「星に導かれて救い主のもとへ」12/24 隅野瞳牧師

  

  12月24説教 ・クリスマスイブ礼拝
「星に導かれて救い主のもとへ」
隅野瞳牧師
聖書:マタイによる福音書2:1~13

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 本日の箇所では救い主イエスへの招きに応え、礼拝に踏み出していく喜びが記されています。2つの点に目を留めて、ご一緒に神の御言葉にあずかりましょう。

1.夜にこそ見える星があり、進める道がある。(2、9節)

2.救い主を礼拝する者は、喜び、献げ、別の道へ歩みだす。(10~12節)

 

1.夜にこそ見える星があり、進める道がある。(2、9節)

 「クリスマス」はこどものための行事だとか、ごちそうやプレゼントで楽しむイベントだと考えている方が多いと思います。しかしクリスマスは「キリスト」の「ミサ」から来た言葉で、「(十字架と復活により救いをお与えになった)キリストを礼拝する」という意味です。

 世界で初めのクリスマスの舞台はイスラエルです。イエス・キリストの誕生後、礼拝をささげるために東の国からやってきた占星術の学者たちがいました。彼らは星の動きを研究している中でユダヤ人の王が生まれたことを知り、その星に導かれて都エルサレムにやって来たのです。エルサレムから見て東の方とはアッシリア、バビロン、ペルシアなどが考えられます。バビロンからだとするとエルサレムまでは砂漠があるため迂回して約1600km、北海道から山口に来るような長い旅です。

 東の国はイスラエルにとってかつての敵国であり、真の神を知らない国とみなされていました。偶像礼拝や魔術や占いなどが盛んな土地でした。そのような中で占星術の学者たちは天体に関して多くの知識を持ち、それに基づいて人類や世界に関してもいろんな洞察を持つことができていた、異教の代表的知識人でした。占いや魔術の類いは、旧約聖書において厳しく禁じられており、占星術師たちは救いから最も遠いと見なされる人たちでした。しかしこの箇所を通して、どんなに救いから遠く見える者であっても、心から求める者を神は導き救ってくださることが示されています。

 学者たちはある時特別な星の動きによって、ユダヤ人の王となるべき方がお生まれになったことを知りました。おそらく東方に離散していたユダヤ人の宗教的な影響もあったことでしょう。学者たちはイスラエルに向かい、都エルサレムの王宮に行って尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(2節)学者たちはこの特別な星が、ユダヤ人が古くから信じていた救い主の到来を告げているのだということだけでなく、その王は自分たち、つまりすべての人間にとっても特別な方だと信じられたからこそ、長い旅をして救い主に会いにきたのでしょう。星は誰の目にも見えたはずです。しかしそこに救い主の到来の知らせを見たのは学者たちだけでした。神を求める心がなければ救い主への導きは見えません。私たちの人生の中にある不思議なこと、辛いこと、分からないこと、それのものは私たちを救い主イエス・キリストへと導いているのかもしれません。

 神の招きと導きに対する応答は、彼らの場合、旅に出ることでした。見た星について調べることに留まらず、彼らは実際にその体をもってメシアにまみえ、ひれ伏し、献げ物を献げるために旅に出ました。迷いやいろんなことを考えた期間はあったでしょう。しかし決心して一歩を踏み出しました。実際にその体をもって、行動をもって応答したのです。最初の一歩を踏み出さなければ、最終的に彼らが喜びに溢れることもありませんでした。学者たちの旅立ちは、ここにいる私たちにおいては何を意味するのでしょうか。今一度神の前に静まって思いめぐらしましょう。

 さて「ユダヤ人の王」という占星術師たちの言葉は、当時その地方を治めていたヘロデ王を不安にしました。生粋のユダヤ人でなくローマ帝国の後押しを受けてユダヤの領主になったヘロデには民衆の支持はなく、学者たちの言葉に自分の王位を脅かす者の出現を予感したからです。エルサレムの住民たちも同様に不安に襲われました。神に立てられた正しい力ある指導者を渇望しつつも、新たな騒動が起こることへの不安が大きかったのかもしれません。新しい指導者が現れるたびに、ヘロデの残虐性が見せつけられてきたといわれます。

 学者たちははじめ、ユダヤ人の王の誕生は当然都エルサレムにおいてであると判断してやってきましたが、救い主は王宮にはおられませんでした。ヘロデは祭司長たちや律法学者たちを集めて、救い主がどこに生まれることになっているか、聖書を調べさせました。救いのきっかけは多くありますが、私たちを決定的に救いに導くものは御言葉です。

 さて聖書を調べると、ミカ書5:2に記されている小さな村ベツレヘムが救い主誕生の場所であるとわかりました。ベツレヘムはイスラエルの偉大な王ダビデの出生地として知られていました。ヘロデはあらためて学者たちを呼び寄せ、不思議な星が現れた時期を確かめて、メシアがどれぐらいの年齢かを推測しました。そして「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って学者たちを送り出しましたが、本心は見つけ次第殺そうとしていたのです。

 ヘロデ王、祭司長や律法学者たち、エルサレムの人々は、救い主に会いにいくことはありませんでした。救い主がどこに生まれるか、知識は既に与えられていました。ユダヤ民族として考えるならば、既に何百年という神様の備え、働きかけがありました。エルサレムからベツレヘムまではせいぜい10キロ、行こうと思えばすぐに行けるのです。しかし彼らは、今まで自分たちが生きてきた自分の世界から踏み出そうとしませんでした。ヘロデは自分が王様でいられる世界をなんとしても守っておきたかったのです。他の人たちも皆同じです。主イエスを王にするということは、学者たちのように自分を明け渡すということです。それが礼拝するということです。

 学者たちは御言葉によって示されたベツレヘムに向かって出発しました。その時東方で見た星が再び現れて彼らに先立って進み、ついに幼子イエスのおられる場所の上に止まりました。彼らは、御子イエスを見出すことができたのです。

 最近、星を見ておられますか。暗い闇の中でなければ、星は見えません。「どうせ闇しかない」と、空を見上げることをやめてしまっていないでしょうか。私たちはまた自分の目線、手元ばかり見がちです。便利なものがあふれる昨今は、星を頼りにしなくても何でもできて、人との関係も作れるように思えます。しかし、空を見上げなければわからないこと、出会えない方がいるのです。聖書の時代、町の明かりなどほとんどなく野には多くの危険があるため、普通は日のあるうちに旅をしました。慣れない道であればなおさらです。しかし学者たちは、もちろんいつもではなかったと思いますが、救い主を指し示す星を目当てに夜進みました。闇の中にある時にこそ、私たちは救い主を示す星をはっきり見て進むことができるのです。

 私たちをキリストに導く星は、身近にいてすでにキリストに出会っていたクリスチャンたちです。家族やミッションスクールの先生や友人、多くの星が輝いてくれていたのではないでしょうか。どんなに大きな、特別な星が輝いていたとしても、昼間には見ることができません。三人の学者たちが不思議な星を見て導かれていったのは、暗さの中の出来事でした。闇の中でくりかえし星を見て、調べていたのです。こんなに身近に星が輝いていた、自分の真に行くべき道を指し示すべく輝いていたのに気が付かなかった。それは導かれた後にふりかえって言えることだと思うのです。何の導きもなく一人で主のもとに来られた人はなかったはずです。主はそのようななさり方をもってご自身に導かれます。

2.救い主を礼拝する者は、喜び、献げ、別の道へ歩みだす。(10~12節)

 「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(9~10節)主イエスの家族は羊飼いたちが訪れた家畜小屋にいつまでもいたわけではなく、親戚などの「家」にいたようです。学者たちが到着したのは、羊飼いたちが訪れた時から数か月経過していた頃と考えられます。

 ついに星が止まり、尋ね求めてきた救い主がおられる家に着くと、お会いする前から学者たちは喜びにあふれました。家に入り、母マリアと共にいる幼子を実際に拝した時の喜びは、どれほど大きかったことでしょう。学者たちの喜びは代々の教会が経験し、私たちに与えられる喜びでもあります。迫害や苦難、先行きが見えない不安の中にあったとしても、日曜日がやってきます。週の初めの日に皆主イエスを求めて集まり、救いの御言葉と聖餐にあずかります。兄弟姉妹と共にある恵みのうちに主を礼拝し、賛美し、心からの献げ物を献げる。そのようにして救いの希望の中に身を置く人々の喜びは今も変わりません。

 ヘロデやエルサレムの人々の心は不安でした。自分を自分の王にする時、心の中には不安があります。自分で自分を守らなくてはなりませんから、不安をベースにして生きていくことになります。今、礼拝している皆さんの心の中に、救い主がこの私のところに来てくださったという喜びがありますか。喜びがあるのならそれは、私たちが主イエスを王にしているということです。

 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(11節)幼子イエスのもとに導かれた彼らは非常な喜びにあふれ、幼子にひれ伏して礼拝し、贈り物をささげました。幼子という言葉は、弱く、権力も能力もない無視された存在であることを表しています。それは明らかに、権勢を誇るヘロデに対比された言葉です。王の王であるイエスは、学者たちがこれまで見てきた王とはまったく違い、小さなベツレヘムの家で幼子としてお生まれになった方でした。その御子の内に、学者たちは神の愛によって治める王、十字架に命をささげて救いを実現する王、弱さや罪の中にある私たちとともに生き復活の命を与えてくださる王を見たのです。この方に出会い、この方こそ救い主であるとの確信を与えられて、彼らは新たな自分たちの主、王である方のもとで歩み始めました。11節では「ひれ伏す」と「拝む」という言葉が重ねられています。「拝む」(プロスキュネオー)は、人間や天使が受けることが許されない、神への「礼拝」を意味します。

 彼らは黄金、乳香、没薬をささげました。黄金は主イエスが王の王であるしるし。乳香は焚いて香として神にささげるもので、キリストが神と人との間をとりなす祭司であるしるし。没薬は葬りの際に用いる薬で、キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架で死なれるしるしであるとされます。またこれらは占星術の道具であったと考える人もいます。そうであれば彼らは自分たちにとって最も貴重なもの、自分自身を主にささげたのです。ここに来るまでの旅路がすでにそうでありました。

 遠くの家族や友人にもいつだってすぐ会える。楽しい場所に遊びに行ける。その「当たり前」が大きく揺さぶられたこの1年でした。遠距離どころか、すぐ近くの病院や施設にいて、心の支えを一番必要としているはずの方を見舞うことも許されません。しかし考えてみると「明日も同じように会える」保証などこれまでもなかった。それに気づかせていただいたのではないでしょうか。そうであれば私たちは、今日会うことが許されている方と心をこめて接し、祈り待ち望んで神に礼拝をおささげしたいと思います。その時私たちは、学者たちの喜びを共に味わうことが許されるのではないでしょうか。仕事や病気などによって、会堂に集まって礼拝をささげられないこともありますが、私たちのなすべき礼拝は自分自身をささげることです(ローマ12:1)。どのような時でも場所でも、神に心を向けて祈りみことばをいただくならば、それは礼拝です。

 父なる神は私たちを愛するゆえに神の子イエス・キリストを私たちのもとに送り、私たちの罪の身代わりとして十字架にかけて、その死によって私たちは罪を赦されました。また主イエスを復活させ、神と共に生きる新しい命を私たちが生きられるようにしてくださいました。その主の愛と恵みの前に、私たちはただ感謝をもってひれ伏し、与えられている最もよいものをもって、感謝を表したいと願うのです。

 私たちの人生そのものが、またこの世界の歴史そのものが、御子にお会いするための旅路です。私たちは、最終的にイエス様にお会いする時に与えられる計り知れない喜びを、この世で主イエスの救いにあずかることによって、前もって少しだけ味わわせていただくことができます。やがてその全てを味わう時が来る。そこに向かっているのが、主の日の礼拝を中心とした私たちの信仰生活です。

 学者たちは神からのお告げを受けて、ヘロデ王の命令ではなく神に従い、ヘロデのところに帰らず別の道を通って帰国していきました(12節)。救い主と出会った者は、同じ生活の場に帰る時も別の道を進むようになります。自分の力で過去を捨て、違う道を歩めるようになったから主イエスに出会えるのではありません。主イエスに出会った喜びが、過去から解放し新しい生活へと歩み出させるのです。私たちはこの礼拝からそれぞれの生活に派遣されます。そのままの姿で重荷をすべて携えて、毎週日曜日に開かれている礼拝においでください。求める心をもって祈る時に必ず主を見いだし、大きな喜びをもって新しい道を歩むようにされるのです。

 そして新しい歩みは、キリストの光を反映して輝かせる歩みです。私たちの内にキリストが生きてくださる時、知らずして誰かをキリストに導く星として用いていただけるのです。「あなたがたは世の光である。…あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」(マタイ5:14,16)私たちを通して、特に今大きな苦しみや悲しみの中にある方に、真のクリスマスの恵みであるキリストの愛を運ぶことができますように祈りましょう。

 

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