11月13日 聖霊降臨節第24主日礼拝・聖餐式
「共に泣いて下さるお方」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書11:28~44、ローマの信徒への手紙12:15~16
先週は一年に一度の「永眠者記念礼拝」が持たれ、「天国」「永遠の命」について考えることができました。今日はご出席の皆さまと、聖書が教える「人の命」について共に考えることができました。今日も礼拝の後で「3月に召された近藤明敏さんの納骨式」を執り行いますので、皆様とともに「近藤さんが旅立たれた天国」について、思いをはせるひと時になることを願っています。
納骨式に先立って持たれている今朝の礼拝ですが、近藤さんの地上での生涯を顧みられるような、聖書箇所から語れればと思い、「共に喜び、共に泣く」ということが教えられる聖書箇所を選びました。
情にあつく、困っている人に寄り添われた「近藤明敏さん」を思い浮かべつつ、御言葉を味わいましょう。
先に読むのは2か所目のローマ12章です。(P新292をお開けください)
近藤明敏さんの生き方を思い出す時、いろいろな聖書の箇所の中で、ここが思い浮かびました。15節16節を読んでみます。
とくに12章15節の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉は、短い言葉で「クリスチャンの生き様」を表すものです。ちょうど今月の御言葉として選び、山田雅子さんに書で記していただいたものが、外の掲示板にはられていますので、ぜひご覧ください。
近藤明敏さんも、御言葉を記す「書道教室」を行ってくださっていたので、この書を書いてくださったことがあるのではないか、と想像します。それとともに、このみ言葉をご自身の生き方のモットーにされていたのではないか、と感じます。
「喜ぶものと共に喜び、泣くものともに泣く…」近藤さんが実践されたこの言葉ですが、よく考えると、これは大変に難しいことであることが分かります。
この言葉について、ある牧師人が次のようなことを言っています。
「このきわめて単純な勧めは人間の生活の秘密をよく示しています。人間にとって何が難しいといって、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむことぐらい難しいことはありません。
なぜなら人間は非常に嫉妬深くて、他の人が幸福であることは承知できないからです。少なくとも他人が自分よりも幸福であることは許せないことのように思うのです。
そういうことから言えば、泣く者と共に泣く方がまだ優しいと思います。自分は泣かなくてもいいのに、相手が泣かねばならない事情にある時には、同情しやすいのです。しかし、それが真の同情でないことは、言うまでもありません。泣く者と共に泣いてやることによって、ひそかに自分の優越感を満足させることができるからです。泣く者と共に泣くことは、喜ぶ者と共に喜ぶのと同じほどに難しいことです。」
いかがだったでしょうか?「喜ぶものと共に喜び、泣くものともに泣く…」本当はそうでありたい、とだれもが思いますが、現実はどうかといえば、そんな思いとは裏腹に、うぬぼれが強くて、善よりも悪に傾いてしまうのが、世の多くの人だと思うのです。
しかし、近藤明敏さんは、そうではありませんでした。教会の皆さんや、ご家族からエピソードをお聞きしていても「ご自分が喜ぶことより、他の方が喜ぶことを優先された。ご自分の苦しいことよりも、他の方々が苦しい状況を気に掛ける」そんなお方でありました。
天に旅立たれる前日、私達夫婦でご自宅を訪ね、久しぶりの再会を果たした時もそうでした。「この地上での再会、そしてともに祈れたこと」を喜ぶ私達に対し、かなり弱られ、お苦しい状況でも、「一緒に喜んでくださった、あの笑顔」が忘れられません。
どうして、自分が苦しいときでも「相手と同じ思いになって苦しみ、そして喜べるのか」それは近藤明敏さんが、この地上の歩みの中で「幾多の苦しみを乗り越えてこられた、その結果」だと言えますが、もう一つあるように私には思えます。それは「目には見えないけれども、近藤さんが苦しいときに共に涙を流し、そして近藤さんの喜びのときに、共に喜んでくださった、大いなるお方の存在」
があったからこそだと私は確信します。
今から残りの時間、「その大いなるお方」について記された聖書箇所をともに学びたいと願います。
皆様新約聖書のP189をお開けください。「ラザロをイエスが生き返らせる」場面、その直前に記された「姉妹ラザロとイエスが対話される場面」です。
(28節から44節を、私がお読みしますので目で追ってみてください)
まず、目を引くのが33節から35節、神の子イエス・キリストが一人の人間の死に対して、涙を流し、心に憤りをもってくださるその姿です。
イエスは、愛するラザロの死に涙を流されているのです。そして「人々を悲しませ、イエスご自身をも悲しませる死の力に対して憤りを覚えられている」のです。
私たちがこの地上で生きていく上で、「沢山の悲しみ、苦しみ」が降りかかります。自分で解決できるものもありますが、多くは「苦しく悲しいけれども…どうすることもできない」「その大きな力の前になすすべがない」ものです。その中でも「死」はもっと大きな「苦しみ、悲しみ」であり「怒りを覚えるもの」なのだと思います。
しかし、神の子イエス・キリストは、そのような無力な私たちの怒りを、ご自分の怒りとして下さったのです。そして涙を流して下さる…そういうお方なのです。私たちの憤りを共に憤り、私たちの悲しみを共に悲しんでくださるお方、それがイエス・キリストなのです。
まさに先ほどみたローマ書12章15節の「喜ぶものと共に喜び、泣くものともに泣く」そのような「人間」として、この世を生きて下さった神の子イエス・キリストを見ることができるのです。
さて、「喜ぶものと共に喜ぶ」イエスの姿も、直接的ではありませんが、この箇所から見て取れます。それは「ラザロが生き返る部分」です。
何気ない言葉ですが」41節の括弧の中の言葉にご注目ください。
墓石が取りのけられた後、天を仰いで、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。」と仰っています。
願いが聞き入れられるとは何を指すかというと「ラザロが新しい命に生きるようになること」です。そのことはラザロにとって感謝なことであるだけでなく、イエス・キリストにとっても「感謝なことだ」と捉えて下さるのです。つまり、「新しい命に生きることを共に感謝をもって喜んでくださるお方」が神の子イエス・キリストなのであります。
ラザロと同じように、近藤明敏さんが、天国で「新しく生きられている」ことを、感謝し、喜んでくださっている…そんなキリストを思い浮かべていただいたなら幸いです。
にわかに信じがたいかもしれませんが、聖書はこの後薄暗い墓の中から、手足を長い布でまかれ、顔も覆いで包まれたまま、ラザロが墓から出てきたと伝えます。
私たちが読み取りたい大切なこととは、ラザロはイエスの「天の父への執り成し」によって、しかも「感謝、喜びをともなった執り成し」によって「新しい命を得た」ということです。
この象徴的な出来事は「近藤明敏さんにも!そして私達にも!死の力を超越したところにある新しい命」が、「イエス・キリストを通して与えられる!!」しかも「淡々と与えられるものではなく、神の子が感謝と喜びをもって与えることのできるものである」ことを教えています。
イエス・キリストは「苦しみや悲しみにあえぐ私達に寄り添い」「悔しがったり、涙を流してくださる」のですが、それだけではなく「私たちをどうしようもない悪い力から助け出して下さり、ともに喜びをもって生きて下さるかた」なのです。そのことを聖書から感じ取っていただいたなら幸いです。
今朝は、この後納骨式を執り行う近藤明敏さんを覚えつつ、聖書の言葉を味わいました。近藤さんが聖書の教えを大切にして歩まれたことを思い出しつつ、その生き方は「神の子、イエス・キリストに倣うものだったこと」を折に触れて思い出していただいたら幸いです。
そして神の独り子イエス・キリストが、近藤明敏さんの傍におられただけでなく、私達一人ひとりの傍におられ、「苦しい時、ともに涙を流して寄り添って下さる」お方であること。そして、「感謝と喜びをもって、新しい命に導いてくださるお方である」ことを心に留め続けていただければ幸いです。
(祈り 沈黙 黙想)