「キリストと共に過ごせる時間」10/2 隅野徹牧師

  10月2日 聖霊降臨節第18主日礼拝・聖餐式
「キリストと共に過ごせる時間」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 12:1~8

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 今週の箇所はマルタの妹「マリア」が、自分の兄弟ラザロを生き返らせてもらったイエスに対して、精一杯の感謝や愛をあらわした箇所」です。「高価なナルドの香油をイエスに注ぐ話」として有名な箇所です。

皆様の中には、先ほどの朗読をお聞きになって「何回も読んだことがある」と感じられた方も多いでしょう。実はこの物語はマタイ28章と、マルコ14章にも描かれていて、読む機会もそれだけ多い箇所だといえます。

しかし、ヨハネによる福音書のこの箇所で「マタイ、マルコ」の記述と明らかに違うことがあります。それが「イエスに精一杯の感謝を表した女が、ラザロの姉妹マリア」であること、一方「こんなお金の無駄遣いするぐらいなら、貧しい人が救えたではないか」ともっともらしい指摘をした人物が「イスカリオテのユダ」であることを、はっきりと示している点です。

今朝は、ほかの福音書との違いもお伝えしますが、皆様には「福音書記者のヨハネが、この出来事を記すことによって、大切なこととして何を伝えようとしているのか」を感じ取っていただきたいと願います。読み進めてまいりましょう。

まず1節2節をご覧ください。過越し祭の6日前のこと、マルタ、マリア、の姉妹と共に、イエスによって死からよみがえったラザロが一緒にいたと、ヨハネは描きます。他の福音書と描き方が違います。

2節では姉のマルタが「給仕していた」ことが書かれ、他の箇所の記述と同様に「テキパキと動く」様子が描かれます。一方の妹マリアは「給仕の手伝いをするのではなく」ある行為をします。それが「イエス・キリストに香油を注ぐ」という行為なのです。3節と4節を読んでみます。

 ナルドの香油というのは、大変高価なものだったようです。1リトラというのは大体缶ジュース一本分ぐらいの量だそうです。しかしたったそれだけで、今のお金に換算すると約300万円の価値があったそうです。

他の福音書では「壺を割って一気に頭に注いだ」と書かれますが、ヨハネの記述では、食事をとられている最中であるイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったとあります。この描き方も特徴的です。

 この状況でユダが彼女をとがめたとヨハネは語ります。4節から6節をご覧ください。

ユダの言っていることはもっともな「正論」です。けれども、ユダは自分自身が、貧しい人々に心をかけていたのではないようです。6節にはユダが「理想的なことを発言したりするなど、見た目は立派な人に見えていても」イエスの教えに従おうとしていたわけではないことが描かれます。いわゆる「口だけ立派」な人だったとヨハネは語っているのです。

聖書は「口で立派なことをいう」ことよりも、「人間の目から見て立派に見えなくても、神に委ねつつ無駄と思えることを行う」ことを推奨していますが、この箇所もまさにそうなのです。

 イエスはマリアの行為を受けとめました。そして、ユダを注意されるのです。そのことが記されている7節8節を読んでみましょう。

「あなたの行動は間違っている!もっとこうすればよかった」そのようなもっともらしいことは口ではいくらでも言うことができます。一方で実際の行動は「完全にただしいこと」は人間だれにも行うことはできないものではないでしょうか。

私達は人間の勝手な「評価」そして「批判」のために、どうしても行動が委縮し、歪められてしまいます。人から「だめだ。間違いだ」といわれれば落ち込む私たちです。「自分はよかれと思ってやってきたけど、結局ダメだった」というような気持ちにさせられることは多いのではないでしょうか。

しかし!そんな私達に対してこの聖書箇所はかたります。「人間の行為の評価は人間自身がするのではない。私達の救いのために「御子を葬る」ことを備えたもう神と、その独り子だけが本当の意味で人間の行動を評価できるお方だ」ということ。

そして「評価できるその方は、人間の目から見て、非常識にみえてしまうマリアの行為さえも、信仰ゆえにした善い行いだ、と認めて下さる」ということです。

私達の心の中をご存じのイエスは「私を思って、彼女は出来る限りのことしてくれたのだ」と理解してくださるのです。イエス・キリストが、このような御方であるということは、何と嬉しいことでしょうか。

私たちが祈りつつ、する行いも、人によっては批難の対象になるものなのかもしれません。そういう意味で「誰をも納得させる、完全な行いや奉仕などない」といえます。 しかし、イエスは、「いや、あなたが私を愛し、良いと思うことを、出来る限りを尽くしてしてくれた」と仰ってくださるということが、ここで示されるのです。

このようなイエスだからこそ、私たち教会につながる者たちは「人間の目から見て結果が出ていない」と批判されても、それでも祈りつつ、精一杯善いことをやっていこうという情熱を失わないでいられるのではないかと思います。 

山口信愛教会も、新たにキリストにつながる方を生み出すべく「いろいろな取り組み」をしていますが、はっきりいって「人間的なものさしでは」結果が出ているとはいえない状態だと認識しています。

しかし人間的にみて「うまくいっていないように見える」ことも、本気で祈りつつ、神に向けて奉仕することを積み重ねることが大切なのではないでしょうか?とくに教会学校行事について、今回の箇所は大切な示唆を与えてくれるように思います。 

人間の目から成功か、無駄に見えるかではなく、祈りつつ神がよろこばれることを追い求める教会でありたいと願います。

さて今日もっとも中心的にお話ししたいのは、説教題につけた通り「イエス・キリストに対して、私達の与えられた時間」ということに関してです。

イエス・キリストは、マリアのしたことを喜ばれているのですが、なぜ喜ばれたのでしょうか?

今回私が気づかされたことがあります。それはマリアが「イエス・キリストがこの後十字架にかかって死なれる」ことを霊的に悟って、この行いをしたのではないのではないか…ということでした。

マリアは確かに「神の言葉に耳を傾け、神の御心を探り求められる」人だったと思います。でも「この時に」、高価なナルドの香油を注いだ理由は「兄弟ラザロを救って下さった感謝をイエスに表すため」そして、「イエスをおいて他にわたしの救いはない」という信仰を表すために「油注ぎ」をしたのだと考えます。

それ以上以下でもない。あくまで「今このとき、神の子イエス・キリストのために何をすべきかを良く祈ってした」それが「イエスに油注ぐ」ということだったが、そこに「イエスの葬りの準備というつもりはなかったのではないか」と思わされたのです。       

しかし!葬りの日が何時か分かっていたとしても、分からなかったとしても、この時マリアがイエスへの信仰と感謝をもって素直にした「行為」を、イエスは「葬りの準備をしてくれた」という言葉をもって感謝して受け取られたのです。人間の目から見て非常識な行動、しかしそれをイエスご自身が御心に適うものにしてくださったのだと理解します。

つまり、マリアが、この時神の子のために何をなすべきか、一生懸命祈り求めてした行為が「イエス・キリストの十字架による救いの業」のために用いられたのです。

8節でイエスは「わたしはいつも一緒にいるわけではない」と言われます。もちろんイエスはどんな時も私達と共にいてくださいますが、この言葉には「今のこの時を大切に生きなさい」「この時、何をすべきなのかを神にしっかり祈って行動しなさい。」という意味が込められていると感じます。

後先を考えすぎるのではなく、心を込めて「今できる精一杯のことを、神にあって行う」それがこの箇所からもっとも教えられるとことだと私は理解します。

その精一杯を神は評価してくださり、御業のために用いて下さるのです。

人間の評価に流されないで、「マリアのささげものを善しとして下さり、御業に用いられたキリストと神に心を向けて」今この時に、なすべきことを成してまいりましょう。
(祈り・沈黙)