「十字架~私たちのための箱舟~」10/15 垣内尚美牧師

  10月15日 聖霊降臨節第21主日礼拝・分区交換講壇
「十字架~私たちのための箱舟~」垣内尚美牧師(小郡教会)
聖書:創世記 8:1~22

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 今年の夏は、地球温暖化を通り越して、地球沸騰化の時代と言われる大変な酷暑でした。ハワイのマウイ島では大規模な山火事が発生したり、世界各地で暑さのために命を落とされる方がいたりと、多くの方が犠牲となられました。主の慰めと一日も早い解決策の対策の復興をお祈りします。そして、ロシアとウクライナ、ガザ地区のハマスとイスラエルで戦争が起きています。それらの地域の方々の安全が守られますよう祈りたいと思います。

ところで、今起こる災害や紛争は、神様の裁きと直結してはいません。しかし、ノアの大洪水は裁きであったと聖書は言います。なぜ、神様は洪水を起こされたのでしょうか。それは、愛である神様が同時に義なるお方でもあるからで、ノアの時代、主はご自身の義を示すために大洪水を起こされた訳です。しかし、それなら、人間が罪を犯すたびに、神様は何度でも洪水を起こさないといけないことになります。ですから、義であると同時に愛である神は、この洪水の後に新しいご計画へと進まれ、ご自身の憐れみと恵みを私たちに示すため、イエス・キリストの十字架を用意されたのでした。神様の憐れみと恵みは、神の義と重なりあい、それが交差するところに、十字架が立つと言われます。神様は必ず約束を守られる誠実なお方です。ですから、主の十字架により頼み、その恵みを頂いている私たちは、本当に幸いな者なのです。心から主に感謝と讃美を捧げたいと思います。

 さて、創世記にあるノアの物語は、まず、神様が人類を滅ぼすことを決意され、ノアが箱舟を造り、そこに入るように神様に命じられて、洪水が始まります。洪水は、150日続き、山々が水で覆われました。神様はノアを覚えておられ、洪水は引いて行き、山々が現れ、地が乾き、神様はノアに箱舟から出るように命じらるという流れで進んで行きます。そして、箱舟から出たノアは祭壇を築き、神様は人類を滅ぼされないことに決められました。この時、ノアはまず、「箱舟を出なさい」という神様の命令に従って舟を出ました。ノアにとって、この一年は大きな試練だったに違いありません。いつまでなのか分からない焦りもあったことでしょう。世と隔離された孤独や寂しさ、最後はどうなるのかという不安もあったことでしょう。もしこれ以上神様がノアを放置されたなら、彼はこの試練に耐えることは出来なかったに違いありません。

しかし、神様は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての生き物を御心に留められたので救われた訳です。よく信仰生活の苦しさばかりを思い、恐れ、自分の負うべき十字架の重さに、たじろぐ人がいます。確かに十字架は重く、御言葉に立つ生活は苦しいものです。しかし、神様はその中にある私たちを心に留めておられます。主が私たちを力づけられるゆえに、私たちはそれぞれの十字架、その箱舟にとどまることが出来るのです。

 この「御心に留める(覚えている)」という言葉は、単に「忘れていない」ということではありません。そうではなく、心に留める対象に対し、具体的に「行動」を起こすという意味があるのです。例えば、創世記19:29「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」や、出エジプト記2:24「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」とあるように、この「心に留める」という言葉は、契約関係を前提として、その人物を守るための行動を起こすという言葉なのです。今、私たちは御子イエス・キリストの十字架の贖いにより、罪赦されて、神様との新しい契約関係に入っています。この契約は、確実に実行されます。ですから、私たちは安心です。

しかし、本来、この契約料はとても高いもので、私たちには支払えないものでした。それを主イエスがかわりに払ってくださったから、今の私たちがあるのです。私たちはただ“はい”と言って、その契約書にサインをしただけなのです。この世界観は、私たちに何が起こっても大丈夫という安心を与えてくれますから、本当に感謝です。もちろん、苦しさや悲しさ、災害に遭って、“どうして?”と思うことはあります。しかし、それを遥かに超えたところで、イエス・キリストは、十字架という箱舟に身を避けた私たちを守ってくださるのです。その確信が与えられていることに感謝です。

 さて、大混乱の後、水が引き、地が乾いて食物が育つようになりました。神様は風を使われたことでしょう。この8章1節は、創世記1:2「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とよく似ています。ここから、創世記1~2章に記された「天地創造のテーマ」、乾いた土地が現れ、そこに植物が生長するというテーマが再現されます。8章2節で、地下の水源が閉ざされ、天からの雨がとどめられ、3節では、水が次第に地から引きました。水が150日の終わりに、蒸発によって減り始めたからです。

また、4節の第7の月の17日に、水位は相当下がり、箱舟はアララテ山にとどまりました。5節、水は第10の月まで、ますます減り続け、第10の月の1日に、高い山々から順に低い山々まで姿を現します。ノアは、150日から数えて40日後に、箱舟の窓を開き、鳥を放ちました。鳥は黒い色をした野鳥、聖書では「きよくない鳥(汚れた鳥)」に分類されます。しかし、鳥も神様によって養われていますし、列王記上17章では、その鳥がエリヤに食物を運んでいますから、神様のお仕事もしています。洪水の後なので、鳥はあちこちに動物の死骸が漂っていたことでしょう。水の上に浮かんだ動物の死骸を食べて生きることが出来る鳥は、この時、動物の死体の上にとどまり、あちこち飛び回ったと考えられます。つまり、鳥は、もう箱舟に帰って来る必要がなかった訳です。

次にノアは鳩を放ちました。鳩は白い色をした飼育可能な鳥、聖書では「きよい鳥」に分類されています。ちなみに、聖書で、鳩は、若い時の目の美しさや長距離を飛ぶ鳥として、積極的なイメージで表現されたり、愛や聖霊の象徴としても用いられます。しかし、鳥とは違い、鳩は、水の上に浮かんだ動物の死骸を食べて生きることは出来ません。また、鳥のように頂上を好むのではなく、谷に生息することを好みます。鳩が帰ってきたことは、まだ水が地表を覆っていることを示していたのです。

ノアは7日待って、2度目に鳩を放ちます。すると、鳩はオリーブの若葉をくわえて帰って来ました。高地に水がなくなったのです。さらに7日待って、3度目に鳩を放つと、ついに谷間の地域も乾いたのでしょう、鳩はもう戻って来ませんでした。

ところで、ノアは、この時まで、ただ神様の啓示によって行動してきました。しかし、ここでは神様からの語りかけがないため、普通の方法で状況を確かめています。神様の啓示を通し、また、人間の方法を通して状況を判断したのです。私たちも、この両者のバランスを保つことは大切だと思います。どちらかだけではよくないのです。

さて、ノアの生涯の601年の第1の月の1日、ついに地は乾きました。それでもノアは、さらに57日を箱舟の中で過ごし、神様のことばを待ちました。ノアは、自分でも確認した訳ですが、肝心なところでは神様の言葉を待ったのです。私たちも、神様の啓示と自分の判断とのバランスを保つことは大切ですから、肝心な点においては神様の指示を待ちたいものです。そして、第2の月の27日、地は乾き切りました。ノアが箱舟の中にいた期間は、371日、ちょうど53週でした。ノアは、箱舟に入れと神様が言われた時それに従い、今度は、箱舟から出よとの命令が下って、その命令にも従いました。ノアは、神様の命令に従順だったのです。

ところで、箱舟を出たそのノアが最初にしたことは、祭壇を築き、主を礼拝することでした。ノアは、すべてのきよい動物や鳥のうちから取り、その祭壇の上で全焼のいけにえとして捧げます。しかし、これは、私たちが想像する規模やレベルを遥かに超えています。なぜなら、すべての種類から一つあるいは一つがいであったはずですから、それは膨大な数と相当な時間を要したと思われるからです。とても一日では終わっていません。ノアが最初に行った礼拝とはそのようなものだったのです。

今の時代、よく礼拝に参加するのに、“メッセージに間に合ったらいいや”と遅れて来る人がいます。しかし、礼拝の中で、一番大切なのはメッセージではありません。一番大切なのは礼拝そのものです。神様を礼拝する心の準備を整えて礼拝に臨み、信仰を告白する、それが礼拝です。ただ祝福だけを一方通行で得るのは礼拝ではありません。礼拝の前に心を静め、静かに主を待ち望むこと、そこから本当の礼拝は始まるのです。そして、主の前にひざまずき、そこに主がおられることを認める、そのことこそ本当の礼拝なのです。  2

このノアの礼拝を受けて、主は、再びこの地を呪うことはすまいと約束されました。その理由は「人が心に思うことは、幼いときから悪いものだ」というものです。しかし、かつてこれは地を滅ぼす理由となったものでした。それが、ここで地を滅ぼさない理由となったのです。ここに神のジレンマがあります。大洪水は、神の義を示すために起こりましたが、人間が罪を犯すたびに裁きの洪水が必要なら、神様は何度でも同じことをしなければなりません。そこで、主は、この時点から違う方向へとご計画を進めていかれているのです。それは、神様の憐れみと恵みを示す計画でした。その究極が、御子イエス様の十字架だったのです。主イエスの贖いの死によって、私たちは滅びから解放されました。

ですから、ノアのこの祭壇と全焼のいけにえは、そのカルバリの丘の十字架の予表であり、神の義と愛、それが交差したところに立つ、十字架の象徴なのです。神は葛藤されました。そして、このところから、神様の義と愛によって、私たち人類を救おうとされる契約が進み始めるのでした。

その聖書の神様は契約の神様、誠実で決して変わることのないお方です。ですから、この神様に守られている私たちは、その守りの完全さと確実さの恵みに与っているのです。

最後に、大洪水は、バプテスマの型です。ペトロ一3:20b~21に「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」とある通り、バプテスマは、イエス・キリストを通して、罪を洗い清められて救われることを願う、正しい良心による誓いです。ですから、私たちも、バプテスマという儀式を通過し、霊的にも増え広がるようにと期待されています。

ですから、バプテスマを受けて良かった、だけで終わってはいけないのです。そこでとどまっていたのでは50点です。なぜ、日本人クリスチャンが増えないのでしょうか。それは、クリスチャンが伝道をしていないからです。まず、御言葉をよく知り、バランスの取れた健全な信仰生活を身に着け、自分に出来る目の前のことから始めていきたいと思います。今週も、主の救いの御業に感謝と讃美を捧げつつ、この良き知らせを語り続ける者でありたいと思います。

お祈り致します。

義であり愛であられる御在天の父なる御神。聖なる御名を心より讃美申し上げます。御子イエス様、主の深い憐れみと恵みにより、私たちの罪の贖いのため、十字架の御業を成し遂げてくださいましたことを心から感謝致します。何という恵みでしょうか。ノアの時代、あなたは箱舟を用意され、ノアたちを救われました。そして今のこの恵みの時代、あなたは、私たちのために十字架の信仰により永遠の命を与えることを約束してくださいました。ありがとうございます。ノアは、真剣かつ厳粛な思いで、礼拝を捧げました。私たちも今、あなたの命が代価として支払われたその救いの御業を讃美し、心からの感謝と礼拝を捧げます。どうか、清めてお受け取りください。そして、まだあなたの愛を知らない人たちがあなたに出会われますように。私たちをその平和と和解の道具としてお用いください。この祈り尊き救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。