5月29日 復活節第7主日礼拝
「朽ちないものに復活する」
隅野瞳牧師
聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:42~58
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本日の箇所では私たちの救いの完成である、朽ちない体への復活について記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に御言葉に聴きましょう。
1.復活のキリストの似姿、霊の体に復活する。(45,49節)
2.私たちは朽ちないものに変えられ、死は勝利にのみ込まれる。(51、52、54節)
3.主に結ばれている苦労は決して無駄になることはない。(58節)
これまでパウロはコリント教会の人々に対し、キリストを信じて生涯を終えた者は魂だけでなく、体も復活することを語ってきました。死んだ後私たちはどうなるのか、そのような問いが、誰の心の中にもあります。天に行って帰った方はいませんので、わからないことも多い箇所ですが、ご一緒に御言葉に聴く中で聖霊が示してくださることがあるでしょう。復活の約束を見つめる時に、私たちは今を大切に生きることができ、優先すべきことは何かがはっきりします。死は終わりではなく、新しい存在の始まりです。準備なしに地上の命を終えるのではなく、生かされてきたことに感謝をもって、新しい命の喜び、希望に進むことができれば感謝です。
本日の少し前の35節からは、「死者はどんなふうに復活するのか」という疑問に対して、パウロが種とそこから生じる実りの例えをもって答えています。 種は何もしなければ種のままです。それを地面に埋めると種という形では死にますが、新しい命が生まれます。同じように私たちも、キリストの復活によって保証された新しい命を受け取るためには、生まれつきの体のままではなく、死んで新しい体をいただく必要があります。それは種から芽が出る、それくらい自然なことなのです。復活の体の性質は今の体とは大きく違うものになりますが、私は私、あなたはあなたとしてよみがえるのです。
1.復活のキリストの似姿、霊の体に復活する。(45,49節)
「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(42~43節)
ここでパウロは今の体とやがての復活の体とを、3つの言葉で対比して語っています。今の体は「朽ちるもの」です。私たちの体は生まれた瞬間から死に向かって進み始めます。ところが復活の体は変わることなく、壊れたり、衰えたりしない体です。2 つ目に今の体は「卑しいもの」と言われています。神が天地創造を完成された時、それらをご覧になって「極めて良かった」とお喜びになりました。人間の体は本来、神の栄光を表すものでしたが、罪を犯した結果、人間は神から与えられている良いものを自分勝手に用い、本来のあり方とはまるで違う卑しい体となってしまいました。しかし復活の体は神のすばらしさを映し出して輝くことができる姿に回復されるのです。3 つ目に今の私たちの体は「弱いもの」です。疲れ、恐れ、病気やけがをします。神に従うよりも自分を守り、悪の誘惑にすぐに負けてしまいます。しかし復活の体は「強いからだ」であり、命にあふれて主をほめたたえることができるのです。
これらをまとめて「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」(44節)と言われています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)「自然の命の」と訳されている言葉は、原語では「魂・息に属する」という言葉です。最初のアダムは神によって命の息を吹き入れられ、「自然の命の体」を生きる初穂となりました。その後の全ての人間たちは、このアダムと同じ「自然の命の体」を持つだけでなく、神に背いた彼と同じく罪の中に苦しみ、肉体の弱さを覚え、死を恐れてきました(ローマ5:12)。しかし復活された主イエスは「最後のアダム」、人となられた神です。神の御心に従いぬき私たちの罪を担って死んでくださった主を信じる時、神は私たちを罪に対して死んだ者、神の目に義しい者であると見てくださるのです。
主イエスは聖霊によって生きる「霊の体」へと復活されました。それはこの主イエスを信じて結び合わされる者たちが、同じ霊の体を与えられていく、その初穂としてです(ローマ5:12~21参照)。霊の体とは聖霊に満たされ、その導きに喜んで従うことのできる体です。今私たちの霊は永遠の命をいただいていますが、体はまだ地上のものです。ですから神に喜ばれること、人を愛することを行ないたいと願っていても、体は心と違うことを行ってしまう闘いの中にあります(ローマ7:18~20)。自分は何とみじめな人間だろう、本当に救われているのだろうかと思う時もあるでしょう。しかし主に従おうとする時に闘いがあるのですから、私たちが行く方向は間違っていないことを覚えましょう。主が来られる日に、私たちの体は霊の思いと完全に一致するものへと変えられます。
「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。」(45節)
「霊の体」はどのようなものかを私たちに示されたのが、「最後のアダム」である主イエス・キリストです。復活の主に会った人たちは、主イエスだとすぐには気がつかず、別の人だと思いました(ルカ24:16、ヨハネ20:14)。復活の主を悟るためには、霊の目が開かれる必要があるのです。またある時にはお姿が見えなくなり、鍵のかかっている部屋に現れたり、食事をとることもできました。復活の体は今の体と同じ部分も持ちつつも根本的に質の異なるもの、私たちが知っている肉体としての制約を超えたものです。
最初の人アダムは土に神の息が吹き入れられて命のある生き物となったのですが、最後のアダムである主イエスは逆に、アダムと同様に罪に陥った私たちに、命を与える霊なる方となられました。その十字架と復活、昇天を通して、信じるすべての者に永遠の命をお与えになったのです。
「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(47~49節)
私たちは地に属するアダムに似た者ですが、主イエスを信じる時に天に属する方、主イエスの似姿へと変えられていきます。その恵みが今や始まっているのです。私たちが完全に変えられるのは、その自然の命の体が死んで葬られ、世の終わりに復活の体を与えられるその時です。主イエスの復活によって、私たちもこの肉体の死を越えたところに、聖霊によって生かされる新しい体を与えられる希望に生きることができます。主が私たちの体をも含めて救おうとされていることを覚える時、今与えられているこの体と人生を慈しみ、隣人とその具体的な必要のために仕えることを大切にしたいと思います。
2.私たちは朽ちないものに変えられ、死は勝利にのみ込まれる。(51、52、54節)
「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(50節)
「肉と血」つまり今のこの体のままでは、完全な形で神の恵みのご支配のもとに生き、救いの完成を得ることはできません。神は終わりの時に、朽ちることのない新しい天と地を創造されます。ですからそのような世界に入るためには、朽ちない性質をもった体が必要なのです。神がお与えになる救いを、「魂が肉体の束縛から解放されて天国に憩うこと」とだけ信じている方が多いのですが、聖書は明らかに「新しい天と新しい地」の希望、つまりこの世界も私たちの体も造りかえられる途上にあると語ります(黙示録21:1)。
「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(51~52節)
「眠る」とはここでは死ぬことを指しています。パウロは主イエスが再びおいでになる時に、この地上に生きているキリスト者がいると語ります。その時死んでいても生きていても、神の国に入るためには、今のわたしたちの体とは異なる状態に変えられることが必要です。
主イエスが再び地上に来られる時には、シナイ山で神の臨在に出会ったイスラエルが聞いたようなラッパの音が響き、はっきりと告げ知らされます。Ⅰテサロニケ4:16~17にも「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」とあります。主イエスが再びおいでになる時、素晴らしいことが起ります。主を信じてこの世の命を終えた人たちがまず最初によみがえり、次に、地上に生きているクリスチャンたちも、死を経ないで栄光の体に一瞬にして変えられます。これはすべての悲しみが終わり、すべての労苦が報われる時です。私たちを罪に引きずり込もうとしてきたサタンは滅ぼされ、王の王なる主が正義と愛と慈しみをもって治められる世界。私たちは主と一つとされ、先に召された人たちといつまでも共に生きることになります。
「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」(53節) 地上の人生が私たちの歩みの全てではない。肉体の死を越えたところに、新しい、朽ちることのない命と体が与えられるということを知る時、私たちはこの世のもので満たされようというむなしい努力、持っているものによって成功や失敗を計ることから解放されます。本当に大切なこと、神を愛し隣人のために生きる喜びを知るのです。
この復活の神秘は、旧約聖書において預言されていました(イザヤ25:8、ホセア13:14)。「『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(54~57節)
どんなに成功した人も、健康な人も、死の前には無力でした。ところがその死が主の復活の命によってのみ込まれ滅ぼされる日が来ます。死は「とげ」という言葉で象徴される痛み、 悲しみ、絶望をすべての人にもたらして来ました。しかし主の復活の命にあずかる時に、私たちを苦しめていた死のとげがなくなります。
私たちが死を恐ろしいと感じるのは、それが神に背いた罪に対するさばきという性格を持つからです。神に背き、自分中心に生きようとすることを聖書では罪といいます。罪ある人間は神の基準、正しいこと(律法)が示されると、それに従わない方向を選びます。御言葉をがんばって守ろう、立派な人間になって神に喜ばれようとしても、それができない自分。神の御前に出ることのできない、汚く弱い自分に愕然とすることになります。しかし主イエスによって私たちの罪が赦されている、その恵みを受け取るならば、 死が私たちに訪れてもそこからとげは抜かれています。主イエスを信じた者はもはや死にとらわれず、こんな私が赦されたという感謝と喜びのうちに生きるのです。
3.主に結ばれている苦労は決して無駄になることはない。(58節)
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(58節)
キリストは御自身の復活によって、私たちが地上の命を終えた後に変えられて、永遠の御国に生きる者となることを保証してくださいました。パウロはコリント教会の人々に、その約束をよりどころとして歩むようにと勧めます。
ここで、常に励むようにと勧められている「主の業」とは何でしょうか。「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリ10:31) 主に救っていただいた私たちの日々の生活は主のものです。ですから家庭や職場で小さな声かけをしたり、誰かのためにそっと祈ることなどすべてが主の業です。そしてもちろん、直接的に主と教会に仕えることもそうです。主は教会に、すべての造られたものに福音を宣べ伝える使命をお与えになりました。伝道は人間的に考えたなら効率の悪い、無駄なことのように見えます。しかしそれでも私たちはあきらめずにこれまで伝道を続けてきましたし、これからも十字架につけられたキリストを宣べ伝えます(Ⅰコリ1:21~23,2:4~5)。そして伝道の働きができるためには、礼拝が基盤になくてはなりません。事務や清掃などの働きも主にささげられた大切な奉仕です。互いにキリストの愛をもって教会を建て上げていくことが「主の業」です(Ⅰコリ13章)。
「主の業に常に励みなさい。」は、「主の業において豊かでありなさい、あふれなさい」と訳すことができます。私たちが主のためになす業は、主イエスご自身が私たちを通して、この地上でなしてくださる素晴らしいみわざが満ちあふれていくことです。まず私自身が主の愛、救いの恵みに浸りきって、幸いでありましょう。
私たちは主のために働いても、その実を見る前に地上の歩みを閉じるかもしれません。しかし主にあって私たちの苦労は決して無駄になることはありません。この地上における歩みは、やがての御国における永遠の生活において永遠の意味と価値を持ちます。主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」「忠実な良い僕だ。よくやった。」(マタイ25:40,21)と、私たちと共に喜んでくださいます。
私たちは礼拝からいつもの生活に遣わされていきます。そこで「自分は主に結ばれて(原文では「主にあって」)これを行っているだろうか」と問いたいと思うのです。主の御心であると確信を得たならば、人からどう思われても、この地上でどんなに報いが少なくても、主の助けをいただいてその道を進んでまいりましょう。
祈り 主よ。隣人に愛を示すために、そして主の栄光を現すために神がお与えくださった体、この命を感謝します。朽ちないものに復活させていただける希望に根ざしつつ、この体を感謝をもって誰かのために用い、今日を生きることができますように。主の御名により祈ります。アーメン。
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