11月28日 降誕前第4主日礼拝・アドベント礼拝
「祝福の源となるように」
隅野瞳牧師
聖書:創世記12:1~7
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本日の箇所には、神の祝福を受けたアブラム、そしてアブラムに連なる救い主イエス・キリストについて記されています。3つの点に目を留め、私に語られているメッセージとして神の言葉に耳を傾けましょう。
1.あなたはこの世界の祝福となる。(2節)
2.私に何もなくてもいい。神の言葉を信じて旅立つ者を、神は祝福される。(4節)
3.神への祈りと礼拝をベースに、この世の旅路を歩む。(7,8節)
本日より教会ではアドベント、クリスマスを待ち望む期間に入ります。神の子であるキリストがすべての人を救うために、私たちと同じ人間としてお生まれくださったのが、クリスマスです。アドベントはすでに与えられた大きな神の愛に感謝すると共に、その救いを完成するために再びおいでになるキリストを待ち望む時です。クリスマスは一晩だけの過去の出来事ではなく、長い時間をかけて完成される救いの歴史の一点であることを、後にアブラハムと呼ばれるようになるアブラムを通して知ることができます
聖書が語る歴史は「神による、人間とこの世界の救い」というテーマで貫かれています。神はこの世界と人間を極めて良いものとしてお造りになりましたが、人間は神に背く罪を犯しました。子孫が増えるごとに人間の罪は増し加わり、その性質は変わることがありませんでした。罪にまみれた人間に神が拓かれた道は、イスラエルの民を選び、その民の歩みを通して救いを実現することでした。
本日の箇所にはイスラエルの民の父祖となったアブラムについて記されています。彼は家族と共にカルデアのウルという町に住んでいました。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差するメソポタミヤ文明の発祥の地で、富と権力が集中し、月の神が礼拝されていました。アブラムは父テラの時代に、一家でウルからハランまで移住しています(聖書の地図1参照)。
1.あなたはこの世界の祝福となる。(2節)
ある時神(主)は、アブラムにご自身を現して言われました。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。…わたしはあなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。…地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(1~3節)
聖書において「祝福」とは、神がよいものを豊かに与えて命の喜びに満たし、未来を開いてくださることです。当時一般的に神の祝福と言えば、豊かな実りや、子宝に恵まれ一族が繁栄することでした。しかしもちろん神は目に見えるものを超える祝福をお与えになります。それは神が共にいてくださることです。この神と共に歩む人生を、キリスト教では「救い」といいます。
神はなぜアブラムを祝福してくださったのでしょうか。それは彼一人のためだけではなく、「祝福の源となる」ためでした。アブラムは神の祝福を受けて、次は誰かにとっての祝福となるのです。子孫繁栄や土地の取得という祝福もとても大きなものですが、この神の言葉は目に見える恵みをはるかに超えた祝福を指し示すものでした。それは自己中心の汚い思い(罪)に苦しみ、死という現実の前に無力な私たちを救う救い主を、彼の子孫からお送りくださるということです。「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」とありますから、彼は自分の子孫だけでなく、世界のすべての人に祝福をもたらすために用いられるのです。
神お一人が罪と死の力を打ち破り、祝福と命を与えることができる方です。本当の祝福とは、神が共にいてくださることだとお話ししました。神に背き神なしで生きようとする私たちは罪の中にあると、聖書は語ります。罪ある私たちは、聖なる神と共に生きることはできません。しかし私たちのどうにもならない弱さや汚さを背負って、私たちの身代わりに神の裁きを受けるために、神の子イエス・キリストが人としてお生まれくださいました。その方を救い主として信じるならば、私たちの罪はすべて赦され、神と再び喜びのうちに共に生きることができます。それが真のクリスマスです。だからクリスマスは喜びの日なのです。
「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に、祝福されています。(ガラテヤ3:8-9)」これはキリストを信じるすべての者が救われることをあらかじめ示した言葉です。アブラムが神を信じて旅立つ信仰によって、同じ信仰に生きる全世界の数え切れない人々に、神の救いが及びました。そして私たちも、この祝福された人々の中にいるのです。
さてこの祝福を受けるために神がアブラムに命じられたのは、それまでの生き方を変える事でした。真の神を離れて歩んでいた父テラの家から離れ、安心していられる場所を離れて、神が示す地に行くように言われたのです。アブラムは遊牧民で、肉食動物や盗賊などから家畜を守り育てるために、親族同士助け合うことが必要でした。そのつながりを離れて見知らぬ地に向かって旅をするのは非常に危険なことです。しかしアブラムは主の言葉に従って、甥のロトと財産やハランで加わった人々を伴って旅立ちました。
家族や職場、必要なものを無理やり捨てなさいというようなことが、ここで言われているのではありません。そうではなく私にとって離れるべきもの、また本当に価値ある変わらないものは何かを考えたいと思うのです。大切なものをつかむためには、大切と思いこんで握りしめているものを、勇気をもって手放すことも必要です。神は私たちの意志を無視して一方的に何かをなさいません。神の喜ばれない自分であることがわかったなら、神の前に悔い改め、その救いを受け取りましょう。その時に私たちは、神の内に私の必要がすべて満たされていることを知るのです(マタイ16:25~26)。多くの場合私たちの人生は、神を信じるようになったからといって、アブラムのように劇的に変わるわけではありません。しかし生き方の内容は変わるのです。「わたしたちは、…無一物のようで、すべての物を所有しています。」(Ⅱコリ6:10)救い主イエス・キリストの招きに応えて歩み出す時、私たちはすべてを失うようにみえますが、実は神によってすべてを持つのです。
神を信じて踏み出したら失ってしまうのではないかと思った時には、まず神が私たちを救うために、ひとり子イエス・キリストをこの世に送り、命をささげてくださったことを思い出しましょう。そのような神が、私たちからすべてを奪ってしまわれるわけがありません。キリストとともに、すべての必要なものをお与えくださいます(ローマ8:32)。神を信じるとは、神と共に生きる人生の中で天の故郷を目指す旅です。私たちは一人でも多くの方がこの救いを受け取ってほしいと願い、そのために用いられることを喜びとして旅を歩むのです。
2.私に何もなくてもいい。神の言葉を信じて旅立つ者を、神は祝福される。(4節)
「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に言った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。」(4節)
アブラムは祝福の約束を、神に信頼して現実に一歩を踏み出すことによって受け取りました。神への信頼、彼に求められたのは、それだけでした。
この世界の祝福となる人であるならば、愛にあふれて有能で、健康な若い人が選ばれるのではと思います。しかしアブラムは75歳、妻サライは65歳で子供を授かることがありませんでした。だからこそ神はお選びになったのだと思います。大いなる国民を生み出すことは不可能な彼だからこそ、神が御業を行われたことがはっきりわかるからです。神は同じように無力な私たちを、神の祝福を受け継ぎ、救いを伝える者として選んでくださいました。ですから私たちは、自分には無理だと思ったり、力のなさを嘆く必要はありません。祝福は人から出るのではなく神から来ます。わたしはあなたを祝福すると神が言われます。アブラムに子を授け、イエス・キリストを死者の中から復活させてくださった神を信じていきましょう。
アブラムは神の声を聞きました。これまでのより所としてきたものを置いて、ただ神を信じて未知の人生に歩み出す恐れはもちろんあったでしょう。しかし生きておられる神、その御言葉の真実に圧倒され、すべてをかけてお応えしたのだと思います。その後の人生は決して順風満帆ではありませんでしたが、彼は神との関わりの中で生きるものとなりました。そういう意味で、彼は私たち信仰者の父なのです。神はアブラムに、出会う人が彼を祝福するか呪うかによって、同じようにその人に返すと言われました。神はご自分を信じてささげた者を、しっかり守ってくださるのです。
私たちの転機を振り返ってみますと、私たちが選び社会の事情によってそうなったという出来事の中にも、神のご計画、導きがあったと思わざるを得ません。これまでは流されるまま何も考えずに、そのような時を過ごしていたかもしれません。しかしこれからは、神は私にどこへ進むよう願っておられるだろうかと祈り心をもって、進むべき道を自覚的に求めてまいりたいと思います。私たちもアブラム同様、明日を知りません。しかし私たちといつも共におられ、神の国へと導いてくださる神の約束を信じて、不要なものから離れて示される道を進んでいきましょう。
アブラムは神の示されたカナンの地にやって来ました。しかしその地がすぐに彼のものになったのではありません。神は再び彼に現れ、「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束をお与えになりました。私たちは、一度に神のご計画を知りたいと願いますが、もし神がすべてを示されたら、私たちはそのご計画を受け止めきれません。神は私たちが示されている道に進む時に、信仰の成長に合わせて少しずつ、次の一歩を示してくださいます。
神が再びお与えになった祝福の約束は、「あなたに」ではなく、「あなたの子孫に」土地を与えるというものでした。アブラムにはまだ何も見えていませんが、神にはアブラムの子孫が増え広がって一つの国になり、やがてその子孫イエス・キリストを信じて救われる人が、全世界に起こされることが見えていました。神の約束は何百年何千年という時を経て実現し、最終的にはイエス・キリストが再び地上に来られる時に完成することになります。
神は私たちが持っているものや今見えている状況を超えて、命を与えることができる方です。自分の生きている間に思ったような形で結果が現れないかもしれませんが、次の世代に神がお与えになる祝福を仰ぎ見て、自分に与えられたポジションを果たしていきましょう(ヘブライ11:13~16)。神が私たちを用いて、どれほど大きなご計画を成し遂げてくださるのでしょうか。わくわくしますね。つまずきそうになるたびに神の約束に立ち帰り、新しく与えられる御言葉に力づけられてまいりましょう。
3.神への祈りと礼拝をベースに、この世の旅路を歩む。(7,8節)
「当時、その地方にはカナン人が住んでいた。…アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。…アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り…天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。」(6~8節)
アブラムたちが足を踏み入れたカナンの地には、すでに先住民族のカナン人たちがいました。そこは「シケムの聖所、モレの樫の木」、異教の神々の礼拝が行われていた場所と考えられています。しかし彼らはそこに祭壇を築きました。祭壇を築きながら旅をするということは、生活の中で神に祈り礼拝をささげるということです。
聖書には私たち人間が、愛し合いコミュニケーションの中で生きるものとして神に造られた、とあります。それは神ご自身が愛の交わりそのものである方だからです。私たちは人との間だけでなく、心の奥底で神との人格的な交わりを必要としています。それが祈る、礼拝をささげるということです。最初の人間アダムとエバが神に背いた結果罪が私たちに入り、私たちは神を恐れて、本当の意味で祈ることができなくなりました。しかしイエス・キリストが十字架で命をささげてくださったことにより、私たちの罪は赦され、神との関係が回復しました。ありのままの姿で神を天の父と呼びかけ、祈りをもって神に近づけるようにされたのです。
特別な時でなくてかまいません。普段の生活のほんの少しの時間、静まって神に心を向け、神とそのすべての良い物を数えて感謝をささげましょう。自分の今の状況や思いを注ぎ出すとともに、他の人々のために祈りましょう。祈りは神との会話ですから、自分の思いを一方的に祈るだけではなく、神が示してくださったことを思いめぐらすことも大切です。神の約束を見失わないように、どこに行ってもどんな困難の中に置かれても、まず神を仰ぎましょう。そして教会で行われている礼拝や祈祷会には、それぞれの場所で奮闘している皆が集まり、共に神を礼拝し祈り合って力をいただくことができます。神を中心として確かな歩みを重ねたいと思います。
アブラハムはこの後ずっとまっすぐに神を信じて生きられたかというと、そうではありませんでした。何度も神の約束を疑い、道をそれたこともあります。しかしアブラムをお選びになった神は、決して見捨てずに語りかけてくださり、彼は定められた祝福の道を歩み通すことができたのです。神は私たちをもこの祝福に招き、忍耐をもって支え続けてくださいます。この神の語りかけに応えてみませんか。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪赦され、神と共に新しい命に生きるようになる祝福を、どうぞ味わってください。すでに主イエスを救い主と信じておられる方も、神に喜ばれない古い自分が死に、新しい自分に生きる者となりますように神に求めましょう。
神の祝福、クリスマスの本当の喜びは、ごちそうやプレゼント、パーティーにあるのではありません。暗闇の中にともるあたたかな光です。こんな私を神が愛してくださっている喜び。決して一人ではないこと。すべての苦しみを味わわれたキリストが私を知っておられ、「大丈夫」と言ってくださること。それはただ一つの慰めです。私たちが誰かにキリストの救いを持ち運ぶということは、必ずしも明るく力強く聖書を伝えなければならないことではありません。特に相手の方が悩み苦しみの中にある時には、神がその方にすべてのよきものをもって臨んでくださることを祈りつつ、そっとそばにいることから始まるのだと思います。神が私たちを、祝福の源としてくださいますように。
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