3月12日 受難節第3主日礼拝
「弁解の余地がない罪」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書15:18~16:4a
今朝も、ここのところ続けて読んでいますヨハネによる福音書の「十字架が目前に迫った中でのイエスの言葉が記された箇所」から読み進めてまいります。今日の箇所は、イエスが弟子たちに対して「世から迫害されることを予告される」の箇所です。
イエスがここで言っておられるのは「世とあなたがたの間には根本的に対立関係があり、あなたがたは常に世に憎まれるのだ」と言うことです。これは12弟子だけのことを言っておられるのではなく、イエス・キリストを救い主として受け入れた者すべてに対して語っておられることなのです。
私たちに対してのメッセージだとしたら「厳しすぎないか?」と感じる方もいらっしゃったことでしょう。しかし、この箇所ではかなりはっきりと語られています。19節をご覧ください。このように語られています。
「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。
あなたがたはもうこの世にとって「身内ではなくなっている」というのです!イエスを信じて生きている私たちはもう世にとって「よそ者」になっている。だから世はあなたがたを憎み、嫌うのだと言っておられるのです。
迫害を受けるキリスト教徒たちを支援する国際NGO「オープン・ドアーズ」は2022年1月、「76カ国で3億6000万人を超すキリスト教徒が、信仰を理由にした過酷な迫害や差別に苦しんでいると報告しています。その数は前年と比べて2000万人増えている」と報告し、世界中のキリスト教徒の迫害状況は過去30年間で最悪だと述べた。
アジアの国も酷いのですが、とくにアフリカのクリスチャンたちが「極度の迫害」にさらされているとされます。過激思想を持つものや、愛国主義者たちが「クリスチャンを撲滅」することを目的に、無差別かつ残忍な攻撃を続けていると報告されています。
今日の箇所である、ヨハネ16章2節に「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。」とあります。この「会堂」とは、当時のユダヤ教の会堂ですが、「地域の交わり、コミュニティーから追放される」ことが予告されたのです。それは初代教会の頃実際に起こったことですが、実は今も世界のあちこちで起こっていることなのであります。
今の日本に住む私たちは「自分がクリスチャンである」と告白して命を狙われたりすることはないかもしれませんが、「クリスチャンになるなら、縁を切る」などと言われたり、苦しんでいる人は私たちの身近にもいるはずです。
そして先ほどからお話ししているように、世界では「同じキリスト信仰をもつ兄弟姉妹の多くが、理由もなく迫害されている」状況です。彼らと連帯する、覚えて祈るためにも、大切なことをこの箇所から学んでまいりましょう。
まず「なぜ、イエスはなぜ世に憎まれるのか」それを今回の箇所の言葉から読み解きたいと思います。22節から25節を読んでみます。
特に注目するのは21節の終わりの「わたしをお遣わしになった方を知らないからである」という言葉です。聖書で用いられる「知る」はただ「情報を得る」ということと違い「人格的に受け入れる」という意味で用いられます。つまりここでは「世の人々が、イエスを神が世にお遣わしになった救い主であること受け入れない」という意味なのです。
イエスは、弱く貧しい人間としてこの世に来られ、弱い者として歩まれました。
しかし、それは多くの人が人間的な思いで「期待していた救い主像」とは全く違ったのです。
多くの世の人が「自分の生活を豊かにしてくれる、自分に繁栄をもたらせてくれるリーダー」としてイエスに期待をかけました。具体的には「病気を治してくれるリーダー」「食べ物をいつでもたくさん与えてくれるリーダー」そして「当時世界で力を振るっていたローマ帝国を倒すリーダー」そのようなものです。
そして2節の後半の「しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と予告された通り、「イエスは社会の邪魔だ」と考えた人が「神」を持ち出して、キリストを迫害し、そしてキリストを信仰を持つものを実際に迫害したのです。
実は、当時の「世が期待する救い主像」は現代でもさほど変わっていないように私には思えます。「自分の願いを都合よく叶えてくれるリーダー」を救世主としてもてはやす生き方。それは「自分が神様」になった生き方です。聖書全体の指針であり、絶対的な教えである「神を愛し、隣人を愛する」生き方の真逆であります。
そのような「自分に都合のよい生き方を指向する人々」が、「私は聖書をしならかった。何が罪なのか知らなかった」と言い訳・弁解をする余地はありません。
それは、すでに「罪人たちをご自分のもとに招き、弱い者、貧しい者、苦しんでいる者、悲しんでいる者への神の愛を語り、その神のみ心を業によって示されたイエス・キリスト」によって「自己中心的に生きることが罪であることが」はっきりと示されているからです。
今日の説教題はこのことから取らせていただきました。
この世は「罪の解決なんて関心がない。弱い立場の人と共に生きることも関心がない。今、自分の人生が充実していればそれで充分ではないか」という考えの人で溢れかえっていると思います。 しかし、この考え方が「造り主である神の御心から外れた、罪であること」は疑いようのないことなのです。
私たちは「それぞれの人生に立ち入ってはいけないから、キリストを証しするのも、教会に誘うのもやめておこう」と思っていないでしょうか?しかし、その考えもまた「自分に都合よい生き方」であり、キリストが示し教えてくださった生き方とは「相反するもの」だということをこの箇所は表していると考えます。
私たちは皆「罪人たちをご自分のもとに招き、弱い者、貧しい者、苦しんでいる者、悲しんでいる者と共にあゆまれた主イエス・キリスト」そして「苦しくとも、キリストの足跡に続いたクリスチャンたちがいたからこそ」今のわたしたち一人ひとりがいることを決して忘れてはならないと思います。
イエス・キリストがもたらして下さった救いを信じて、主がなさったように「罪人を迎え入れ、苦しんでいる者、悲しんでいる者を愛した」クリスチャンたちによって信仰のバトンが繋がれてきたことを覚えましょう。
残りの時間、クリスチャンはなぜ「迫害される」のかをこの箇所の御言葉から考えてみたいと思います。一言でいうなら「クリスチャン一人ひとりに原因があるのではなく、イエス・キリストに原因があるのだ」ということがイエスご自身の言葉ではっきりと言い示されているのです。
これは、今回の箇所では18節から21節で読み取れます。特に最初の18節の言葉をピックアップします。
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に、わたしを憎んでいたことを覚えなさい。」
これは非常に慰めの言葉だと私は感じますが、皆様いかがでしょうか?
皆様も信仰を持ったことが理由で「不当とも思える苦しみ」にあったことがきっとおありだと思います。真面目に、熱心に主に向き合おうとすればするほど、そういう苦しみは多くなるでしょう。
しかし私たちの救い主イエス・キリストは「あなたが悪いのではない。私に責任があるのだ」といってくださるのです。
私はサッカー日本代表の森保一監督が大好きなのですが、森保監督は試合でミスをした選手を絶対に「責めず」「起用した自分に責任がある」と常に答えているのをご存じの方も多いと思います。
少し前に行われたカタールワールドカップで敗退した試合でもペナルティーキック、いわゆる「PK」を外した選手にも「勇気をもってペナルティーキックを蹴ってくれてありがとう」と声をかけたそうです。
聖書の最後の「ヨハネの黙示録7:17」に「終わりの時、神が苦しみを通ってきた者の目から涙をことごとくぬぐってくださる」というような言葉がでます。
私たちの救い主イエスキリストも「わたしがあなたを世から選び出したのだよ。わたしのために苦しみを負ってよく頑張ったね」と、責任をとり、痛みによりそい、労って下さる方なのです。
もちろん、おのおので振り返り「修正すべきところ」を直していくことは必要でしょう。しかし、苦しみのときにも「傍にいて下さり、支えて下さる」イエスがおられるから、世界の多くの信仰者は「迫害があっても、それでも信仰を捨てずに、前へすすめた」のではないでしょうか。
そして26節27節で言われている通り「神・キリストご自身の霊である聖霊」が私たちの心に宿ることによって、私たちは「神・キリストと一つになって歩み」「その御心を証しすることができる」のであります。 苦しいとき、「一人ぼっちにはされない」のです。共に苦しみ、共に慰め励まして下さる、そんな主に用いられてまいりましょう。
厳しい箇所ですが、ここの言葉からキリストの「愛」を感じ取りましょう。そして、私たちも先人のように「苦しみがあっても、それでも主に用いられたい」という思いをもてれば幸いです。(祈り・沈黙)