「自分で背負いすぎない働き人」10/9 隅野徹牧師

  10月9日 聖霊降臨節第19主日礼拝・神学校日礼拝
「自分で背負いすぎない働き人」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書10:25~37

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 今年の神学校日礼拝ですが、祈りのうちに示されまして、「善いサマリア人の話」の箇所から語らせていただくことにしました。それは現在、「神学生として学びを始めようとされている方々に対して、求められること」がこの箇所に表されている、と感じるからです。

先日、今年のぶどうの会として「クリスチャン版ACP」つまり「アドバンス、ケア、プランニング」を学びましたが、病気・ケガのケアや、高齢による介護などについて、ご本人やご家族だけでなく「教会が関わって」将来の意思決定を支援することが求められるようになりました。教会が「弱さを覚えている人々に寄り添う」ということに一切ノータッチということは考えられない時代となりました。

私が神学校で学び始めた2003年ごろ、「人に寄り添うこと」が献身の動機になっていた人はだれもいなかったように思います。「人に福音を伝える」「その伝えるための学びをする」ことに重点が置かれていました。このように献身しはじめの人、神学校で学び始めようとする人に対して、求められている者が少しずつ変わってきているように思うのです。

もちろん、これは「献身する人、牧師・伝道師など教職だけが負えること」ではありません。教会全体で「人に寄り添い・支える」働きを担うことが必要不可欠です。

今朝、皆さんには「これから伝道・牧会の最前線を担う教会教師が生まれるように祈る」思いを持っていただくとともに「これからの教会教師を自分なりに支える」思いを持っていただいたら幸いです。

「善きサマリア人」のストーリーを既によくご存じでも、今朝「新鮮な気持ちでここを読み、今までにない新たな理解が皆さんに与えられることを」望みます。

まず、この「善いサマリア人のたとえ話」を語る相手について、分かる25節を読みます。

分かることは2つです。①一つ目、彼は「律法の専門家だった」ということです。旧約聖書の掟をよく学び知っていたのです。そして②つ目は、その前の場面から彼はイエスの話を聞いていたということです。「すると立ち上がり」というのは、この直前の17~24節の場面でイエスの話を聞いていて、そして「イエスに質問したのだ」ということです。「神の恵みは、知恵ある者や賢い者にではなく、幼子のような者に示された」と言うイエスの言葉に反発を覚えた。だからイエスを試そうとして「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたと考えられます。

 しかし!全能の「神の子である」イエス・キリストは 彼の心の中をすべてご存知の上で、逆に彼に質問します。それが26節です。

彼が律法の専門家であることを知っていて、彼の律法理解の深さを知り、その答えから自分で考えられるように導くようにされました。それで律法の専門家は、即座に答えます。それが27節です。

「『心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思いを尽して、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。これに対してイエスはすぐに「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と答えられました。

この28節のイエスのお答えですが「正しい答えだ。」だけで終わっていないところが大切だと考えます。イエスは、彼に足りないものが何かをお教えになっているのです。足りないのは「神を愛する心に基づく隣人愛の実行」だとはっきり分かります。

新約聖書ヤコブの手紙の1章22節に「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」とある通り、律法を良く知っているだけでは意味がありません。もちろん神の御心を示す「律法」を人間は完全に行うことはできません。しかしながら、「欠けを感じつつも、神の御心を行おうと努力する」ことが大切です。

神学校もただ「学ぶだけ」の場にならないように、とくに「隣人愛を行うとはどんなことなのか」それを問い続けられる場である様ぜひ皆様祈ってお支え下さい。 

続いて29節です。 律法の専門家は「自分を正当化しようとした」とあります。

イエス・キリストは全能の神の子です。そのお方が「隣人愛を実行しなさい」と愛をもって諭されたのに「私は神と隣人を愛している。その私に、実行していないと言うなら、一体だれを愛していないって言ってみろ!」そんな気持ちでイエスに「では、わたしの隣人とはだれですか」と問うたのです。

その「反抗的ともいえるこの問いかけ」に応えて、イエスは「善いサマリア人のたとえ」をイエスはお語りになったのです。 たとえ話の中身は30節から35節です。(追ってみてまいりましょう)

まず30節で「一人のユダヤ人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われ、半殺しにされた」という話の舞台設定がどんなものであるのかが語られます。

31節ではそこへ「祭司」と「レビ人」が通ったと教えられます。レビ人は祭司の働きを補助する人々で、レビ人の中から祭司が任命されます。言わば彼らは「律法をよく知っている人々」はずの人々です。ところが、31節と32節で「彼らは道の向こう側を通って行ってしまった」と教えられます。

 そして33節、半殺しのユダヤ人を助けたのは「サマリア人」だったことが語られます。ユダヤ人とサマリア人とは歴史的な理由があって、非常に仲が悪いのです。

 しかしこのたとえに登場するサマリア人は「倒れているユダヤ人」を助けました。手当をし、宿屋に連れて行って介抱し、宿代を支払い、超過分さえ払うと言ったと教えられます。そしてイエスは「祭司とレビ人と、サマリア人の中で、だれが襲われた人の隣人になったか」を、対話の相手である「律法の専門家」に考えさせます。このようにして改めて「隣人愛を実際に行いなさい」と愛をもって教えられたのです。

 このたとえ話を理解する上で欠かせないのが「律法が、祭司は遺体に触れてはならない」と教えていることです。

祭司やレビ人が、血まみれになって倒れている人が倒れていても「死んでいるかも知れない」と思ったら、近寄らず、道の向こう側を通って行くことは十分考えられます。それは「倒れている人を助けないことを正当化するために、律法を持ち出せた」ということにもなるのです。

  一方で律法を知らない「サマリア人」は、「人助けをしないでも自分を正当化できるものを持っていなかった」のですが、しかしそれでも律法の中の一番要である「隣人愛」を実行したのであります。

 イエスがこのたとえ話をされている「その相手である、律法の専門家」も自分を正当化しようとしていたのです。

「律法を学んでいる、知っていることをいいことに「必要な助けをしないのに、悪かった…と自分なりに反省することもせず…逆に自分を正当化しようとする、譬え話中の祭司やレビ人」このたとえ話をされて律法の専門家はきっと耳が痛かったことと思います。

自分を正当化する人間的な賢さを捨てなければ隣人を愛することができない!そのことがこの箇所から教えられるのではないでしょうか?イエスがなさった「善いサマリア人のたとえ」話を通して、「自分を正当化せず、謙遜の心を持つこと」それが隣人を愛することへの入口であり、そのことと繋がっている「永遠の命への入口」なのだ教えられている…そう私は理解します。

 私隅野徹が神学校で最も学んだことは「聖書や神学の知識」「説教や伝道のテクニック」ではなく、「自分の本当の姿」ということだったように思います。私がいかに「愛がないのか」、自分の力で善い行いを成せない者なのか…そういうことだったと思います。

 私が今神学校で学ぶ人たち、これから学ぼうとしている人たちに望むこと、それはは「知識を詰め込んで変に頭でっかちになるより、人間的な賢さを捨てて、愚直に隣人を愛そうと志してほしい」ということです。皆さんも同じ思いをもって祈って下さったら幸いです。

 最後に、「善きサマリア人のたとえ」からこれからの時代の「献身者」と「それを支える人」に対してのメッセージで、「とくに大切だ」と私が感じたことをお分かちしてメッセージを閉じます。

「信徒の友10月号 大阪教会の牧師で淀川キリスト教病院の精神科医でらっしゃる久保田拓志先生」が書かれた「善いサマリア人から読む隣人の自由と教会の交わり」という文章を一部読ませていただきます。

「サマリア人のしたことは、傷の手当てをし、宿屋に運んで介抱し、宿屋の主人に必要なお金を支払うことでした。

 サマリア人の行いをイエスは具体的かつ、詳細に語っています。その真意はわかりませんが、詳細に語ることでイエスは「サマリア人がしたことと同時にしなかったこと」も告げたかったのではないでしょうか。

 サマリア人の行いは大変な親切だと思いますが、後のことは宿屋の主人に委ねました。このサマリア人はもともと立てていた旅の予定に狂いが生じたかもしれませんが、でも自分の旅を止めることはしませんでした。ここに隣人になることの自由と限界設定があるように思います。

 また一人ですべてを背負う必要のないことも教えてくれます。善いサマリア人から病気の人の介抱を託された宿屋の主人にも「隣人になる機会」がめぐってきたのです。

 隣人になることは「隣人にされる」という受け身的な側面も持っています。たとえ自発的でなくても、嫌々であっても「寄り添うこと」は、隣人にされるという神様から与えられた恵みだと思います。

 いかがだったでしょうか?

善いサマリア人が、自分で全部を背負わず、宿屋の主人に任せたように、牧師が何でもかんでも背負ってしまうのではなく、周りの人に手伝いをお願いすることは大事ではないでしょうか。

大昔の日本の牧師像は「すべてを一人でこなす超人的な人」だったかもしれませんが、今は「周りの人を生かす。主にあってだれかの隣人になる機会を与える」ことが求められていると私は思います。

善いサマリア人の働きには「宿屋の主人」が不可欠だったように、これからの伝道には「目立たなくても、宿屋の主人のような働きを成す」信徒の働きが非常に重要だと考えます。 これから伝道を担う人々を「何かの形で支えて」、多くの方の隣人になる、そのことを皆で考えてまいりましょう   (祈り・沈黙)