「戸口に立って招くお方」4/21 隅野徹牧師


  4月21日 復活節第4主日礼拝
「戸口に立って招くお方」隅野徹牧師
聖書:ヨハネの黙示録 3:14~22

(画像が開くのが遅い時は「Open in new tab」を押して、PDFダウンロードして早く見る事ができます。)

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 復活節第四節の礼拝を持つ今朝、聖書日課から説教箇所として私が選んだのは「ヨハネの黙示録3章14節」です。

この「ヨハネの黙示録」ですが、1世紀末にあった「ローマ皇帝による激しいキリスト教迫害」の中で、ヨハネが与えられた「幻」が記されているのです。幻ですから人間の知性では理解が難しい…だけれども「この地上で目に見えるものを超えて、確かに与えられる希望が見て取れる」そんな書です。

そんな「ヨハネの黙示録」は、当時ローマ帝国の属州であったアジア州にあった7つの教会へ」の手紙で始まります。その最後7番目の手紙が、今回の箇所「ラオディキアの教会への手紙」なのです。

ローマから距離のあるアジア州は、当時「しめつけ」のために「皇帝礼拝の強要が行われていた」と言われています。そんな中「迫害の危険の中、イエスは主である」という信仰にかたく立ち続けた教会と、「世に迎合し、名前だけのキリスト信仰の教会」になってしまった教会とに分かれてしまったのです。 今回の箇所の手紙が宛てられた「ラオディキア教会」は、残念ながら後者の教会だったことは明らかです。

目に見える現実をこえて、世界をすべ治めておられる「神の子、救い主イエス・キリストを信じて、最後まで忠実であるように」とのメッセージを、神は幻というかたちでヨハネに伝え、それが手紙としてアジアの教会に送られた。その文を、私たちは聖書の「ヨハネの黙示録」として読んでいるのです。 

今日は後半の20節から22節より「中心のメッセージ」を語らせていただきますが、最初に短く「ラオディキアの教会の状況」がわかる14~19節を、ざっと見たいと願います。

前半の箇所の言葉で印象的なものとして15節16節の「わたしはあなたの行いを知っている。 あなたは、冷たくもなく熱くもない。 むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」という言葉が挙げられるのではないでしょうか?

これは 「中途半端がよくない」ということが教えられているのではなくて、「ラオディキアの信徒たちの信仰の生ぬるさ」を指摘し、そこから目覚めてほしいという主の愛に満ちた叱責なのです。

毛織物の産出や、目薬をはじめとする「医薬品の生産・物流」などで経済的に繁栄した町にあるラオディキアの教会に、「あなたは、『わたしは金持ちだ。 満ち足りている。 何一つ必要な物はない。』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」と言われたのです。

自分が罪人であり、神の憐れみがなければ生きていくことができない者である…という自覚がない状態こそが聖書の教える「なまぬるい信仰」なのです。わたしたちはとかく「こういう生ぬるい状態に陥りやすい」ということを自覚的に覚えておく必要があるのではないでしょうか。

これは、順調で「何でも自分の力でうまくできている」と勘違いしているときに陥りやすいですが、それだけでなくここ数年の「コロナ禍」のような、世の中全体が苦しみにあるときにも陥りやすいことだと私は思います。

「自分の本質に目を向けることを避け、どう生きていくかを真面目に考えることが無駄なことのように捉える」そんな雰囲気がこの世にありますが、それに各教会が流されてしまわないことが大切なのではないでしょうか。

ある牧師が、コロナ以降の「日本人の宗教観」が「こんな風に変化しているのではいか」ということを、次のような言葉で表現しています。

「神にはとにかく自分に口出しをしないでほしい、自分が思い通りに生きることを邪魔しないで、こちらが求めた時に手助けをするだけにしてほしい」。

いかがでしょうか? わたしはその通りだ、と感じます。 「邪魔せず、口出しせず、頼んだら助けるだけにしてくれ」 これは神に対してだけでなく、教会に対しても、いろんな「助け合いの組織にしても」こういう姿勢でいる人が一気に増えたと感じます。「自分以外に対して壁を作っている。そして心を閉ざしている。」そうしてなんとか自分を守り、保とうとしている…。そして目先の自分の利益ばかり考えて生きている」それが私たちの現実なのではないでしょうか。

そして!こういう心がエスカレートして「ミサイル攻撃」のような事態を生んでしまっていると私は考えます。

人の心の扉を開くことは簡単ではありません。私は職業柄、人の心を開く働きをしている…そういう気持ちでいましたが、そんな牧師の私が「心を閉ざしている」、つまり自分の罪に目をむけず、また「神に憐れんでいただき、罪からお救いいただいている、その恵みを忘れて、不満ばっかりいっている」そんな姿が、今回の説教準備をしていて強烈にこころに迫ってきました。

 しかし!そのような私たち一人ひとりを「それでも見捨てられない」、そんな神のお姿が20節から21節で描かれるのです。残りの時間、この2つの節をじっくりと味わいましょう。

まず20節の一つ目の文です。ここでは「心を閉ざす私たち一人ひとりに対し、神が外に立って、心の扉をたたいておられる」と教えられます。戸口に立ってたたいている「わたし」とは、復活して天に昇り、父なる神のもとで栄光を受けておられる神の独り子イエス・キリストです。救い主として地上を歩み、十字架の死と復活によって救いを実現して下さったお方が「私たちの心の扉の外に立って、たたいておられる」のです。

自分から心の扉を開くことはなかなか出来ない私たちですが、神であるお方が呼んでくださるので、私たちは心の扉を開くことができるのです。

でも…ただ「開けろ!」と執拗に、脅すように迫るお方ではない。そして無理やりに入って来られる方ではない、ということが続く文から分かるのです。

聖書は、神が「私たち人間の自由意志を大切にされる方だ」と証言しています。神がこの世界と私たちをお創りになった、と聖書は語っていますが、神は私たち人間を、何でもご自分の命令に従うロボットとしてではなくて、神の呼びかけに応えて従うこともできるし、応えずに逆らうこともできる者としてお創りになったのです。

神はそんな「従うかどうかも分からない私たち一人ひとり」なのですが、それでも神は見捨てず、逆にいつも語りかけ、心の扉をたたいて下さっている、ということが証しされるのです。私たちが「神を信じ、神の独り子イエス・キリストを信じる者として生きることができる」のは、各々が鋭い感性をもっているからとか、立派な人格をもっているから、ではありません。

そうではなくて、神が先に語りかけ、戸をたたいて下さっているからこそ、その呼びかけに気づくことができて「信じ、ついていく」ことができるようになるのです。そして「神と共に歩む中で、その絆は少しづつ深まっていく」のです。

20節の2つ目からの文章をご覧ください。

イエスの呼びかけに応じて、私たちが心の扉を開くと、イエスは私たちの内側に入って来られます。「わたしは中に入って」という言葉はとくに注目すべき言葉です。扉を叩いて、私たちが「心の扉をあけてはじめて」中に入られるのです。

そして何をされるのかというと「共に食事をするのだ」とあります。

食事を共にするというのは、「お互いを信頼して心を開いている友人どうしの交わりのしるし」です。心の扉を開いてイエス・キリストを迎え入れることによって、私たちは、イエス・キリストと、共に食事をするような親しい、心を開いた信頼関係に生きる者となるのです。

しかし…食事は私たちが「苦労して用意する」というよりは、主みずからが用意して下さる、その食事に与るのだと私は理解しています。

先週の礼拝の聖書箇所であった「ヨハネによる福音書21章」で、復活の主が「弟子たちが湖から船で上がる前に、岸で既に「パンと魚」などの食事が用意されていたということを読みました。これも「日常の食卓を、目にはみえなくとも復活の主が整えて下さる。そして目にはみえなくとも共にいてくださること」を象徴的に表すものであるとお話ししました。そしてこれはとくに教会が伝統的に守ってきた「聖餐式」の食事を表しているのだと理解されるものです。

今日の箇所のヨハネ黙示録3章20節と併せて理解するならば…「イエスは私たちを食卓に招いて、もてなしをして下さる。そして、イエスとの交わりは深まっていき、絆はだんだんと強められていく」ということが教えられるのです。

戸口に立って心の扉をたたき続けて下さる「イエス・キリスト」の招きに気づき、キリストを心の中にお迎えしたなら、そこに愛の主イエス・キリストが入ってきてくださり、食事を整えて下さるのです。そして、共に食事を重ねる中で、「キリストとの歩みは、どんどん深さを増していく」のです。

それは、家族や夫婦が「同じ食卓での食事を重ねるたびに、絆が深まっていく」のと同じです。

イエス・キリストというお方は一度信じて受け入れたら「マンネリの生活」になるのではなく、「いよいよ、キリスト、そしてキリストの父なる神との絆が深められる…」そんな生活が始まったことを聖書は教えます。

その「日々、神との絆が深まる生活の終点」は、21節の言葉にあるように「わたしたちが神の隣に座ることのできる、天の上の日々」です。

天国での私たちの命は、「はるかかなたの遠いにあるもの」というより、私たちの「今の日常生活」とつながっているものなのです。 

 天国に向かっての私たちの日々は「イエス・キリストとともに食卓を囲み、絆を強めていく歩みの日々」です。 その道のりには「苦しいこと、思い通りにならないこと」が沢山あることでしょう。しかし、そこで冷めて、生ぬるくなってしまうのではなく、「イエス・キリストの招きに応え、日々共に歩む」思いを新たにしましょう。

それが神・キリストとの絆を「強める」ことに繋がっていくことを信じています。

(祈り・沈黙)