増やして、「とりあえず群衆の腹を満たしてやろう!」とか、そのような食べ物の与え方はされていないのです。

 しっかりと、「誰が食べ物を与える方なのか」を理解させ、祈りをし「感謝の気持ちをもって」きちんと食べることを教えておられる姿を心に留めましょう。

 私たちも、形上「食前の祈りをして」ご飯をいただいていることでしょう。しかし、とりあえず腹を満たそう、というように何も考えずにご飯を食べていることはないでしょうか? 私は正直、そのようなときがあります。

 しかし、今回の箇所で主イエスが、群衆をきちんと座らせ、全員そろって祈りをしてから「食事を与えられた」その場面を思い出しましょう。 私たちは毎日、感謝なことにいろいろなものを食べて生活しています。しかし、それは当たり前のことではありません。イエス様が私たちに食べ物の心配をしてくださり、そして与えてくださっていることを覚えていましょう。

③最後に覚えたいこと。小さな私たちが「多くの人の命を生かすことに」用いて下さることです。

 イエス様はなんでもできる神様です。他の箇所に書かれているように本当は「その辺に落ちている石ころ一つをパンに変えることのできるお方です。でも!そうされなかったのです。 何かを使って奇跡をおこされましたが、それは何でしたか?

 差し出した少年のことは、詳しく書かれていませんが、きっと「自分が差し出したものを、イエス様が用いて下さった」ことを喜んだでしょう。そしてこの感動を忘れないで大人になったのではないかと思います。

 私たちの持っているものは少ないです。でも「イエス様のお役にたててもらいたい」という思いでささげることが大切です。

少しの献金や募金でも、またフードバンクのような「食べ物をささげる活動」でもイエス様は何倍も大きな祝福を与えて下さるということを今日の箇所から覚えていましょう。自分さえ良ければよいという生き方ではなくて「みんなで共にいきていく」ことを聖書全体で教えていますが、今日読んだこの箇所もそうなのです。

今3つのことをお話ししました。収穫感謝礼拝の今日、大切なこととして覚えてくれることを願います。(祈り)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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