「主の光の中を歩もう」1/7 隅野徹牧師

  1月7日 降誕節第2主日礼拝・聖餐式
「主の光の中を歩もう」隅野徹牧師
聖書:イザヤ書 2:1~5

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 新年1回目の主日礼拝を迎えました。元旦礼拝には出席できなかった方も多く、今朝が新年最初の礼拝出席、という方もあるでしょう。改めてこの1年も神のみ言葉である「聖書」からのメッセージを通して、養われてまいりましょう。

 今朝味わいます箇所は、イザヤ書の2章の冒頭の部分です。

2節に「終わりの日に…」という言葉がでてきます。新共同訳では、小見出しに「終末の平和」とありますが…今年のクリスマス、そして年末・年始に私が示された御言葉のテーマが「キリストにある、私たちの終わりの時」に関することでした。

 そして皆様の前で、何度もお語りしたのは「終わりの時は、悲しみの時」なのではなくて「神の御心が実現し、私たちが神と一つとなれる、感謝なときなのである」ということです。

今回の箇所では、イスラエルの民として、ダビデの子孫としてお生まれ下さった、イエス・キリストを通して「神の教え、御言葉が広がり」そして、全ての人が「違いを超えて、一つとなる」また「人間の罪による、愚かな戦いが終わりを迎える」ということが教えられます。

 新しい年になっても、世界の紛争は収まるどころか、むしろエスカレートしている印象です。また大きな災害が起きてしまい、「苦しんでいる方々に少しでも心を寄せて、共に生きていきたい」ということを思われた方も多いと思うのです。そのような思いをもってくださっているなら、今朝の聖書箇所は、きっと皆さんにとって「力になる」と信じます。ぜひ聖書が語ろうとすることに、心の耳を傾けて、み言葉に聞いてまいりましょう。

まずは「イザヤ」がこの預言を語った背景について、そこから私たちは「何を自分に適用するのか」ということについて、少し話させてください。

イザヤは、紀元前8世紀、イスラエルが二つの国に分かれて対立していたころ、ユダ(南イスラエル)に対して、神からの言葉をまっすぐに語った「預言者」です。当時ユダには「宮廷の中で王に対して進言する預言者が多数いたと言われていますが、多くの預言者が王や指導者たちの権威を恐れ、「彼らに都合のよい進言」をしていたのに対して、イザヤや、ミカ書を預言したといわれる「先輩の預言者ミカ」などは、ストレートに神の言葉をかたりました。

神の民でありながら、神に背いた歩みを続けていたユダ(南イスラエル)に対して、「悔い改めを促す神からの言葉」を伝えています。

今朝の聖書の言葉でとくに有名なのは4節の「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする…」という言葉ですが、実はこれはミカ書41節からの部分にも「ほぼ同じ言葉」が出てくるのです。

神から示されたメッセージが、ミカとイザヤの間で共有されているのです。それだけ当時のユダの国が「隣国に対抗するために、剣や槍を増やして、軍事力を高める」ことにばかり気を取られていたということの表れです。

一方で肝心の民たちの命が蔑ろにされていた。そんなとき!神はイザヤやミカといった「心ある預言者たちを通して、戦いをやめよ」と繰り返して「語り続けられた!」のです。   

これが、イザヤ書2章の語られた背景ですが、まさに今の世の中と重なるのではないでしょうか?そして、今の世の中で「神が何を語ろうとされているか」ということと重なるのではないでしょうか?

 今の世界では、人間同士が武器を使い、醜い殺し合いをする…ということがなかなか止まりません。その一方で、「傷つき、苦難の中に身を置かれている人々」があります。戦地もおられるだけでなく、いまこの日本にもたくさんおられます。北陸にだけでなく、私たちの身近なところでも、「苦しみを負った方々」はたくさんおられます。

 神は「戦いをやめよ、そして人を傷つけたり、命を軽んじたりするのは止めよ」そして「武器など、人を傷つけるものをすてて、人々の命を養うものを作れ」というメッセージを、「特に、ご自身を信じる者に対して」発し続けられていると私は思うのです。

ここにおられるお一人おひとりも「イザヤやミカ」のような務めを期待されていると思うのです。この世での働き、役目、立場は違いますが、それでも「主のみこころを、この暗い世の中にあって!」積極的に語ってまいりましょう。そのことで世界は一歩ずつ平和に「近づく」と信じます。

前段階の話が長くなりましたが、ここから節を順に追ってみてまいりたいと願います。

(まず13節を読んでみます)

2節には「終わりの日、主の神殿の山が他の山々の頭として堅く立つ」と記されています。実際の神殿の立つ山はエルサレムのシオンの山ですが、3節には諸国の民が、「その山に登って、ヤコブの神の家に行こう、と声をあげる」との預言がなされるのです。

もちろんこれは「現世のエルサレムが栄光に輝き、世界から人々が集まってくる」という意味ではなく、「救い主として、エルサレムに来られるお方」つまり「イエス・キリストをとおして」、神は諸国の民たちに道を示される。諸国の民がエルサレムにやってくるのは、イエス・キリストを通してなされる救いの恵みの預言がここでなされるのです。

続く4節には「キリストをとおして、諸国の民たちが集められて、世界がどのようになるのか」の預言がなされています。

4節を読んでみます)

イザヤがこの預言をかたった当時、アッシリア帝国が強力な軍事力によって当時のパレスチナ、アラブ世界の支配を確立しようとしていました。しかし、神はイザヤをとおして「ご自身こそが争いを裁かれ、武力によって世を支配しようとする者を戒められるのだ」ということを強く!語られたのです。  

その神の御心を具体的に表す言葉として「彼ら、つまり救い主を中心に集められた者たちは、剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とするのだ」という、ミカとイザヤが共に語った言葉があるのです。

 神が争いの根が断ち切られる、だから戦いのための武器は必要がなくなるのです。このイザヤ書24節の言葉は、ニューヨークの国連本部の正面の壁に英文で刻まれているそうです。

 当時のイスラエル、ユダが「軍事力をもった大国アッシリアの影響をもろにうけてしまって、軍事力をあげることで、国を維持しようと考えてしまった」ように、現在の世界も、「軍事大国に対抗するためには、高性能の武器をもつことが何より大切なことだ」という考えが蔓延しています。

そんなこの世にあって「軍事力には、軍事力でしか対抗すること」の愚かさを私たちも伝えていきましょう!

人間全体が完全な意味で「もはや戦うことを学ばない」ことが実現することは、この世では到底無理に感じてしまいがちです。しかし神の御心によって「平和が実現する、神の時、終わりの時」は、今現在の「時」とつながっているのです。

私たちは、たとえ小さな一歩でも、神の御心をなす者として生きてまいりましょう。

最後にのこった5節を味わって、メッセージを閉じます。

 イザヤは、ユダの民に向かって、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と呼びかけます。「主の光の中を歩む」とは、神の御心に従って生きるということです。では神の御心とはなにか…というと、私は「神を愛し、隣人を愛して生きることだ」と理解します。

当時のユダは神のみこころを尋ね求めることよりも、世の中のことを優先していました。とくに大きな関心事だったのが、先ほどからお話ししているとおり「諸外国に軍事力で対抗すること」だったのです。

一方、神が招かれる「光の中を歩むこと」とは、そのような「人を恐れ、人の力に頼る生き方」の真反対だということが、今回の箇所から示されるのではないでしょうか。

人を傷つける道具ではなく、人の糧をつくるための道具を増やし、そのために労を惜しまない…それが「神を愛し、隣人を愛する生き方」であり、「神が喜ばれる、光の中を歩む歩み」なのです。

愚かな「戦争」という行為はなかなか地球上から無くなりませんし、傷つき、苦しむ人は増える一方です。「自分の無力さ」を感じることも多いでしょう。

そんな2024年の最初だからこそ、私達も「ミカ、イザヤ」と語り継がれ、イエス・キリストのご降誕後、代々のクリスチャンたちが「キリストにあって、将来与えられる希望」として大切に語り継いだ、「この言葉」を語り、この言葉に生きることの重要性を痛感します。

 この1年もどうぞ「主の御言葉をきき」「周りの人々を愛して」光の中を歩んでまいりましょう。(沈黙・黙祷)