「死で終わらない」11/6 隅野徹牧師

  11月6日 聖霊降臨節第23主日礼拝・召天者記念礼拝
「死で終わらない」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書11:1~4、17~27フィリピの信徒への手紙2:6~11

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 今日は一年に一度の「永眠者記念礼拝」です。この礼拝は一年の礼拝の中でもっとも「天国」という所を考える日であります。それとともに「命」について考えることのできる「一日」です。今日はご出席の皆さまと、聖書が教える「人の命」について共に考えられたらと願います。

3年ぶりに多くの方をお迎えして行える「今年の召天者記念礼拝」ですが、聖書箇所は、比較的有名な箇所でもある「ラザロをイエスが生き返らせる」場面である、ヨハネ11章を選びました。長い箇所ですので、大切な言葉だけをピックアップさせていただきます。もう一か所のフィリピ2章は最後に取り上げさせていただきます。

それでは早速、ヨハネ11章の1~4節を目で追ってみてください。

マルタ・マリアは、離れた場所におられたイエスに対し「ラザロが命にかかわるような重篤な状態である」という知らせを、人を送って伝えます。イエスはこの場所で「愛するラザロが重篤な状態である」ことを聞かれて4節の大切な言葉を告げられます。「この病気は、死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

この言葉は今日のメッセージの中心になる言葉です。説教題にも付けましたが、後程、深く掘り下げます。

その場所からいよいよ「ラザロのいるユダヤ地方」に出発されますが、それは「ただラザロに会い、業を行う」ためだけではないのです。単にラザロの癒しに留まらず「全人類を罪から救い出す十字架の死」に真っすぐに向かわれるイエスのお姿を感じていただいたら幸いです。

間を飛ばしますが、今度は17節から20節を目で追ってみてください。

聖書の証言では「ラザロは死にかけていたのではなくて、墓に入れられ4日経っていた」とはっきり言っています。これはイエス・キリストが墓に葬られた状態から復活なさったことと繋がることであります。多くの人が悲しんでいる。しかし、「死で終わらない、希望」がこの後で語られるのです。

 21節から27節をご覧ください。姉のマルタは「イエスがここにいてくださったら、ラザロは死ななかっただろうに」と無念さを正直に口にしますが、一方で22節、イエス・キリストが神の子救い主であり、「イエスを通して神にお願いいすること、つまり祈ることは天の父なる神が聞いてくださると信じる」と大切な信仰告白をしたのです。     

 そのマルタにイエスは23節で「あなたの兄弟は復活する」といわれ、25節で「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」とおっしゃったのです。

ラザロには新しい命が与えられ、あなたは悲しみを取り去られるのだ!ということを力強く宣言して下さったのです。今日はこの後を読みませんが、結果的に次のページで、ラザロは「イエス・キリストの力によって生き返った」のです。

これはあくまで「生き返った」のであります。その後、どこかのタイミングでラザロはこの地上での歩みを終えて、天へと旅立ったことは間違いありません。「キリストの復活と同じではない」だけれども「キリストの復活を、前もって象徴する出来事だった」ことを覚えていましょう。

25節と26節をご覧ください。イエス・キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と仰いますが、大切なのは「その後のことを信じるか」とあるこの問いかけに応答するということです。

かみ砕いて言うなら「この地上で生きている間にイエス・キリストのことを、死を打ち破って復活されたお方だ!と信じる者は、決して死ぬことはない」ということをマルタだけでなく、ここを読んでいるあなたがたは信じますか?と問うておられるのです。

今日、私たちが記念している「山口信愛教会が召天者として覚えている皆さん」(前に写真が並んでいる皆さんですが…)この方たちは皆、この地上で生きておられる間に、「イエス・キリストが自分の救い主であり、死を打ち破って復活されたお方だ、と信じ受け入れた方々」です。

この方たちは、まさに「死んでも生きておられる」つまり「天にて神の御許で生きておられる方々」なのです。今日ご出席の皆様は、心からこれを信じるかと言われて、素直に「はい、信じます」と答えられるでしょうか?正直「信じられない、論理的に考えても理解ができない」という方も多いと思います。

無理もないと思います。キリストと繋がることで起こる「一人ひとりの人間の命の復活」それは非科学的で、証明できることではありません。私も長い間理解できずにいました。

そこで今日は、私が「キリストの復活が、人間一人ひとりの復活とつながるのだ」と理解できた聖書箇所を、皆さんと共によもうとおもいます。それがもう一か所の聖書箇所、フィリピ書2章です。(新P363をお開けください)

6節から11節を読んでみます。

 この聖書箇所は「天におられた神の独り子イエス・キリストが、この地上に降られ、どういう風なことが成されたのか」ということが教えられます。

 まず6節と7節で、栄光の神であるお方が「遜って、栄光のお姿を全く無にして私たちと同じ人間になってくださったのだ」ということが語られます。クリスマスに「汚い家畜小屋で人としてお生まれになった」ことは、その「遜り」を表すものであります。

 しかし、ただ「遜られていた、腰が低かった」のではありません。8節が大切なのです。

天地を作られた神であり、人間の創造主であるお方である御子キリスト。私達人間は本来このお方の前に「なすすべがない」はずですが、しかしキリストは「十字架の死にいたるまで従順だった、遜られていた」と聖書は教えます。

イエス・キリストは、人間の罪の身代わりになるために「父なる神の、人間を救うご計画」に従順に従われたのです。そのキリストを9節、全知全能の父なる神は「死から復活させられた」のです。

そして10節と11節、復活されたこの「神の御子イエス・キリストの名を信じ、主であると信じる者が皆、特別にキリストと同じ復活の恵みに与ることができる」と教えているのです。

私はこの聖書箇所の言葉を通して「イエス・キリストがなぜ十字架に掛かられて死なれたのか。そして死なれたあとなぜ、復活できたのか」そして「その復活が自分とどうつながるのか…」それが一本の線でつながりました。

頭で理解した、というより、神の霊が私の心と頭に働きかけて、心からの理解に繋げて下さったのだと、今は思います。

なぜキリストを信じる者が天国にいけるのか…それは聖書の色々な箇所に示してありますが、私の場合は、この箇所がもっとも響いた箇所でした。

 皆さんにとって分かりにくい箇所だったかもしれませんが、フィリピ書2章をまた深く読んでいただくことを望みます。  

  最後にもう一度、今日の説教題につけたヨハネによる福音書11章の4節に戻ります。(ご覧ください)

 この病気は死で終わらない、というイエス・キリストのこの言葉は「気休め」ではなくて「真実なものである」と私は信じます。すでに天に旅立った方が、この地上で「たくさんの病気で苦しまれたように」今地上を生きる私たちにも沢山の「病気や苦しみ」があります。ない人などどこにもいないのではないでしょうか…。

 しかし、その苦しみが「キリストの栄光」つまり「十字架と復活」につながっているのです。苦しんだ先に、キリストの十字架と復活を通して、神が私たちにもたらしてくださる「永遠の命、天国での命」があるのです。

 召天者を思い出し、天国について思いをはせる今日、ぜひ皆さんの「今日の命」や「今日の苦しみが」永遠へとつながっていると示す「聖書の教え」を心に留めて下されば幸いです。(祈り 沈黙 黙想)