「復活の主は何度も私達の前へ」4/14 隅野徹牧師


  4月14日 復活節第3主日礼拝
「復活の主は何度も私達の前へ」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書 21:1~14

 

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 復活節第三節の礼拝を持つ今朝、聖書日課から説教箇所として私が選んだのは「ヨハネによる福音書21章」です。この場面は、神の子イエス・キリストが復活され、都であるエルサレムで弟子たちに姿を現された「少し後」の出来事です。

弟子たちは再び、復活されたイエス様にあえるとの約束を信じ、エルサレムからガリラヤまで移動しました。都のエルサレムでは「イエスを殺せ!」と叫び、実際にイエス様を十字架に追いやった人々が、「イエスの弟子たちも許さない!」などということを恐れて、心が苦しかったと思われます。そんな「喧噪、こころの不安」がある「都エルサレム」を離れ、自然豊かな「ガリラヤ湖、別名ティベリアス湖畔」で、復活の主に弟子たちは「平安にみち、ゆっくりと生きた対話・交わり」をした…そのことが描かれるのです。

実はこのヨハネ21章は、「あとで付け加えられたものではないか」という批評が起こる箇所です。その理由としては、20章の最後で、「ヨハネによる福音書」は一旦締めくくられているように読めるからです。

しかし、私は思います!あとで付け加えられたのだとしても、この21章で締めくくられるからこそ、ヨハネによる福音書は恵みが増すのだと!

つまり何がいいたいかというと、ヨハネ21章は、いったん閉じられたヨハネ福音書が、神に導きの元で「もう1章加えられた」のですが、これはパズルの最後の1ピースを埋めて完成させるような感じだったのではないか、ということです。

その最後の1ピースは「緊迫した、鍵のかかったエルサレムの一室での出来事とは対照的な、平凡な日常生活の中で「復活の主はどのように生きて働かれるのか」を教えるものだと私は理解しています。

21章が加えられた理由は「復活の主の出来事について、書き残したことがあったから、足された」というよりは「ここを読む、後代のクリスチャンたちに対し、大切なことを教えるために書かれたのだ」ということが私には迫ってきました。

今日、この箇所を味わう皆さんの日常でも「復活の主がどのように生きて働かれるのか」をお感じ頂いたら幸いです。

今回の箇所ですが、1節から10節までの物語の展開は「非常に印象的で、分かりやすい」ですので、敢えて説明することはしません。

今回の箇所を味わう上でキーになるのは10節から14節の「象徴的な表現」だと考えます。 その中で今回は「2つの数字」に注目して話させていただきます。

まずは11節の「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」という言葉の「153」という数字に注目します。

なぜ取れた魚が「153匹」なのしょうか?

もちろんこの「153」というのは、本当に網の中にいた魚の数ではなくて「象徴的な数」として理解されてきました。

代表的な理解の仕方として「153匹とはガリラヤ湖に生息するすべての魚の種類であるという」ものがあります。ここから「キリストの教えはどのような国、どのような人々であっても、世界のすべての人々に宣べ伝えられていくものであるということを象徴している」という解釈がありました。

それでも網が破れなかった…というのは「教会はすべての人々を受け入れることができるということを示しているのだ」という説があります。

他の有力な説としては、153が「特別な倍数の数であり、神の御業の完全性を表している」というものがあります。今回、私には「この説」が心に迫ってきました。

弟子たちの目線で考えると、復活の主とともにいただく朝食の場面で「目の前には153匹の魚がいた」ということになります。この完全な数である「153匹の魚」を見ながら、弟子たちは「最初に弟子として召されたときの出来事」や「五つのパンと二匹の魚で、何千人もの人たちに食糧を与えられた場面」を思い起こしたのではないでしょうか。

エルサレムを離れ、平凡な日常、元の生活に戻ろうとしていた。弟子としてイエスの御業を間近でみたその経験が薄れようとしていたそのとき、これまで「完全なご自身の御業を思い出すように」主自らが導かれたのです。

そして、食事まで用意されるのですが、それは「153匹の魚を傍らでみながら」つまり「主の御業を思い出しながら」の食事の席を主イエス自らが用意して下さっているのです。

これは私たちの教会も月に一度守っている「聖餐式」が、主の完全な業を思い返し、改めて、感謝の思いをもって歩むようにと備えられていることと重なります。

私たちもこれまでの人生で「神のくすしき御業」を何度も目撃していると思いますが、それを見失ってしまうことがあります。しかし、主イエス自ら招き備えて下さる食事の「聖餐式」をとおして、主の下さった恵みを思い返してまいりましょう。

最後に、もう一つの「数字」に注目してメッセージを閉じます。

その数字とは、14節に出る「「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」という「3度目」という数です。

となりのページP210の20章10節以下を少し見ましょう。

十字架刑と復活のうわさで「ある意味混乱していた都エルサレム」、そのとある部屋で弟子たちは隠れていました。そのとき「二度」復活されたイエス・キリストは姿を表されました。このことで、弟子たちは「裏切ったり、疑ったりする罪が赦される」恵みをうけました。

しかし、この二度では「完全ではない」と私は感じました。それは…喧噪と興奮の中での「復活の主との出会い」は大切ですが、「平凡とも思える日常」の中で復活の主を感じることが弟子たちは体験する必要があったのではなかったか…そのように感じたからです。

だからこそ今日の箇所21章の物語が記され、その最後の14節に「これがもう三度目である」という言葉が出るのだ、と理解しました。

聖書において「三度」という表現は「完全数的な感じの何度も繰り返して」という意味でつかわれます。これに基づいて21章14節を理解するなら「イエスは死者の中から復活された後、何度でも、弟子たち、私たちに現れてくださっているのだ」ということを伝えようとしているのではないでしょうか。

喧噪の都エルサレムの「隠れていた、狭い部屋に2度現れられた」だけでなく弟子たち、私たちの日常において「復活の主はいつでもともにいてくださり、その歩みをお支え下さるのだ」ということを、ヨハネ21章は伝えている!そしてヨハネ福音書は締めくくられている…そのように神が導かれたのだと、今回私の心には迫ってまいりました。

12節後半に「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」という言葉が出ます。当たり前ともおもえるこのことを、聖書がわざわざいっているのは、20章のトマスをはじめとする「弟子たちの疑い」と対比する形で描かれているからではないでしょうか。

イエスが死者の中から復活したなんて信じられない!と弟子たちは20章の段階では思っていましたが、21章では、弟子はだれも「復活の主がそこにおられる」ことを疑っていないのです。

復活して生きておられるイエス・キリストが今私たちと共にいて下さる。その満ち足りた祝福をイエスと共にする食事において弟子たちははっきりと感じたのです。それが「あなたはどなたですか?と尋ねるようなことはなかった」という表現に表れているのです。

 2度で終わらず、「3度目も」弟子たちに現れて下さる主イエスは、天に昇られてから「何度も」弟子たちに現れ、その都度励まし、いつも共にいてくださり支えられた。その復活の主は、時代を超えて私たちの「日常生活の中で共にいて支えて下さる」そして、私たちがそのお姿を見失いそうなときは、姿を表して下さるのです。

私たちの日常の暮らしや営みの中では、「苦しいこと」も「うまくいかない」ことが多くあります。この場面の弟子たちのように「一生懸命働いたけれども、なにも収穫がない…」そんな苦しい日々が何日もあるのが私たちの人生ではないでしょうか。

それでも、目には見えずとも、イエス・キリストは傍にいて「私たちの日常生活」をささえてくださっているのです。私たちは「キリストが傍におられるにもかかわらず、そのことに気づかない…今回の場面の弟子たちのようなことがたくさんですが、それでも復活の主は「語りかけ」そして「食卓に招いてくださる」、そのことが示されているのです。

私たちの日々の様々な営みの中に主がいてくださることに少しでも感謝しながら、共に歩んでまいりましょう。  (祈り・沈黙)