「集められる自由な人々」12/3 隅野徹牧師

  12月3日 降誕前第4主日礼拝・アドベント礼拝・聖餐式
「集められる自由な人々」隅野徹牧師
聖書:詩編47:1~10

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

Loader Loading...
EAD Logo Taking too long?

Reload Reload document
| Open Open in new tab

 今朝はアドベント礼拝としてこの礼拝を持ちます。アドベントとはラテン語で「来る」という意味です。教会の一年の歩みの中で、「とくに未来に目を向けるとき!」それが今日の「アドベント」です。

私たちに与えられている今の先にある時、つまり「未来」において「神様のみこころが成る」ことを待ち望む、そのための日として、キリスト教会ではアドベントを意味づけてきました。旧約の時代に「神の救いがあることを待ち望んだ」その人たちと同じ思いになるためにも、この日は大切なのです。

今水曜の聖研祈祷会で読んでいるイザヤ書でも出て来たことなのですが、旧約聖書には「ただキリストが人としてこの世に来られること」が預言されているだけに留まらず、現代を生きる私たちにとっての「永遠の未来」が預言されているのです。 

つまり、すでに成就した預言と、これから成就する預言の両方が預言されています。

ですので、今から私たちは、「神が旧約の時代、イスラエルの民たちに約束してくださったことの恵みに、すでに与っていることの感謝」を覚えつつ「主を待ち望みつつ」御言葉を味わいたいと願います。今朝は与えられた聖書日課から詩編47編を選びました。共に御言葉を味わいましょう。

まず、注目すべき言葉として10節を選ばせていただきます。ここから読んでまいりましょう。

前半に「諸国の民の中から、自由な人々が集められ、アブラハムの神の民となる」という言葉が出ます。 これは「ユダヤ人の勢力が増す」ということが預言されているのでは全くありません。

「自由な人々」とあります。強制されてではなく、力で押さえつけられてでもなく「自由に」つまり「自らの意思で選んで、アブラハムの神の民となる」のです。

では、何によって「諸国の民」が「自発的な思いをもって、アブラハムの神の民」となるのかというと。それは「神の御子・救い主イエス・キリストを自らの意思で信じ、そして愛すること」によってなされるのです。

「アブラハムの神の民」という言葉が出ますが、これは「アブラハムの血筋の人間だけが祝福される」ということを言っているのではありません。「アブラハムから生まれた子孫は「神に背くことの連続」でしたが、そんなユダヤ人の中からイエス・キリストが人となってお生まれ下さったのです。

アブラハムの末としてお生まれになったけれども、ただの人間ではない「神の子イエス・キリスト」を諸外国の人々が慕いもとめるようにして、集まるということが預言されています。そうして集められた人々、つまりクリスチャンは「神のもの」であるとともに「地の盾だ」であるということも語られます。

 イエス・キリストはアブラハムの直接の子孫だけの救い主なのではなく、世界の救い主なのだということが語られます。

 私自身も日本古来の宗教がある中で、どうしてキリストを信じ受けれたのかというと、もちろん神ご自身に導いていただいたからで間違いありません。

一方人間的な側面から見るならば、私のキリストとの出会いは「誰かに強制された」とか「恐怖で脅された」のでもなく、全ては自分の意思です。

「聖書が示す罪が自分にもある。そこから救われるには、人間としてこの世に来られ十字架に架かって身代わりとなってくださった神の子イエス・キリストを信じるしかない」と信じたからです。

 クリスマスは「神の子イエス・キリストが救い主として、この世に来てくださったこと」を祝う時ですが、世界の多くの人が「自由な人々として」キリストの愛のもとに集うことができることを、切に願っています。

 続いて残った2節から9節を読みます。

ここには救い主として来られる①「神の子イエス・キリスト」がどんなお方なのか、

そして②そのイエス・キリストを私たちはどのように待ち望むことが大切なのか」そのことが教えられています。

  • つ目の「神の子イエス・キリスト」がどんなお方なのかですが、これは36節、そして9節に記されています。

 いと高き方、おそるべき方、という言葉とともに「全地に君臨される偉大な王」「諸国の民を我々に従わされる」という言葉が出てきます。 これは先ほど10節のところでご説明したように、「諸外国が王の導くイスラエルに従う」ということでは全くありません。

「諸国の民」が「自発的な思いをもって、アブラハムの神の民」となる。つまりそれは「アブラハムの末としてお生まれになった神の御子・救い主イエス・キリストを諸外国の人々が自らの意思で信じ、そして一つになる」そして、その中心におられる「王なるお方イエス・キリスト」は喜びの中で迎えられるお方なのだ!ということが預言されているのです。

そして②つ目の「世界の救い主であるイエス・キリストを私たちはどのように待ち望むことが大切なのか」については2節と7節、8節に出ます。

 78節では、王なるキリストに対して「ほめ歌を歌え」ということが繰り返し出てきます。

 そして、ただ何も考えずに歌うのではないことが教えられています。それが8節の「告げ知らせよ」という言葉に表れていると私は考えます。

 先日の聖研祈祷会でも、この「告げ知らせる」という言葉を参加者で深めました。

聖書の中にでてくる「告げ知らせよ」という言葉は「感謝や喜び」とセットになっていることが多いということです。そこから「ただ感謝するだけで終わらず、それを他の人々に告げ知らせることが大切なのではないか」ということを皆で黙想しました。

 今朝の箇所も同じです。全地の王として、罪深い私自身を救う王として来られた「イエス・キリスト」をただ「素晴らしい!ハレルヤ」と叫ぶだけでなく、その声を、思いを自分だけに留めず、周りの人に告げ知らせることの大切さが教えられています。

 クリスマス物語の「羊飼い」のように、救い主としてイエス・キリストが来てくださった!という喜びを、多くの人が周囲のひとに「告げ知らせる」なら、世界は変わっていくと私は信じています。

 2節では、ただ歌うだけでなく、手を打ち鳴らせということが勧められています。

この手を打ち鳴らすという言葉ですが、これは「コンサートのときなどに、ファンが恍惚状態で拍手をする」というのとは意味が違うようです。

 イザヤ書、エゼキエル書などで出ますが、旧約聖書での「手を打ち鳴らす」とは「自らの意思を強く表す行為」として出てくるのです。

 今日は、説教題につけたように「自由な人々が集められる」つまり「自らの意思をもって、まことの王である救い主キリストのもとに人々が集ってくる」それを待ち望むということをテーマにしてお語りしていますが、2節の「すべての民よ、手を打ち鳴らせ」も、自らの意思をもって、救い主であるイエス・キリストを待ち望め、それを意志として表すことを勧めることばとして、皆さんも受け取っていただければ幸いです。

 最後に、この詩編47編の2節がもとになって生まれた「ある有名な歌」のことをお話しして、メッセージを閉じさせていただきます。

 その歌とは坂本九さんが歌って大ヒットした「幸せなら手をたたこう」です。小学生の音楽の教会書にも出るような国民的な歌になり、違う原語で訳され世界中でうたわれている「幸せなら手をたたこう」ですが、もともとは、歌声喫茶で名もない歌い手がこの歌を歌っているのを偶然聴いた坂本九さんが、希望してレコードにしたのだそうです。発売時は作詞・作曲者不詳として記載されていましたが、その後木村利人さんというクリスチャンの方が「自分が作詞者だ」と名乗り出て、その歌の誕生の秘話がクリスチャン新聞などで紹介されることとなりました。

木村さんは、大学院生だった1959年4月から2カ月間、フィリピンの農村復興のボランティアとしてキリスト教青年会(YMCA)から派遣されました。

そのとき終戦からすでに14年が経過していましたが、フィリピンでは根強い反日感情と戦争の傷痕が残っていたそうです。人に会うたびに「家族が日本兵に殺された」と聞かされ、「戦争の被害者意識で凝り固まっていた」という木村さん。

自身は少年時代「アジアで正義の戦いをしている」と教わっていましたが、それが間違いで、加害者だったとことを初めて肌身で感じたのだそうです。

木村さんは、フィリピン人の同世代のボランティア仲間と、地域になかったトイレの設置などに励むかたわら、朝と夜の礼拝で聖書を読み、平和についてフィリピンの若者と語り合ったそうです。

そうして過ごしていたある夜の礼拝のときのこと、フィリピン人のボランティア仲間の一人が「日本人を殺してやろうと思っていたが、間違っていた。過去を許し、戦争をしない世界をつくろう」と語り掛けたのだそうです。木村さんが感極まり、手を取り合って涙した…ちょうどその時に読んだのが今日取り上げている詩編47編だったそうです。

とくに2節の「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」という言葉が心に響いたそうです。国境をこえてすべての人々を罪から救い出す「イエス・キリスト」を通して、フィリピンの人とも平和を打ち立てることができた…その喜びを感じたのだそうです。

そしてフィリピンの子どもたちがいすを並べて「手遊び」をしながら歌っていた民謡のメロディーをもとに、聖書の言葉から「幸せなら手をたたこう」の歌詞をつけてできたのだそうです。それを帰国後に「歌声喫茶でうたっていた」ところ、それが周囲に広がりました。

 木村さんが歌詞をつけるとき、特にこだわったのが「態度でしめそう」の部分なのだそうです。「幸せなら態度でしめそうよ」の歌詞は、この歌の12番まですべてに出てきます

日本人がフィリピンで行った戦争犯罪は許されるものではありませんが、それでもフィリピンの人々の「言葉だけでない、愛のこもった行為の一つ一つ」に」「自分を愛し受け入れてくれた、それが態度で示された」と感じ、聖書の教えと重ね、歌詞にいれたのだそうです。

私たちも、罪深いものですが「愛の救い主イエス・キリスト」によって神に特別に赦していただいたものです。また周りの人を傷つけたりすることも多いですが、それでも多くの人の赦しの中で生きています。 イエス・キリストの救いが「完成するとき」を待ちつつ、自らの意思で「キリストが来てくださった喜び」を周りの人に、そして世界の人に「態度で表して」まいりましょう。 (祈り・沈黙)