「救われた者の証し」9/13 隅野徹牧師

  9月13日説教 ・聖霊降臨節第16主日礼拝
「救われた者の証し」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書19:1~10

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 今週も、先週に引き続き「ザアカイが救われる物語」を取り上げます。分かりやすい話のように思えて、大切な教えがびっしりとつまっているので2週に分けてじっくりと読むことにした、と先週お話ししました。

 まず簡単に先週のおさらいをします。先週は1節~5節と、9節、10節を掘り下げました。

 ザアカイは「アブラハムの子としての生き方」が崩れ、「アブラハムの子たちを愛してやまない神との関係が崩れて」いました。ザアカイは金もちになり、徴税人でも「トップになり」権力も得たのでしたが、心の中は平安ではありませんでした。だからこそ、イエスがどんな方なのか興味を持ち、イエスに会おうと努めたのです。

 そして4節、いい大人のザアカイが木「恥をかなぐり棄てて!」木によじ登り、イエスに会おうとしたのです。それまで「お金第一」で生きてきたザアカイが「会ったとしても一円の特にもならない、イエスとの出会い」を必死に求めたのであります。

 このように「ザアカイの熱心な求め」によって、お金第一だった、失われたような状態だったザアカイはイエスによって救われることが教えられるのですが、もう一方!その裏側で「神の子キリストもまた、ザアカイとの出会いを求めておられた」だから彼は救われたのだ!ということに目を向けました。

 5節にある、ザアカイとイエス・キリストの出会いの場面、よく見ると「ザアカイに出会うため、そして救うために」イエスがわざわざ会いに来られたことが分かります。        

 ザアカイが人生に虚しさを感じている「ちょうどその時に」エリコの町に入られ、ザアカイが「決意をもって木によじ登った」ちょうどその時、下を歩かれたのも、「偶然ではなく、神のご計画である」なのです。

 また、初対面のはずのザアカイの名前をイエスがご存知で、家に泊まりたい、とまで仰ったということから、「前々からザアカイを必死に探されていたイエスの愛」が読み取れます。

 アブラハムの子でありながら、迷える子羊のように「本来いるべき場所から、さ迷い出ていた」まさに失われた者であったザアカイは、こうして神の御子の深い愛によって救われたのです。

 救いはただ「キリストの愛」によってなされる、それは9節、10節のイエスの言葉からより深く迫ります。

 「この人もアブラハムの子なのだから」というイエスの言葉も、注意深く見るなら「この人は回心して、アブラハムの子になったからだ」とは語られていないことに気づきます。つまり、善い行いを積んで「アブラハムの子になったから、救いが訪れた」とは仰っていないのです。

 そうではなく、ザアカイが「もともとアブラハムの子だったから」救いが訪れたと仰っているのです。もともと神に祝福された命であった、神からみて無条件に愛すべき命であった、だから!10節の言葉通り、神の子イエス・キリストがさがし出され、救われたのです。

 そして、ここにいる私たちもみな「神が祝福されようとしているアブラハムの子」なのだ、ザアカイと同じように「神が罪から救って、祝福しようとしてくださろうとする、大切な命」なのだ、ということもお話しました。

 ザアカイのように、「金や権力を第一とする生き方をしていて、そこからなかなか抜け出せなくても」それでも愛の救い主イエス・キリストは私たちを捜し続けてくださっている!そのキリストの熱い愛を真剣に受け止めるなら、新しく生きることができること、別の言い方で「神の国に入ることができる」ことを今日も頭にいれておきましょう。

 聖書を一ページめくって145頁を開けてください。

 18章15節から「金持ちの議員のはなし」がなされます。その中の25節でイエスは金持ちと神の国について次のように教えられています。

 「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」

 それを聞いた人々が26節で「それでは、だれが救われるのだろうか」といっているほどこのイエスの言葉はインパクトがあったのです。でも、金持ちだったザアカイは救われ、神の国にはいることができたことを聖書は教えます。 神の愛、イエスの愛は不可能を可能に変える力がある!そのことを強く思わされるのが「ザアカイの回心の物語」です。

 今週は、ザアカイのように「神の深い愛に触れて、変えられた人の生き方」について学びます。中心的に掘り下げるのは5節から8節です。自分の生き方を「顧みつつ」御言葉を味わっていただければ幸いです。

 まず5節を読みます。

 先週もお話ししましたが、元の言葉を直訳するたらば「急いでおりてきなさい。今夜はあなたのところに泊まることになっているのだから」となるそうです。

 ザアカイが、恥をかなぐり捨てて、木によじ登ってまで出会おうとしたイエス・キリスト。このお方が出会ってすぐ、「ずっとあなたを捜していた。そして出会ったらあなたの家に泊まることを決めていたのだよ…」 そう言われたのです。

 その愛に触れたザアカイはすぐに行動を起こします。それが6節です。

 急いで木から下りるのは、周りから見ても不格好だったことでしょう。それでも急いで降りて、「大喜びで」イエスとその一行を家に迎え入れたのです。

 これまでずっと、イエスには大勢の群衆が付きまとっていましたから、イエスが実際にザアカイの家に入られる様子を大勢の人が見ていたことでしょう。7節をご覧ください。

 これまで「アブラハムの子たち」である、同胞のイスラエル人から多くのお金をだまし取っていたザアカイは嫌われていました。アブラハムの子としての生き方を捨てて「お金第一」で生きてきた「罪深い者」でしたから、人々からは当然「不満をいいはじめた」のです。それでもイエスは「ご計画通り、ザアカイの家に泊まられた」のであります。

 次の8節は、時間的に少し経ってからのことと考えられます。7節と8節の間の時間で、イエスとザアカイの間にはどんなやり取りがなされたのでしょうか? 実は聖書にはそのことは記されていません。

 出来る限りのもてなしをした後、大切な教えをきいたと想像できますが、聖書は何も語りません。著者のルカがわざわざこれを省略している理由。私はザアカイという人間を変えたのは、シンプルに「イエスと出会いだったのだ」ということを教えるためだ、と考えます。

 よく神・キリストと私たちは「人格的に出会って救われる」と言いますが、教えを頭で理解するよりも何よりも「神・キリストと自分が1対1で出会った」ことを体験することが大切です。ザアカイのように「人格的に神・キリストと出会う」方が多く表れるように、祈ります。

 つづいて今日の中心8節です。

 これは次の朝なのかどうか分かりませんが、キリストと初めて出会い、その愛に触れ、キリストを救い主として受け入れたあと決心が与えられたのです。

 決心の具体的な内容ですが、1つ目が「自分の得ている財産の半分を貧しい人々に施す」とういうものです。2つ目は「だまし取っていることが明らかになったら、それを四倍にして返す」という決心でした。

 一つ目の「財産の半分を貧しい人々に施す」という決心ですが、「すべて」と言わず「半分」と言ったところが「思い付きではなく、よく祈り考えた結果、導き出された答え」という感じがします。

 ザアカイは決して半分を惜しんだのではありません。本当は「すべてを施したい!」という気持ちであったに違いありません。でも、実際に傷つけた人への賠償をきちんとすることも考えたのです。だからささげるのは「半分」なのです。

 残った財産をどうしようと決心したかというと、ザアカイは「不正に取り立てた分を四倍にして返します」と誓ったのです。

 当時の法律によれば、損害額に加え、その五分の一を加えて賠償することになっていました。でも、ザアカイは規定額を払うのではなく「四倍にして返す」と言ったのです。  

 法律的にはそこまでする必要はありません。でも「キリストの愛を受けて、生まれ変わった、愛にあふれるものとなったということを見える形で表す」ということを導かれたのです。

 嫌々では決してありません。自発的に「このような行為」に導かれたのです。その原動力はというと…いうまでもなく「キリストの愛」であります!

 キリストの愛が、ザアカイを生まれ変わらせ、そして「キリストと同じように人を心から愛せるザアカイ」に変えて下さったのです。だから自然と「貧しい人を愛の故に施し」、これまで敵対心のゆえに傷つけてきた人々をも愛し、できるかぎりのことをしようとしたのです!

 私たちもザアカイと同じように「キリストの愛」を豊かに受けています。ですので「愛を受けて生まれ変わった、その証し」をしていきましょう。最後に今日の聖書箇所が示す「主の愛を受けた者としての証しの立て方」をお話ししてメッセージを閉じます。

 ①つ目は、「貧しい人など、いま実際に助けを必要としている人を愛する」ということです。ただ多額を寄付するということとは違います。困っている人のことを心に留めて祈り、主によって、主の愛によって自分にできる助けをするということです。 これは「主の愛を受けた者としての証し」で大切なことです。

 そして②つ目の「証しの立て方」は「いままで、傷つけた相手を愛する」ことです。

 ザアカイは今まで敵対関係にあった「イスラエルの民たち」との関係を、規定以上のものを返すということで回復しようと願いました。はたしてどれだけの人に「返金できたか」は分かりませんが、お金を超えて「ザアカイが生まれ変わった」証は伝わったと、私は信じます。

 私たちはザアカイのように直接だれかに損害を与えたということはしていないかもしれません。しかし、だれか苦手な人、合わない人はいるはずです。それらの人々に愛を示すことは本当に難しいことです。 でも主から受けた愛によって、ほんの少しでも「愛する者」とさせていただきましょう。

 これらのことはもちろん嫌々にやる必要は全くありません。しかし、ザアカイがそうであったように「自分らしく、自然になしていこう」という思いが与えられたなら感謝です。祈りつつ証しを立ててまいりましょう。(祈り・沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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