2月16日説教 「人をゆるさない私達の罪をも」(降誕節第8主日礼拝)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:ルカによる福音書15:25~32
今朝は3回に分けて読んできた「放蕩息子のたとえ話」の最終回です。また大切な教えが続いていたルカによる福音書15章の最終回です。題に付けたそのままのテーマを語ります。 私たちは「神から赦された恵み」を知りながらも、どこかで「人が罪を犯しているのを見ると赦せなくなる」のではないでしょうか?
最近インターネットやSNSで「悪い行いが見えた人を叩く」ということが横行しています。それだけ人間、とくに日本人が「懲罰意識」が強いことの表れですが、こういう心は「神によって癒される必要がある」と私は考えます。
私は証しなどで自分のことを「放蕩息子の兄のようだった」と表現することがあります。ここにおられるのは真面目な方が多いですので、ご自分が「この話の兄だ」と感じられたり、「この兄の気持はよく分かる」という方は多いのではないかと思います。しかし、今日の御言葉を通して、私たちの曲がった「懲罰意識」が変えられることを願っています。
まず、今日の箇所の25節以下を詳しく読む前に、イエスはこの譬え話を誰に対して語っているかを確認します。それはイエスを批判しているファリサイ派の人々や律法学者たちに対してなのです。15章の1節と2節を見ると、イエスの話を聞いてせっかく悔い改めようとしていた「徴税人や罪人たち」のことをファリサイ派律法学者たちは「軽蔑するだけでなく排除しようとしていた」ことが分かります。そんな「ファリサイ派、律法学者の人々に向かって」、イエスはまず「百匹の羊のうち一匹を見失った場合のたとえ話」をなさったのです。そして「10枚持っている銀貨を無くした場合のたとえ」をなさったのです。
他に99匹いようとも「一匹の羊」がかけがえのない存在である、そして他に9枚もっていようとも見失った一枚の銀貨が大切であることは間違いありません。
そのことを通して天の神も、徴税人や罪人たちに対して同じ気持ちを持たれているのだということを教えられたのでした。ファリサイ派や律法学者たちにとって「徴税人や罪人たち」は掟を守れない罪人だから神から見捨てられるべき人々だと考えていましたが、神にとって「徴税人や罪人たち」は失われては困る、本当に大切な命だということを教えようとされているのでした。
そしてもう一つ大切なことが、イエスに反抗的で、その言葉を聞こうとしなかった「ファリサイ派や律法学者たち」もまた、「神のもとから失われた存在なのだということでした。彼らもまた「神は愛にゆえに連れ戻したいと願っている」ということに気づいてほしいと願いイエスは語られているのでした。
このことを頭にいれて「兄の記述」をよむと、大切なことがさらに迫ってくると私は思います!
前段階の話が長くなりましたが、今日の箇所の25節から32節を読んでまいりましょう。
この部分では兄息子のことが語られます。弟息子が、主に「徴税人や罪人たち」を譬えているのに対し、兄が譬えられているのは主にファリサイ派や律法学者の人たちだと理解されます。 このたとえ話を中心になって聞いていた彼らに対してのメッセージがここに詰まっているのです。 それは「反抗的な態度をとるあなたたちもまた、神にとって大切な息子だ」ということなのです。
さて今朝はこの箇所から「兄をどんな人としてイエスが譬えられているか」に注目してみることにします。 兄について、つまり「兄が譬えているファリサイ派、律法学者たち」について分かるいくつかのことをみていきましょう。
まず一つ目は25~27節です。この部分を目で追って見て下さい。
ここから分かること。それは「兄息子と父親の関係が正常でないこと」です。普通父親が祝宴を開くなら誰かを介さずに気づくことでしょう。そして何かで気づいたなら自分の方から近づいて行って「祝宴に加わっていいですよね?」というはずだと私は思います。
兄息子をむりやりに呼びに来させないことは「父の配慮」だとしても、普通ではない親子は譬えられている「ファリサイ派、律法学者たち」も父の近くにはいても、その関係は正しいものではなかったことが表されています。父なる神が心から喜ばれる祝宴である「兄弟たちの悔い改め」を全く喜ぼうとしない…そういう態度が表されているのです。
二つ目は29節の括弧の中の言葉から分かります。「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」という部分です。この「仕える」という言葉ですが、元の言葉では「奴隷として仕える」という意味の言葉だそうです。つまり兄息子は「子として父に仕える」のではなく「ただ奴隷として仕え」ていたのです。せっかく子として大切にされてきたのに、自分はその意味を理解できずに「自らを奴隷としてしまっていた」のです。
2週前の礼拝説教において、弟息子は19節で「もう息子と呼ばれる資格はない。だから雇い人の一人、つまり奴隷として置いてもらおう」と決心したとイエスが譬えられた話をしました。でも父は弟息子を奴隷として扱わず、大切な愛する息子として扱ったことを見ました。弟息子は「奴隷として家に戻ろうとした」けれども父はそれを許さず、息子として扱っておられることが分かると話しました。
父親は兄息子のことを「愛する息子」と考えていましたが、兄息子は「息子でいるとはどんなことか」が理解できず、自らを勝手に奴隷にしてしまっていたのです。
なんでも言いつけに背かないということが「善い人である条件」のように兄は考えていましたが、なにも考えずただ言いつけを守るというのは全く「善い人」ではありません。ファリサイ派、律法学者たちは、旧約律法を「字づらだけ完璧に守ろう」としていましたが、それは神の子としての在り方ではありません。ただ「律法の奴隷になっている」にすぎないのです。
そして兄息子について分かる3つ目のことは29節です。「子山羊一匹すらくれなかった」という部分です。これは事実を兄息子が理解していなかったことの表れで、実際には父が与えてくれていたのに「なにを与えてもらっていたか分からなかった」ことをイエスが表現されたのでしょう。
つまりファリサイ派、律法学者たちは神から善いものをいただいていたのに、その恵みに気づかずに「自分は報いられていていない」と不満ばかりを口にしていたことが表されているのです。
最後の4つ目は30節から分かります。兄息子は、弟が「娼婦と遊んで財産を食いつぶした」といっています。しかし、例え話の前半を見ても弟息子が「娼婦遊びをした」とは言われていません。必ずしも事実ではないことを兄は口にしているのです。
ではこの「娼婦遊びとは何を表しているか」というと、実は兄息子の願望を表していると言われます。つまり「本当は娼婦遊びをしたいのに、自分はそこまでする度胸がない。でも弟はしたに違いない。だから弟を許せない」という思いをもった…そのようにイエスは譬えておられるのです。
兄息子に譬えられているファリサイ派、律法学者たちは先ほど見たように「心から神の掟を守っていた」のではなく、本当は娼婦遊びなど「汚れたこと」をしてみたかったのです。本当に神の愛、神の恵みが理解できている人ならば、罪を犯しているひとを羨ましいとは思わなくなります。自らの明確な意思で「神の御心を行う」ことを選び取れるようになるのですが、残念ながらファリサイ派律法学者たちはそうではなかったのです。
さてこのように「たとえ話の中の兄息子をどんな人としてイエスが表しておられるのかを詳しく見てきましたがいかがだったでしょうか? 私は見れば見るほど、この兄息子と自分が似ているな…と感じました。 神の恵みを全く理解できず、罪に溺れるひとを救おうとしないばかりか「羨ましくさえ感じる」そんな情けない自分です。
しかし!それでもこんな私を神は愛し救おうとなさるのです。
最後に、兄息子に対し「それでも愛をもって接し、悔い改めに導こうとする父の姿」を心に刻んでメッセージをとじます。
まず28節を読んでみます。
罪を犯した弟を、そのまま愛し受け入れ、祝宴をした父を赦せず「家に入ろうとしない」そんな兄息子にたいし、父は自ら家を出てきてなだめるのです。実にフットワークが軽く、そして兄に対して配慮があります。普通の人間の父親ならここまでしないでしょう。「勝手に怒っていればよい!」そんな感じで突き放すことも多いと思うのですが、父なる神は違うのです。
つづいて31節と32節です。
ここでは兄息子に対して、「私のものは全部、おまえに与える用意があるのだよ」と愛をもって伝えています。兄息子は父に対し「あなたはわたしになにも分けてはくれない」と誤解していましたが、そうではないことを父自ら示すのです。
ファリサイ派律法学者たちも、「神は善いものをくれない」と誤解していたのでしょうが、イエスは譬えをとおしてこうおっしゃるのです。「あなたたちも心から悔い改めるなら、天の御国を継ぐことができるのだよ」と。
そして32節で一番伝えたいことをおっしゃるのです。それは、「罪に溺れて、霊的には死んだような状態だった弟息子が悔い改めて戻ってきた。それがどんなに大きな喜びなのか、あなたにもわかってほしい」ということです。
罪を犯した兄弟を「裁かないでほしい」。そして「悔い改めてもどってきて、父が喜ぶことを腹立たしく思わないでほしい」…神はそう願っておられます。なぜなら「あなたもまた、自分の罪に気づき、悔いあらためてほしいから」です。
私たちも、人の罪を赦せない狭い心ではないでしょうか? 自分の罪を棚に上げて、人の罪を指摘して裁く、そしてどこか「その人の過ちを羨ましく思う」そんな心はないでしょうか?
でもそんな私たちをも愛して下さるのが父なる神です。独り子を十字架に着けてまで私たちを救おうとされる神の愛を真摯に受け止め、独りでも多くの方が罪から救われることを「父なる神と一緒に」喜ぶことをしてまいりましょう。