「境を超える救い主」8/2 隅野徹牧師

  8月2説教 ・聖霊降臨節第10主日礼拝(平和聖日)
「境を超える救い主」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:レビ記13:45~46
   ルカによる福音書17:11~14

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 日本基督教団では、8月の第一聖日を「平和聖日」として定めています。

 今年の「平和聖日」は、題につけたように「境を超えて」つまり「ボーダーを超えて相手を愛するために近づく主イエスの愛」ということを特に覚えようと思います。

 初めに、最近私の「大切だけれども、なかなか近づいて会えなかった方々に会えた」証しをさせてください。

 先週の日曜日、4ヵ月ぶりに、仕事で「山口市の外」へ出て安岡教会の礼拝でご用をさせていただきました。これまで会議の出張だけでなく他の教会の講壇に立つ機会も多かったですが、それらの機会が与えられていたことがいかに幸いかを改めて思いました。自分自身、他の教会や信徒のことを知り、祈ることが自分の力になっていました。その裏で「山口信愛教会の皆様がどれだけ祈って送り出して下さっているのか」も感じました。

 今回安岡教会に遣わされるにあたり、安全面やご用の祝福を祈ってくださる方がたくさんあり、思いをもって向かわせていただけました。「祈って送り出される喜び」を感じたのも4ヵ月ぶりでした。そして先方でも信徒の方8人が祈りつつ、私のご用を待ち望んでいてくださいました。「説教原稿や動画の配信ではなく、やはり牧師が直に来てくださって礼拝を守れることは本当に大きな恵みだ」と言って下さいました。

 今回は、安岡教会に通っておられるお一人のかたに「洗礼を受けてみたらどうですか」とお勧めすることができる恵みにも与れましたし、教会員の一人ひとりのこと最新の近況を覚えて祈ることができるようになりました。本当に遣わされることの意味、感謝をあらためて感じることができました。

 これまであまり、私が安岡教会でどんなご用をしているのか、どんな感謝なことがあったか…皆さんにあまりお伝えしていなかったことを反省しています。「日本基督教団山口信愛教会」の皆様は、教師を遣わすことで「他教会の様子を知り、祈る」恵みに与ることができます。

 これからも新型コロナウイルス感染拡大の影響で、移動の制限、活動の制限は続くでしょうが、しかし!それでも「山口信愛教会が、視野を広く持って、他の教会のために祈り助けられる教会として歩めるように」私も心掛けてまいります。それが「キリストの歩みに倣う教会」としての姿なのかなと思います。

 今朝中心的に読む聖書箇所は、人間の狭い視野を遥かに超え、すべての人間を愛し抜かれる「主イエス・キリストの姿」が描かれている箇所です。

 1ヵ月前にも取り上げたルカによる福音書の17章「重い皮膚病を患っている10人の人をイエスが癒される箇所」の前半部分です。平和のメッセージを聞いてまいりましょう。 

 いま新約聖書の142頁をお開きいただいているでしょうか?

 ルカによる福音書17章11節以下では、「感染する病気」や「民族間の対立」を越えて人々を愛されるイエスの姿が記されています。

 種類は違いますが「感染する病気」も「民族間や人種の対立」も最近私たちの間で大きなニュースとなっている事柄です。そのことで「平和とは程遠い世の中だ」と感じられることも多いですが、しかしイエス・キリストにあって希望があること、2020年の今日「平和聖日」で感じていただいたら幸いです。

 まず、11節を読みます。

 イエスはエルサレムに向かって進まれるに、ガリラヤ地方とサマリア地方の「ちょうど境の辺」を通られたのです。わざわざここを通られたのには理由があったのです。

 一つ目は「民族間の壁を超えるため」です。イエス・キリストは人間としては「ユダヤ人」としてお生まれになりました。弟子たちもユダヤ人です。しかし、ユダヤ人とサマリア人はこの数百年前から激しく対立するようになり、お互いに交わることをさけていたのです。その様子は旧約聖書にもたくさんでてきます。

 有名なところでは、ヨハネによる福音書4章の「サマリアの女」の箇所にその対立の様子が描かれています。そしてイエス自身がユダヤ人たちに「良い隣人とはどういう人か」を教えた「善きサマリア人」の譬えでも、ユダヤ人とサマリア人が対立していた様子が見て取れます。

 しかし、それだけ対立していても、神の子イエス・キリストは、それでも「愛をもって近づかれる」のです。少し前の124頁を開けていただけますか?9章51節から56節です。ここにはどんなに歓迎されなくても、礼を失するような態度を取られても、それでも「愛し抜かれる主の姿」が描かれています。9章の51節から56節をお読みします。

 いかがでしょうか? 今の世の中、すこし民族間の対立が激しくなればすぐ「焼き滅ぼそう」という弟子たちのような言葉が行きかう世の中になっていると感じます。

 しかしイエスは、9章のこの場面で弟子たちを戒められただけにとどまりません。今朝の聖書箇所である17章で、「再び!サマリアに近づかれる」のです。

 分断が進む世にあって、私たちは「境、ボーダーを超えて」人々を愛される、この救い主の姿を目に焼き付けましょう。

 もう一度142頁に戻ってください。先程11節のところで、イエスがわざわざ、ガリラヤ地方とサマリア地方の「境の辺」を通られたのには「2つ理由があった」とお話ししました。2つ目の目的は何かというと「ある人々を訪ねるため」だったのです。それは、町はずれの「ある村」に住む「十人の重い皮膚病を患った人々」でした。

 イエスは社会から疎外された人々に関心を示され、それらの人々のもとに出かけて行き、相手に触れ、癒されたということが聖書の何カ所にも記されています。残りの時間、ルカ17章を通して、「重い皮膚病に感染してしまった」ことによって社会から疎外された人々に対しての「イエスの愛」を学びましょう。

 12節、13節、14節を読んでみます。

 なぜ重い皮膚病の人が、隔離されていたのか、そして人に近づくことが出来ず遠くから声を張り上げねばならなかったのでしょうか?そしてイエスはなぜ「祭司に見せなさい」と言われているのでしょうか。実はこれらの答えは皆、旧約聖書に記されている「律法の規定」を見ると分かります。

 その「律法の規定」が、今朝のもう一カ所の聖書箇所であるレビ記の13章45節、46節です。

 この少し前の17節には「重い皮膚病が治ったなら、祭司が清いと言い渡す」という規定があります。イエスはこの規定に基づいて、彼らに「祭司のところにいくように」と言われたのであります。

 重い皮膚病にかかっている人が汚れた者であり、神のみ前に出る礼拝に相応しくないということを聞くと、私たちは「ひどい差別だ」と感じてしまいます。しかし、背景をよく知る必要があります。

 レビ記の13章の規定では、医療の専門家ではなく「祭司」が「汚れている」とか「清い」とか宣言すると定められています。このことから分かるように、レビ記13章は公衆衛生の観点からではなく、神との関係という観点からの教えなのです。

 具体的に言えば、普通の状態の人と、汚れている人とが一緒に神を礼拝しないための規定なのです。重い皮膚病を負った人が宿営の外に住まなければならないのは、彼らを愛し守るためのものでありました。                

 宿営の外にいるから、永遠に「神との交わりが絶たれる」訳ではありません。

 普通の状態の人と一緒に礼拝していたのでは味わえない「神との深い交わりが与えられる」そのためにも、同じ痛みを持つ者同士で、支え合う中、神との交わりを回復したいと切に願う思いを養おうという神のお考えだと私は理解します。そしてなにより、治れば、祭司の証明のもと「礼拝に戻ることができる」ことがしっかりと教えられています。

 しかし!イエスの時代、律法を厳格に守り過ぎた弊害が起きてしまいました。重い皮膚病など、共に礼拝は守れなくても「本当は憐みの心で接しなければいけない人々を」、律法の規定を理由に「排除してよい人だ」と裁いてしまい、その結果「苦しみを負う人がはじき出してしまった」のです。

 新型コロナウイルス感染拡大している今の世界でも、イエスの時代と同じことが起きているのではないでしょうか。 社会のルールや人間が思う常識を「あまりにも厳格に守ろう」とする結果、多くの人が差別され、切り捨てられる…その結果傷つく人は溢れていますが、それでも「正しいかどうか分からない自分の考えを正当化してしまうため」自分が人を差別しているのかどうかも分からなくなっているのが今の世だと思います。

 コロナを蔓延させたあの国が悪い。 感染したあの人たちが悪い!感染者を多く出した、あの地域が悪い! そうやって悪者を特定し、神に代わって成敗しようとする私たちは、なんと罪深いのかな…と思います。もちろん自分も同じです。人を排除しようとする罪を悔いあらためたいです。

 しかし神の子イエス・キリストはどうされたかを目に焼き付けましょう。憐み深く接せられ「傷ついた彼らの心、を癒されよう」となさるのです。そしてご自身の業を通して、再び「神の家族として共に礼拝する者として復帰できるように」して下さる、そんな様子が描かれています。

 今日私たちがイエスのお姿からとくに覚えたいこと、それは「感染してしまった人が恐れや差別の対象ではなく、愛や奉仕の対象だ」ということです。

 私たちは、この主イエスによって、罪を清められ、そして新しい命をいただいたのです。だから、「分断・排除」といった世の流れに飲み込まれるのではなく、主イエスの愛に倣って生きていきましょう。

  今、私たちには感染症に苦しむ人に対して、対策を良く練り、よく祈った上で「できる愛」を注いでいきましょう。直接人に接しなくても、イエスが示された「愛の実践」は色んな形で出来ると信じます。その心が、分断が一段とすすんだ今の世で「平和を作り出すものとして神に用いられると信じています。(祈り・沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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