「教会はキリストの満ちている場」11/15 隅野徹牧師

  11月15日説教 ・降誕前第6主日礼拝・教会改修感謝礼拝
「教会はキリストの満ちている場」
隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書19:45~48
   エフェソの信徒への手紙1:23

説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 8月のお盆明けから始まった、会堂・牧師館の大規模改修工事も、先週の照明の取り換え工事をもって無事終了しました。最初は猛暑の中、屋根や足場に上られたりするなど「高所での作業」が続きましたので、本当に大変だったと思います。しかし工事に携わって下さった方々がご努力くださいました。感謝いたします。また事故なく無事に終えることができたその陰で、祈り支えて下さった教会員の方々にも感謝申し上げます。

 今日は、この工事が無事に導かれたことに感謝するとともに、きれいになったこの会堂を「この先の未来に、どう用いていくか」を皆さんで考えられる礼拝になることを願っていました。聖書箇所は「教会という場所はどのような場所か」示している2つの箇所から語らせていただくことにしました。共に御言葉を味わいましょう。

 先に見るのは、ルカによる福音書19章45節から48節です。1か月ほど前の礼拝でも簡単に触れた箇所です。(読んでみます)

 この箇所、いわゆる「宮清め」の箇所は「あまり好きでない」という方が多いと聞きます。それはイエスがイメージとは全く違う「暴力的」に見えることと、いかにも商売を禁止しているように見えることが原因と言われます。しかし!注意深く見ると、違う側面が見えてくるのです。

 そこで、イエスが「清められた神殿」とは一体どんなものだったのかをお話しします。

 エルサレムに最初に神殿を建てたのはソロモン王でしたが、その神殿はバビロニア帝国によって紀元前5世紀に破壊されてしまいました。その後、ペルシャ王キュロスの助けもあって、紀元前515年に神殿は再建されました。この神殿は、ソロモンの神殿より小さかったようですし、礼拝する以外の場所はなかったようです。

 そして約500年後、建築に長けていたヘロデが、王になって質素だった2代目神殿の大改修工事を手がけます。規模も広げ、豪華に金をかぶせ、見た目が豪華なものに変えたのです。それはヘロデがローマ帝国の支配下にあっても「ユダヤ人の王」であり続けるために「人気取りの手段」の一つでした。

 2代目の神殿は、礼拝する以外の場所はない質素なものでしたがヘロデ王は「異邦人の庭」を新たに設置しました。それは立派になった神殿を異邦人にも見せつけて、自分の力を誇示するためだったと言われます。

 ここまでなら異邦人が入って来てもよいとする「異邦人の庭」。そこには様々な店が並び、商売をしていましたが、祭司などの神殿関係者と組んでぼろ儲けができるようなシステムが作られていたのです。

 両替商や、捧げものを売る店などは市場の約10倍の値段をとっていたというのですから、まさに「強盗の巣」状態でした。

 しかし、今日私が皆さんにお伝えしたいのは、神の御子イエス・キリストは「腐敗の温床になっていた、神殿の存在を否定されなかった」ということです。むしろ「清めて、整えようとされた」ということに注目しましょう。

 ヨハネによる福音書4章21節でイエスご自身が示されているように、神への礼拝は「ある特定の場所に行かないとできない」のではありません。他の宗教と違って、拝むべき対象がある訳ではありません。ですので、イエスは罪や過ちが起きる元となっていたエルサレム神殿が「無くなるべきだ」とか「人々が行くのを止めるべきだ」などと言われてもおかしくなかったと思います。

 しかしイエスはそうはなさいませんでした。

 なさったのは「強盗の巣状態を改善し」、その上で47、48節にあるように「そこに集った人々に教えられる」ことでした。汚れ切った神殿を、イエス自らがきよめ、用いられているのです。法外な儲けを手に入れていた人も、完全に追放されたのではありません。むしろ神殿という場所を「悔い改めのきっかけを与える場所」として用いられていることが分かるのです。

 神殿の役割、つまり「神を礼拝する場」としての役割は、イエス・キリストの復活後「教会」に引き継がれます。しかし神殿がそうであったように、教会は問題が全く無い…そういう場所ではないのです。残念ながら教会という場所にも人間的なしがらみはありますし、ここで罪、過ちが起こることだったあります。

 しかし、この教会という場所を、イエスは「きよめて用いようとなさる」ことを覚えましょう。教会がなくても、個々人が神を礼拝することはできますが、それでも、皆が一つになってイエス・キリストの教えを聞く、この教会を主御自身が愛してくださっているのです。

 実際問題として、私たちは教会に失望したり、傷ついたりすることはあるでしょう。しかし、そんな時こそ、この聖書の場面を思い出しましょう。教会がどんな問題を抱えていても、主御自身がきよめてくださり、未来に向けて用いようとなさるのです。

 私たちは、そのきよめて下さる主イエスに身を任せることが何より大切ではないでしょうか。

 今回、多くの方のご尽力により、教会・牧師館の目に見える部分がきれいに改修されました。ぜひ見えない部分、つまり集う私たち一人ひとりの「心の中」を神との豊かな交わりによって「清めていただき」ましょう。

 残りの時間、もう一つの聖書箇所である、エフェソ書1章の最後の部分を味わいましょう。新約聖書P353をお開き下さい。 20節から23節をお読みします。

 この部分は使徒パウロが、エフェソ教会の信徒に向けて出した手紙が聖書の言葉となっています。

 パウロはここで、神の力がこの世のすべてのものに及ぶことを語っています。

 つまり、神の力がイエス・キリストを復活させ、ご自分の右の座に着かせ、足元に従わせ、そして頭として教会にお与えになった…そのように言うのです。

 22節に注目します。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」とあります。すべてのものの主であるキリストを、「教会」にその頭としてお与えになりました。神は、キリストを教会の頭とお与えになることを通して、この世を保ち、そして治めておられるということが教えられるのです。

 このことから覚えたいのは、教会は「神が、キリストの愛によってこの世を治めるために、特別に用いられる場所だ」ということです。

 来年、創立130年を迎える私たち山口信愛教会ですが、山口の町に神の御心がなるために用いられてきました。多くの方がここで、キリストの愛の福音に触れることができました。

 もちろん、これからの未来も、山口の町に神の御心がなるため、神はこの山口信愛教会をお用いになるでしょう。そうでなければ、今回、これだけ大規模な改修をする機会を与えては下さらなかったと私は思います。

 ただ教会が綺麗になってめでたしめでたし…ではなく、今回の様々な工事を神が導かれたのは何のためか、将来この教会にどんな期待をされているのかを覚えているようにしましょう。

 最後に23節を味わってメッセージを閉じます。

 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とあります。今回の説教題はこの節から取らせていただきました。

 教会は人間的な目で見るなら欠けのある人間たちの集まりに過ぎません。欠けや弱さがあります。しかし、信仰の目で教会を見るならば、「教会はキリストの体」なのであります。そして「すべてにおいてすべてを満たしている方」つまり「全知全能の神が満ちておられる場」なのです。

 ここ山口信愛教会は神、そして神の御子イエス・キリストが生きておられる場であるということを常に覚えていましょう。人間の目から見れば、ただきれいな集会所にしか見えないかもしれません。しかし、ここはキリストご自身が愛される場所であり、キリストご自身が清めて下さり、神の業を働かせてくださる場所なのです。

 そして神が、この世を「ご自身の愛でもって」すべ治めるために用いられる場所!なのです。感謝と畏れをもって、きれいになった会堂を祈りつつ用いてまいりましょう。(祈り・沈黙)

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Download [209.76 KB]