「初めに、神は天地を創造された」10/29 隅野瞳牧師

  10月29日 聖霊降臨節第23主日礼拝
「初めに、神は天地を創造された」 隅野瞳牧師
聖書:創世記1:1~5,24~31

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 本日は、神は私たちを新しく造ることができる方であるということについて、3つの点に目を留めてご一緒に御言葉にあずかりましょう。

1. 神の言なるキリストによって、救いの光がもたらされた。(3節)

2. 人間は神にかたどって創造された。(27節)

3.神がお造りになったすべてのものは、極めて良かった。(31節)

創世記1章が書かれた時代は紀元前6世紀、バビロン捕囚時代です。ダビデとソロモンによって栄えたイスラエルは南北に分裂し、残った南ユダ王国が、ついにバビロンによって滅亡させられた時です。敗戦国イスラエルの指導者、軍人、有力者は、謀反を防ぎバビロンが発展するために強制移住させられ、エルサレム神殿は破壊されました。ユダの民は異国の地で「お前たちの神はどこにいる」と嘲られ、捕囚は約60年にわたりました。2節に記される混沌は、救いが見いだせない捕囚の現実を表しています。

このようなことが起こったのは、彼らが主なる神を離れて偶像崇拝、またそれに伴う堕落した生活を続けた結果です。形骸化した祭儀、弱者を虐げ、他国の軍事力にすり寄ったためです。神は預言者を通して繰り返し立ち帰るよう呼びかけてくださいましたが、彼らは御言葉に従うことはありませんでした。

王国滅亡と神殿の崩壊は、さまざまなとらえ方があるでしょう。私たちは安易に戦争、災害などを神の裁きだと言ってはなりません。しかし当事者であるユダの「残りの者」は、信仰によって捕囚を、背信に対する神からの審判であると受け止めました。その人々が神に罪を告白し、赦しを求め、将来の希望を求める中で与えられたのが、創世記1章の御言葉なのです。王国と神殿を失った民は、ただ信仰によって民族としての同一性を保ちました。それは絶望の日々でしたが、信仰の本質に立ち帰る時でもあったのです。

彼らは王国が生まれる時よりも詳細に、王国滅亡に至る歴史を書き残しました。それは福音書にあえて使徒たちが、十字架の主イエスを裏切り逃げていった過程を記したのと同じです。こんな私をも神は見捨てることはなさらなかった。こんな私だからこそ限りない神の憐みが、御子による救いが必要だったことを証するためです。

 

1. 神の言なるキリストによって、救いの光がもたらされた。(3節)

「初めに、神は天地を創造された。」(1節) 

皆さんは最近、空を眺めておられますか。鳥の声、あたたかな陽ざし、落ち葉の美しさを感じておられるでしょうか。それらに触れる時に、神の大いなることを思い賛美せずにはいられません。聖書はまず神がおられ、この世界をお造りになったことを語ります。はじめにそれが記されているのは、それが聖書の信仰、そして私たち人間の土台であるからです。

神がこの世界を造られたという御言葉をどう受け止めるかは、人によってさまざまです。しかし聖書は書かれた目的に沿って読まなければ、まったくとらえ違いをして、命を得ることなく終わってしまいます。聖書は歴史や科学を客観的に記録するためではなく、「神は私を、そしてあなたを愛しておられる」と伝えるために書かれています。聖書は天地創造を通して「私は何者か。どこへ向かって、なぜ生きるのか。」について、信仰にある真理を語っているのです。

「創造された」は神にしか使えない言葉で、材料を用いないで造るという意味です。神は何もないところからこの世界を造られました。神は私たちの側に愛や力、希望がなくても、存在させ、実現させることができる方です。

「地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(2節)

秩序も存在の意味もなく、底なしの深みを闇が覆っている虚無の世界。しかしそこに神の霊が水の面を動いておられました。これは母鳥が卵を抱き、ふ化させようとしているような、手厚い保護のもとにある様子です。聖霊によって混沌が秩序あるものに変えられて、命が誕生しようとしているのです。

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(3節)

天地創造は神のみ言葉によってなされました。つまり神の明確なご意思、み心があるのです。この世界、そして私たちが今ここに存在しているのは偶然ではありません。神が命じられると光と闇とが分けられ、秩序が生まれます。神はますみ言葉をもって、光をもたらされました。天体はこの後造られますので、これは私たちの心の闇を照らす光ということができます。すべての命の源、希望と慰めに満ちた光です。神の愛、命、救いの意志が、この世界に入って来られました。永遠にあった光なる神が、この世界、歴史の中に、私の現実に関りを持ってくださった、救いの歴史の始まりです。サウロは天からの光を受けて復活のキリストに出会い、この方こそ救い主であること、また自分が罪人であることを知らされて救いを受け取りました(使徒9:3)。天からの光を受けてこそ、イエス・キリストが私の救い主であると信じ救われることができるのです。

ヨハネによる福音書1章は本日の箇所を念頭に記されており、そこを読みますと万物を造られた「神の言」は、主イエス・キリストを指します。言は人間となってこの地上を歩まれました。この方は見えない神の愛を見えるようにお示しくださった光です。御子を信じる者は神によって新しく生まれ、神の形に再び創造していただくことができるのです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)

神が天地をお造りになったことは、同じく捕囚記の預言者であるイザヤによって頻繁に記されています。

イザヤ42:5~7には創造が語られた後、今は捕囚である民を主が恵みをもって呼び、「諸国の光として」形作り立てたと記されます(同49:6)。これはまず苦難を通り小さき者と共に歩む主の僕、主イエスによって実現することですが、新しく造られた者は同じように光とされます。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソ5:8)

あなたのそばにも、やっとの思いで今日を生きのびている人がいるかもしれません。その人を救うために、神はあなたに光を与え、光を輝かせなさいと言っておられます。どうぞキャンドルサービスのように、永遠の光を運んでください。私に力はなくても、信じるならば、神はそこから救いを始めてくださいます。御言葉は、本当に私たちを変える力があるのです。神御自身だからです。

 

2. 人間は神にかたどって創造された。(27節)

創造の業は続きます。大空、海と陸、植物、魚と鳥、動物たちです。そして最後に人間の創造です。

「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」』」(26節)

ここで神はご自身を「われわれ」と言っておられます。さまざまな解釈がありますが、これは神が三位一体の方である暗示だと私は受け止めています。創造は、父と子と聖霊なる三位一体の神の御業です(2節、コロサイ1:16)。私たちが信じる唯一の神は、父なる神、子なるキリスト、聖霊という三つの位格(人間の「人格」にあたるもの)において存在し、互いに愛し合っておられます。父、子、聖霊は神の本質をもっておられ、常に一つの思いをもって共にみわざをなされます。これは私たちの理解を超えたことですが、信仰をもって聖書全体を読む時に、神がそのような方であることがわかります。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(27節)

これまでの創造は「神は言われた…そのようになった」という形でしたが、人間の創造は他と違う書き方がなされています。「創造された」という言葉がくり返され、神が特別な思いをもって人間を造り賜物を与えたことが示されます。

神は御自分にかたどって人を創造されました。「かたどって」は「神の形」「神の似姿」とも訳されます。それは神のご性質を指しています。私たちは神と交わりをすることができる者として造られました。神が語りかけられると、それに応えることができるのです。人間だけが永遠を思い(コヘレト3:11)、祈り、神を礼拝します。

神に似た姿、それは愛であるともいえます。「神は愛だからです。」(ヨハネの手紙Ⅰ 4:8)私たちは同じく造られた人との間に交わりを持ち、愛し合う存在とされました。私たちは神、そして人間どうしの愛の交わりの中にこそ、生きる者なのです。「男と女に創造された。」ということも、その文脈の中で理解されることです(2:18も)。私たちは神を賛美するために造られました(詩編102:19)。互いに愛し合うことを通して、私たちは神をたたえます。ですから誰かを憎んだり争ったりしている限り、私たちは決して幸せになることができません。神が私たちを造られたご目的に沿って生きる時、私たちは状況に関わらず、最も幸いな者として生きるでしょう。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(28節) 

新しい命が与えられ成長することは、神の祝福のもとにあることです。しかしこの御言葉は単に結婚や、子供がたくさん生まれることの奨励ではありません。キリストは家族やこどもたちを祝福されましたが、御自身の地上での子供はおられませんでした。しかし御子を信じる者は国籍や地位や性別などすべてを超えて、新しく生まれ神の子、神の家族となるのです(ガラテヤ3:28)。御子は永遠の命そのものである方として、直接的には弟子たちによって初代教会を生まれさせ、復活の主に出会い生まれる者たちを今も起こしておられます。「あなたは神に愛されて造られたかけがえのない人です。神と人を愛して生きる時に、本当の喜びに満たされることができるのですよ。」このメッセージが世界中に広がっていくことを信じ、まず隣の人に分かち合う。それが「産めよ、増えよ」だと思います。

神はお造りになった世界を、御自身に代わって管理する務めと責任を、人間に託されました。それは2章で人がエデンの園を耕し、また羊飼いが羊を飼うようなありかたです。環境破壊は、人間が創造主への畏れを忘れ、神のごとくにふるまったことの結果です。神は自分の好き勝手に被造物を浪費し破壊するのではなく、それぞれの特性を知ってふさわしく養い、神のすばらしさがあがめられるように願っておられます。

 

3.神がお造りになったすべてのものは、極めて良かった。(31節)

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(1:31)

神は造られたものを一つひとつ「良し」とされてきましたが、ここでは造られたすべてのものを見て、「極めて良い」と喜ばれました。私たちは神の目に「極めて良かった」と宣言されているのです。私たちは自分や世間の評価ではなく、私をお造りになり私のことを一番よくごぞんじの神が、何と言ってくださっているかを心に刻みましょう。自分が大切な存在だと実感し人の評価から自由にされるには、祈りと御言葉を通して毎日造り主に会いに行くことです。

この御言葉を通して、私たちは隣の人またこの世界をも、神の愛の対象として再発見し、希望を持ち続けることができます。目に見える世界の現実は戦いが絶えることなく、心締め付けられる思いです。自分自身も愛することのできないみじめな者です。しかし目に見えるところがどうであったとしても、神はそのままの私たちを愛しておられます。だから、御子を送ってくださったのではないですか。こんな私にも神は、ひとり子をお送りくださった、それを忘れてはいけません。救いは今ある私の延長からではなく、無から有を造り命を存在させた神から来ます。その神が語られるなら、人の目に可能性がなくても、必ずそのとおりに成る。神は世を癒し造り変えることができると、私たちは信じます。

私たちは誰かに大切にされて初めて、「自分は価値のある存在だ」と気づきます。自分の価値に気づく時に、相手の価値をも認め、受け容れ、愛せるようになるのです。この世界は、一人ひとりが極めて良い存在であると見ることが失われ、誰かと比べて優れていなければ価値がないという、悪魔的な声に支配されています。ですから神の愛を知った私たちは、何度でもこの愛を受け、語り、具体的に示さねばなりません。御子が人となり、十字架にまで御自身をささげるほどに、あなたは愛されているのだと。あなたが神の愛に立ち帰り、自分の価値を知り、愛する喜びを知って生きることを、神は願っておられるのだと。

主イエス・キリストこそまことの神の形であられた方です。そして主イエスは、神と等しい者であることを捨てて人間になり、私たちが神の形を回復するために、その罪を担って十字架にかかってくださいました。つまり、神の似姿を保たれたただ一人の方でもあります(フィリピ2:6~7)。その救いを受け取った私たちは神の目に罪を犯したことのない、義しい者と認められ、神と共に生きる命に入れられます。それが、「極めて良かった」とされた回復への第一歩です。そこから神に本当の意味で似た者とされていく歩みが始まります。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」(マタイ17:5)変えられるためには、私たちが御子に「聞き」、信じてお従いする必要があります。もし部屋が汚くなって掃除サービスを頼んでも、「汚いので入らないでください」とドアをしめきっていては、掃除できません。主にこんな私を見せていいのだろうかと恐れている方がおられるでしょうか。しかし主は、罪の深みと私たちの弱さを誰よりもごぞんじです。安心して心のドアを開きましょう。その時主の光が私たちのすべてを照らし、きよめ、愛でいっぱいにしてくださいます。そして私たちは主のお姿を映し出しながら、喜んで生きる者とされるのです。