「恐れるな、あなたの王が来られる」10/23 隅野徹牧師

  10月23日 聖霊降臨節第21主日礼拝・転入会式
「恐れるな、あなたの王が来られる」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書12:9~19

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 山口信愛教会の礼拝で、続けて読んでいる「ヨハネによる福音書」ですが、只今12章8節までを読み進めました。今回は「イエスがエルサレムに入城される場面」がある12章19節までの部分を読み進めます。(※今日はこの後、転入会式があるので、短めにお話しします)

この「イエスのエルサレム入場」は「馬ではなく、ろばの子に乗ってイエスがエルサレムに入られる」場面として有名です。4つの福音書すべてで、この場面は描かれていますが、ヨハネ福音書の描き方は「マタイ、マルコ、ルカの三つとはかなり違った描き方」です。

最初にそれをお話ししますが、一つ目の違いは「11章に描かれた、ラザロの復活とのつながりの中」で描かれていることです。今日の箇所の9節と10節にあるように「ラザロの復活の出来事を通して、イエスだけでなくラザロの命も狙われはじめた」のです。いよいよ十字架が近いことを感じさせながら、エルサレム入場を描いています。

二つ目の「ヨハネ福音書でのエルサレム入城の描き方の違い」それは、人々の期待、弟子達の期待と、ろばの子にお乗りになったイエスの思いとの違いを際立たせて描いていることです。今回はこの「二つ目のこと」に注目して、12節から19節に絞ってメッセージを語ります。

まず12節と13節を読みます。

イエスがエルサレムに入られる時に、人々が、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」という詩編118編26節の言葉をもって歓迎したと記されています。これは他の福音書全てが語っています。違うのは、ろばに乗られる「前に!」人々が「この歓迎の言葉を叫んだ」ことと「なつめやしの枝」を持ってイエスを迎えたことです。これが先ほどお話しした「人々、そして弟子たちとイエスの思いのギャップ」が描かれる要因となっています。

なぜ「なつめやし」別名「棕櫚」の枝なのかというと、「なつめやしの枝を振る」ということには、エルサレムが異邦人の支配から解放されたことを喜ぶ、という意味があったからなのだそうです。かつてイスラエルを苦しめている異邦人に勝利してその支配からの解放をもたらす王の到来を喜んで迎えたとき「なつめやしの枝」を振って出迎えたことに由来するのだそうです。

このとき、エルサレムをはじめとするイスラエル全土はローマ帝国に支配されていました。エルサレムの人々は「ローマに勝利して神の民ユダヤ人を解放してくれるイスラエルの王を待ち望んでいた」のですが、「イエスこそその王だ!」と思って、なつめやしの枝を振って歓迎したのです。

順番を入れ替え、17、18節をみます。(※よんでみます)

イエスがラザロを死者の中から復活させたところを見た人は、その出来事を多くの人に知らせました。それを聞いたので多くの人が「イエスこそイスラエルの王であるに違いない!」と思ったのです。

偉大な力を持っているこのイエスが、ローマの支配から解放してくれる王だ…という感じでしょうか。

 そしてこれは弟子たちも同じ気持ちだったと思われます。16節をご覧ください。

「弟子たちは最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」とあります。

「それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにした」とは何を指しているかというと、「イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入られたこと」を指しているのです。弟子たちにはイエスがろばに乗られたことの意味がこの時まだ分からなかったのです。

それが分かったのは、イエスが栄光を受けられたとき、つまり十字架でしなれ復活されてからです。

十字架にかかられて死に、復活されたイエスと再び出会ってはじめて弟子たちは「イエスが、力によらずにへりくだりによって、つまり十字架の死と復活によってまことの王となるためにエルサレムに入られたのだ」ということを知ることができたのです。

それまでは、イエスの弟子たちですら多くの民衆と同じく「イエスに力と権威によって、ローマを倒してほしい」という期待を抱いていたことをヨハネは語ろうとしています。

 ろばの子に乗ることにはどういう意味があるのか…それは、15節に引用されている旧約聖書ゼカリヤ書第9章の言葉です。引用されてから言葉が変わっていますので、ゼカリヤ書を直接読んでみましょう。皆様(今読んでいるところにはしおりなどをされて)旧約聖書のP1489をお開きいただけるでしょうか?

 ゼカリヤ書の9節と10節を読みます。

9節の前半は「都エルサレムに、まことの王が来られ、勝利して王座に着く、その王を歓呼の声をあげて迎えよ」という神からゼカリヤを通して語られた預言です。そしてこの預言が今回の場面と繋がっていることを続く9節の後半の言葉から理解できます。「エルサレムに来られるまことの王は、ろばに乗って、雌ろばの子に乗って来る」ということです。 

これは単に謙遜なへりくだった者として、ということではありません。その意味が次の10節に示されています。

「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」。

つまり「へりくだって」は、「戦車や軍馬、弓といった軍事力によらずして、勝利をなしとげる王だ!」ということです。つまり「強さよりも弱さによって」、その支配を確立するということが預言されているのです。そのような王が来られることによって、真の平和が到来する…そのように預言されています。

イエスはこのゼカリヤの預言が語っている「へりくだった王、弱さによってこそ支配する王」してエルサレムに来られたのです。イエスがろばの子にお乗りになったことはそういうことを意味しているのです。        

皆様、新約聖書のP192に戻していただけますでしょうか。

最初にお話ししたことですが、他の福音書とヨハネ福音書の「この場面の描き方の違い」、民衆と弟子たちの思いと、イエスの思いの違い、そのギャップをここ鮮明に描き出しているところだとお話ししました。

エルサレムの人々の期待、弟子たちの期待と、14、15節に語られているイエスのお姿との間には大きな隔たり、ギャップがあります。

14節に「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」とありますが、他の三つの福音書には、イエスが弟子たちを遣わしてこの「ろばの子」を連れて来させた話が詳しく語られていますが、ヨハネはそこを語りません。ヨハネはこのように敢えて簡潔に語ることによって、13節までの人々の期待と、14節の「ろばの子にお乗りになったイエスの思いとの違い」を際立たせているのだと思います。

 とくに弟子たちの気持ちとイエス・キリストの思いの違いを考えてみましょう。

エルサレムの人々が、イエスを歓迎し、歓呼の叫びを上げるのを見て、弟子たちはとても喜ばしく誇らしい気持ちだったと思います。いよいよこれから都エルサレムで、イエスによる「イスラエルの解放の業」が始まると期待したのではないでしょうか。

しかしイエスはろばの子に乗られました。なぜろばの子なのか?みすぼらしいろばの子なんかではなくて、もっと立派で力強い姿を見せた方がいいのではないか?そのように弟子たちは疑問を持ったのではないでしょうか。

 そのような弟子たちがこの時抱いた疑問が解消したのは、16節にあるとおり「イエスが栄光を受けられたとき」つまり「十字架と復活の後」なのです。十字架と復活の出来事を通してみて「15節にあるとおり、「ろばに乗った真の王、イエス・キリストが来られたから、もう恐れる必要がないのだ」と初めて理解できたのです。

15節の「恐れるな」という言葉は、ゼカリヤ書の二つ前のゼファニヤ書の3章14・15・16節から来ているそうです。つまり、ヨハネはゼカリヤ書9章9節と、ゼファニヤ書3章16節を組み合わせて15節を語っているのです。

ヨハネは、ゼカリヤ書の「大いに踊れ」に代えて、ゼファニヤ書の「恐れるな」をここに持って来たのです。それはヨハネが、弟子たちの中に「恐れ」があることを見ているからでしょう。

自分が信じ、願い、期待している救いと、現実に起っていることが一致しない、神のみ心が分からない、救いがどこにあるのか見えない、という恐れを抱いていた弟子たちに、「恐れるな」と語りかけ、「見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」と神が語られているのです。

力によって敵をなぎ倒すのではなく「捕えられ、十字架につけられて殺されるという弱さによって、私たちの全ての罪の贖いを成し遂げる」ことによる勝利。それは弟子たちが期待していたことと違うだけでなく、多くの人間が期待していることとも違います。

しかし!そこに、力によっては決して得られない平和・平安が与えられる、そのことをこの箇所は示しています。世の中が、どんなに「目に見える力」を重視し、その価値観に押しつぶされそうになっても!私たちは「恐れないで」生きていける!そのことを今朝の箇所から覚えていましょう。

 (祈り・沈黙)