2月5日 降誕節第7主日礼拝・聖餐式
「新しい掟」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書13:31~35
今朝も、ここのところ続けて読んでいます「ヨハネによる福音書」の「十字架につながる場所から」語ることにします。先週は13章21~30の「ユダの裏切り」について記された箇所を、瞳牧師が語りました。今回の箇所は、最初の31節の「さて、ユダが出て行くと」という言葉で始まっているように、イエスの愛にもかかわらず、ユダの裏切りが決定的となり、去って行ったことを受けて、イエスが語られる場面です。そしてこれに続きイエスが「ペトロの離反を予告される箇所」です。
説教題には「新しい掟」と付けましたが、一体何が「新しい掟」なのでしょうか? 早速御言葉に聴いてまいりたいと願います。
まず31節32節を読んでみます。
「人の子」とはイエスご自身のことです。ユダの裏切りによって、イエスの十字架が間近に迫ってきました。そのことによって「今や私は栄光を受けた」そして「父である神も栄光をお受けになった」と言われるのです。
十字架の死とそれに続く復活によって、イエスは神の独り子としての栄光をお受けになり、本来の居場所である父なる神のもとに行かれるのです。ここでは既にそのことが起ったようにお語りになったのです。
さらに「父なる神が人の子イエスに栄光を、すぐにお与えになる」と語られています。この「すぐに」は、十字架にかかって死なれるイエス・キリストを、父なる神が、すぐに、三日目に、復活させて下さることを指しています。ユダの裏切りによってイエスの十字架の死への歩みが始まった今、「イエスの復活による救い」も「すぐに」実現するのです。
つづく33節は「イエスが行かれるところに、人々はいくことができない」ということが語られます。これは、イエスご自身が言われているようにユダヤ人の民衆や指導者たちには既に話されたことです。7章33節や8章21節に実際に出てきます。 この内容に関しては、来週詳しく深めたいと願っています。
続いて34節です。ここが今回のメッセージの中心です。
「新しい掟」ときいて「どんな斬新な教えなのだろう」と思った方はないでしょうか? そして「新しい掟が、互いに愛し合うことなのか? それは旧約聖書の時代から大切にされてきた隣人愛の教えではないか?ちっとも新しくないではないか?」と感じた方はないでしょうか?
確かに隣人愛の教えは、旧約聖書レビ記19章18節をはじめ何度も聖書に出て来る教えです。イエスご自身も「最も大切な掟」として、お答えになるほど「聖書の根幹となる教え」です。
何も新しくないと感じられるこの掟ですが、理解のための大切なポイントは、その直前にイエスが仰った「わたしが、あなたがたを愛したように」という言葉にあるのです。 ここは弟子たちに向かって話されていますから、この「あなたがた」は直接的には「12弟子」を指しています。
つまり!「イエスが弟子たちを愛されたように、互いに愛し合う」ということが新しい掟なのです。
イエスが弟子たちを愛されたように愛する…それは具体的には「どのように愛すること」だと思いますか? この直前には、ユダの裏切りのことが出ています。
先週、瞳牧師が語った通り、イエスは最後の最後まで「ユダが悔い改める」ことを望み、手を差し伸べておられることが分かります。ご自分を裏切り、殺そうと企む者に売り飛ばそうとしている「その弟子をも愛されるイエス」が、31節の前に書かれているのです。
では、今回の箇所の中心の34節の後に何が書かれているかというと、それが「ペトロの離反の予告」なのです。
36節から38節までを読んでみますので、皆様も目で追ってみてください。
ここは四福音書すべてが描く場面ですが、各書とも微妙に伝え方が違っています。ヨハネは、来週詳しくお話しする「イエスが十字架を通していかれる場所」について主眼を置いて語っています。
ペトロは、イエスが十字架を通していかれるところに、「今のままではついていくことができない」ということをイエスはお伝えになります。
それに対し、ペトロは「命をかけてでもついていく」と答えます。あなたを絶対に裏切ることはないという決意がありました。この言葉に嘘偽りはなかったでしょう。それでもペトロは、イエスの言われる通り「裏切ってしまう」のです。
どんなに熱心な思いをもっていても、その思いだけではイエス・キリストについていくことができない…人間の弱さを教えられる一つのエピソードです。
ユダほど大きな裏切りではないとも言えます。しかし、イエスが不当な裁判にかけられ、罪をでっちあげられている、まさにその目の前にいながら「それは違う!」という声さえあげられず、そして「保身に走った」のです。
そんな「一番肝心な場面で、イエスを守ろうとせず、自己保身に走った」そのペトロの予告が34節の後になされているのです。
31節、32節で「イエスが十字架に掛かられることで、ご自身が栄光を受けられ、また神が栄光を受けられる」というのは「十字架が、神が御子イエス・キリストを通してなされる、全ての人間を救う業だから」というお話しをしました。
十字架にかかって、その後復活なさったイエス・キリストを通して、多くの人が、改めて遣わされた方の慈しみ深さ、愛の深さをしります。そのことで、天の父なる神の栄光が表されるのです。
このことを38節までのつながりで理解するなら、「熱心な思いをもって、イエスに一生ついていくと誓いながら、肝心なところで裏切ってしまう」そのようなペトロを罪から救い出すためにも、イエス・キリストは十字架に掛かって下さった。このことで「ペトロへの愛」が示されたのです。
このことから、私たちが読み取るべきこと。それは新しい掟としてイエスが教えられていることは「自分を裏切ったり、傷つけてくる者をも受け入れる」ことなのです。
開かれなくて結構ですが、マタイ5章43節でイエスが「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と仰っています。この「敵を憎め」は旧約聖書には出てこない言葉ですが、しかし当時の人々の常識でした。いや今の社会でも「敵を憎め」は一般的な常識なのかもしれません。
しかし、続くマタイ5章44節で「しかし私は言っておく、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられています。
さらに46節では「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」と厳しい言葉が付け加えられています。
まさに!「敵をも愛する愛を持つことを志す」ことがイエスの教えられる新しい掟なのですが、この新しい掟を守ろうとすること、実行することは大変難しいことであり、人間の努力だけでできることではないということは容易にわかるはずです。
しかし!イエスは私たちが「敵対するものをも愛することができるように」助けて下さるのです。そのことが分かる聖書箇所を開いて読もうと思います。
新約聖書のP154を開いてくださいますか。
これは先ほど読んだ「イエスによる、ペトロの離反の予告」をルカが描いたものです。 特徴的であり、特に大切な言葉が32節です。
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
この兄弟たちは、12弟子だけではなく、このあとペトロが中心となって立てられる「初代教会の仲間」を指します。初代教会は迫害もあって、信仰を無くしてしまう、離れてしまう人が多かったようです。しかし、そういう仲間を再び愛をもって受け入れた…そういう記述は新約聖書から多く見ることができます。
その原動力は何かというと、「イエスご自身の愛であり執り成しの祈りである」ことがはっきりと読み取れるのです。
考えの合わない人を愛し受け入れられるような私たち一人ひとりとなるためにイエス・キリストは十字架に掛かってくださった。そして祈り執り成して下さっていることを忘れずに歩んでまいりましょう。
最後に短く、今日の箇所で残っている「大切な1節」を読んでメッセージを閉じます。 (再びP196を開けてください) 35節を読んでみます。
「味方は愛するが敵は憎んで当然!」という考えが蔓延するこの世にあって、まず私たちが「イエスの愛、執り成しの祈り」に支えられながら、「イエスのように見返りを求めず愛すること」を志してまいりましょう。そして「イエス・キリストの愛」を証ししてまいりましょう。 (祈り・沈黙)