「目標を目指してひたすらに進む」10/22 隅野徹牧師

  10月22日 聖霊降臨節第22主日礼拝・敬老祝福礼拝
「目標を目指してひたすらに進む」隅野徹牧師
聖書:フィリピの信徒への手紙 3:12~16

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 今日は礼拝の後、教会のご年配の方をとくに覚えて祝福する「ぶどうの会」を持ちます。それに先立ってもつ「主日礼拝」では、祈りのうちに示されて、フィリピの信徒への手紙3章12節からの部分を選びメッセージを語ることにしました。

 フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロが「ローマの獄中で」書いたものです。

新約聖書にはパウロが書いた「手紙」が聖書本文になっているものがいくつもありますが、その中でも「フィリピの信徒への手紙」は「一番人情味があふれたものだ」と評されています。キリストの使徒であるパウロが、愛をもって開拓したフィリピ教会の信徒と「牢の中にあっても温かい交わりを保っていた」ことが分かる手紙です。

 今回取り上げる3章は、そんな「愛をもって接している、フィリピの信徒たち」が、ある間違った考え方に染まらないようにと、「諭すように」教えている部分なのです。

 その間違った教えとは「キリストに出会った自分は、既に完全な者になっているのだ!」という考え方で、実際にこういうこと言う人が周りの教会には出てきてしまっていたのです。

しかし、パウロはそれが「違う」ということをはっきりとこの箇所で述べます。

自分自身のことを例に出し、「私は、キリストに与えられた救いの確信はしっかり持っているけれど、今、自分が既にすべてを得ているというのではない。完全な者ではない。今、まさに道途中であり、目標を目指し、走っているところなのだ!」と記しています。

パウロはこの手紙を書いた少し後、殉教の死を遂げるのですが、本人も「その時が近いこと」は分かっていたことが、フィリピの信徒の手紙の1章などから見て取れます。それでも「昨日よりも今日、今日よりも明日、キリストに似たものへと成長する」そんなパウロの「生き方」を見ることのできる箇所です。

今日はぶどうの会で、とくに教会のご年配の方々を覚える日ですが、ご年齢に関係なく、すべての方々が、礼拝で語られる聖書の言葉を通して、「皆様にとっても、今、自分が人生の道の途中であり、目標を目指し新たに歩みだしたい」という思いを与えられることを願います。

まず12節から14節を読んでみます。

はじめの12節に出る「既にそれを得た」の「それ」というのは、直前の8~11節にあるところの、「キリスト」のこと、「復活」のことだと言っても良いでしょう。先ほどもお話ししましたが、この手紙の宛先であるフィリピの教会の中で「キリストの救いにあずかったから、わたしはもうすべてを得て、既に完全な者となった」という考えに染まった人々がいたようなのです。

この考え方に対してパウロは、自らのことを例に出していいます。「私は…イエス・キリストが成し遂げて下さった十字架と復活の業によって罪が赦され、、新しい命を与えられた。だけれども、この地上を歩んでいるうちは、それは完成の途中なのである。神が終わりの日に、復活させて下さり、神のご支配を完成させて下さるのを待っている。それを得たい、捕えたいと願って努めているのだ、と反論しているのです。

もし、この誤った考え方のように、「キリストに救われたと信じたと同時に、すべてを得て完全な者になり、救いの恵みも、復活も、もうすでに手に入れている」のなら…どうでしょうか?

完全にされているのだとしたら…日々の生活の現実をどう捉えればよいことになるのでしょうか?

世の中で起こる争い、憎しみ…それに、全く関与していない、無関係という人間は世界中どこにもいません。

また体の病、心を苦しめることが何もない…そんな人間もどこにもいないと思います。

「キリストに出会って救われたのだから、今の状態でもう完全なのだ」と言われたら、これから先に何の希望も持てないと私は思います。

わたしたちはキリストの救いを受け入れて「洗礼を受けた」からといって、完全な者になったのではありません。

クリスチャンとは、「赦された罪人」なので、「救われていながら、なお、罪を犯してしまうような者」なのです。私たちは、神の霊である「聖霊の導き」によって、キリストに似た者へと変えられ、成長させられていくことを願い、信じていますし、実際にそのように導かれていきます。この地上の歩みにおいて、決して完全な者になることはできないのです。

しかし、私たちには希望が与えられています。それは、すでにイエス・キリストを通して神の前に罪を赦された者として、その神・キリストと共に地上を歩むことが許されている…それこそが希望なのです。

14節に「神が、キリスト・イエスによって上へ召して、賞を与えて下さる」ということが記されています。これは、私たちにとっての終わりの日に「復活の体が与えられ、イエス・キリストと会いまみえる、そのような恵みが神によって約束されているということです。これこそ、私たちに全力で求めて向かって行く目標であり、希望なのです。

さて…パウロは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために走る…」と言っていますが、これはあくまで「スポーツ」が譬えになっているだけで、ここで語られている「イエス・キリストによって、わたしたちが頂く賞」は、この世のいわゆる「レースで得る賞」とは全く違っています。

人間が自分の力だけで勝ち取れるものではない!のです。イエス・キリストが十字架と復活を通して私たちの罪を滅ぼし、死に打ち勝って下さった、「その勝利の冠が!」私たちに与えて下さるのです。

私たちは、この世の命を終えて、それで終わるのではありません。キリストを救い主として信じ受け入れた者は、キリストの勝利の冠をいただいて、復活にあずかり、神の国に入るようにと招かれている…それは聖書全体から教えられることなのです。だから私たちは栄光のキリストのくださる復活の命を「目標にして」歩むことができるのです。

 続いて15節、16節をよんでみます。

15節でパウロは、「わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と語っています。「完全の者」という言葉が出ていますが、最初にお話ししたように、「この地上において完全な者」はどこにもいませんし、何かしらの悩み苦しみのなかで「自分の弱さや葛藤や、心の汚さ」というものを感じながら歩むのが私たちです。

ですので、ここで「完全な者は誰でも…」と敢えて書かれているのは「自分たちが信仰においてすべてを得た完全な者だ!」と主張している人々に対して「逆説的に教えられれている」ことなのです。

パウロは、成熟した者なら、自分が完全な者だと思っている者は、「既にすべてを得ている、捕らえているとは考えないで、将来与えられる、キリストによる復活の約束、救いの完成を求めて、ひたすら走ることを考えるべきではないか」と言っているのです。

 15節後半の「あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」とは、「自分が完全な者であると考えている者には、神ご自身がそうでなないことを示して下さり、そして神の国にある永遠の命に向かって、日々歩んでいくことの大切さを示して下さるだろう」ということを言いたいのです。

しかし、先ほどから申し上げているように、これはレースにたとえられていますが、決して誰かと比べたり、勝ち負けを決めることではありません。それが次の16節で明らかになっています。 ご覧ください。

「到達したところに基づいて」という言葉が出ますが、これは「もうすでにキリストに出会っている、キリストに結ばれている」私たちがすでに経験している「そのキリストの恵みを基準にして」前に進んでいこう。ということなのです。

私たち一人ひとりは弱く不完全な者たちです。しかし、私たちが弱々しくても、キリストの御手は力強く、確かなのです。だからこの先の歩みに不安を覚え、苦しみを覚える時にこそ、ますます神・キリストの御手に頼り、すがっていくことが大切なのではないでしょうか?

この箇所でパウロが教える「神・キリストによって上へ召されて、与えられる賞」とは私たちが、「全速力で走る」というのとは違うニュアンスなのではないかと個人的に思います。もっというなら歩みの途中で立ち止まり「自分の弱さ、不完全さ」を感じて、「自分は本当に走り切れるだろうか?」と不安を感じながらの「歩みでよい」ということが教えられているのではないかと、私は思うのです。

みなさんはいかがでしょうか?この先も「一心不乱に、人生のレースを走り切れる」と思っていらっしゃる方はおられるでしょうか?

私はそのような自信はありませんし、牧師としても山口信愛教会のこの先の歩みにも「不安」があります。

しかし、それでよいのではないかと思います。立ち止まるから、そして不安に思うからこそ「完全ではない自分」に気づかされ、そしてより一層「私たちに自ら近づき、出会ってくださったキリストに、私たちはますます頼ることができる」ようになると理解しています。

ご年配の方でも、まだお若い方でも、いったん立ち止まって「弱い自分をもっと神に委ね、神と共に人生のゴールまで自分らしく歩んでいきたい」という思いが与えられることを願います。「神・キリストがお与えになる賞を得るために、目標を目指し、前のものに全身を向けてひたすら走る」とは、他人との比較ではない「自分らしい信仰の歩み」のことを言っている、そう理解していただければ幸いです。

 私たちの人生の目標は、世の中で名声を残したり、お金持ちになったり、安心な暮らしを手に入れることではありません。これらを「人生の目標」と見定めてしまったことで、人生が大きく狂うことはよくあります。 仮にこれらが達成できたとしても、いつかは無くなってしまうものばかりです。だから、人生の最後のゴールとは成りえないのです。

しかし、イエス・キリストとともに歩む人生には、明確な目標・ゴールが示されるのです。この世で歩みを進める間は、決して完成しない「見えないゴール」ですが、いつか私たちがこの世から旅立つとき「栄光のキリストの復活の命に、自分も与ることができる」そこに生きた希望があるのです。

 どうか、この先も迷わずに「神と共に」進んでまいりましょう。(沈黙・祈り)