「神が認められる賢いふるまい」1/21 隅野徹牧師


  1月21日 降誕節第4主日礼拝
「神が認められる賢いふるまい」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書 16:1~13

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 今朝は、示されましてルカによる福音書16章の「不正な管理人のたとえ」の話から、お話しさせていただきます。ある金持ちの主人の金を使い込んでいた管理人がいた、というところから話がはじまります。

読んだことはあるけれども、イエスがなぜこんなことを教えられるのかさっぱりわからない。心に書かれていることは「世の中の常識と逆で、まずい教えなのではないか?」と」感じる方もあると思います。

今回、皆様には、ここでイエスが譬えをつかって教えようとされていることをより深く味わっていただくために「御自分を、この不正な管理人」に当てはめて、メッセージを聞いていただきたいと願います。

「私は、このたとえの管理人のようにお金を不正に扱ったことはない!だからこのたとえの人と自分を同列には考えたくない」という人がいるかもしれません。

 しかし、よく考えていただきたいと思います。

ここでイエスがなさったたとえ話しの中心は「富をどのように用いるか」についてです。「財産の管理において、一点の不正も許されない」という教えがここで為されているのではありません。

そして、イエスがこの話で譬えられている「人間が管理を任されている富」とは、お金だけのことではなくて、「この世を生きるために私たちに与えられている様々な資本、元手のこと」が当てはまるのではないでしょうか。

たとえば…持って生まれた健康な体、体力、能力や才能、家庭環境、生活環境などなど…その全てがそこに含まれます。それらは私たちが自分の力で手に入れたものではなくて、根本的には神がただ恵みによって与えて下さったものだと言うべきでしょう。

地震でお苦しみの中にある方々をみていてお感じになるのではないでしょうか。私たちは神が特別に与えて下さったもの、一人ひとり違いを持った「賜物」を用いて人生を営んでいるのです。

そういう意味で、主人の財産を任せられている管理人というのは、この世を生きる私たちの人生を表すたとえとして適切だといえます。神から預けられた富をどう管理し用いるかが、管理人である私たちに問われているのです。

でも!私たちは自分に与えられた、違う言い方でいえば「預けられた」富、賜物を、正しく管理できているでしょうか? 

私は今回、これを自分自身に問いかけてみたとき、改めて「神様から委ねられたものを、神様さまの御心どおりに管理できない!使い込んでいる!といわれても反論できないな…まさしく不正な管理人だなあ…」と思わされました。   

 自分は神から委ねられたものを、自分勝手には一切使っていない!そう断言できるかたはいらっしゃらないと思います。

 ですので、このたとえ話にでてくる管理人を「自分とは遠くかけ離れた極悪人!!」と思われるのではなく、ぜひ御自分に当てはめながら、味わっていただいたなら幸いです。

それでは1節2節から順に味わってまいりましょう。

まずこのたとえは「弟子達に対して」された教えだということを覚えましょう。イエスの教えを全く聞いたことがなかった人に語られたのではないのです。

イエスがなさったたとえ話は「ある管理人が、主人の財産をうまく管理できないでいたことが発覚した」ところからはじまります。

 2節で、うまく財産を管理できなかったこの管理人は、主人に呼びつけられます。そこで彼は「クビになりそうだ」ということを悟ったのです。そういう前提で話が進みます。

 私たちも、いつか「神の御前で、自分のしてきたことが明らかになるとき」が必ず来る…そのように聖書は教えています。

 しかしながら、先ほども確認したように「自分は神から委ねられたものを、自分勝手には一切使っていない!管理の不正の罪など、絶対に犯していない!」そう断言できるかたはいらっしゃらないと思います。

 私たちも、このたとえで描かれているように「主人の前で、自分の人生を問われる場面が来る」ことを自分のこととして受け止めましょう。

さて、3節、その状況で管理人は、必死に知恵を働かせたのであります。力仕事ができないこと、また物乞いをしながら生きても行けないということを認めたうえで、「ピンチの今」、「一体何を自分はすべきなのか」、ということを真剣に考え、その後実行に移したのです。それが4節~7節です。

(※よんでみます)

彼は、主人に借金をしている人々を集めて管理人としての権限を用いてその借り入れ額を減額してやりました。これは主人に「さらに損害を与える!」とんでもない行為ともとれます。

しかし!次のことが大切なのです!!

彼のやったことは見た目には!そして!!人間の常識では「正しい人のやる行動」には見えないかもしれません。でも!!「借入額を減額する」という、相手にとっては「とても有難い」もっといえば「生きるか死ぬかの状況の人を救うかもしれない」行いをしたのです。

それによって、「自分を心の友として迎えてくれる友達」を得たのです。

このたとえ話では、「主人に借りがあって、この管理人によって、生活を楽にしてもらった」もっといえば「生きるか死ぬかの状況で、助けてもらった」この人たちの心情にはなかなかスポットが当たりません。

しかしみなさんに考えていただきたいと思います。この「借金を軽くしてもらった、この人達の心のうちを!」

 たとえ「主人にさらに損害を与えた」ように見えても、その生活を楽にしてもらった人から見れば「命の恩人」なのでしょう。 

主人から預かったものをきちんと管理できなかった「この管理人は」、このさきどうなるかわからないという危機的な状況の中で、「自分に今できること、今しかできないことを見極めた!」のです。

そして与えられている立場、権限をフルに用いて、自分と周りの人々にとって「本当に必要なこと」をしたのです。主人が「こういう行動をとっても、きっと特別に赦して下さる」ということが分かっていたことも、この行動の根底にあります。

別の箇所でイエスは「1タラントを土の中に埋めて隠しておいた家来」のことを「主人を恐ろしい人だと誤解し、恐れていた」と表しておられますが、今回の箇所のルカ16章の「不正な管理人」は、主人との関係性においても真反対なのです。

このように主人がどんな方かを良く知った上で、「周りの人々にとって何が最善か良く考え、必死に行動した彼の姿」を、主人は「賢くふるまった」とほめた、そのようにイエスは話されます。そして「弟子たちに対して」この姿を見倣うように教えられたのです。

しかし注意しなければならないのですが、この話によってイエスが教えようとしておられる最も中心的なことは、人間の友達を得ることの大事さ!ではないのです。 では最も大事なことは何かというと、それは9節だと思います。(※9節を読んでみます)

ここで教えられていること。それは、私たちが地上の命を終える時に、永遠の住まいに迎え入れてくれる友を得ることの大切さです。「私たちを」「永遠の住まいに入れてくれる人」とは、神以外にありあえません。その神と「不正にまみれた富で友達になる」とは一体どういうことでしょうか?

それは結局、「世の中の人々、とくに困難の中にある人々を、自分に預けられたもので助けることは、神、イエス御自身を助けるのと同じだ」ということなのだと思います。

マタイによる福音書の25章31節以下、イエスなさった有名なたとえ話があります。

「飢えていたり、着るものがなかったり、病気にかかっている人を助けることは、神御自身を助けることになるのだ」という教えですが、特に有名なマタイ25:40は次のように教えています。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。

私たちは神から与えられている富を、完全にうまく管理できず、ときには自分の私利私欲のために用いることのある「弱いもの」です。しかし!その富を「永遠の住まいに入るために用いることができるのだ」とイエスは教えておられるのです!

 周りの人々に配慮する、とくに苦しみの中にある人に配慮する、そのために「神から委ねられた富を用いる」ことは、神自身に配慮するのと同じなのだということを今回強く思わされました。

神を愛し、隣人を愛して生きることは人生の最大の目的です。神から私たちが管理を委ねられている「富」はそのための「手段」にすぎないのです。

そういう教えの締めくくりとして、13節の「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」という教えが出てくるのです。

最後に、「富に仕えず」、逆に「委ねられた富を使って、神に喜ばれることを成す」ということについて、私が思い出した、一つのエピソードをお話しして、メッセージを閉じます。

私の大学時代からの友人で、茨城県のスーパーマーケットのチェーンで働く男性がいます。2011年3月11日から数日、彼が体験したこと、そこで何をしたのかについて話してくれたことは今でも、はっきり胸に刻まれています。

 電気、ガス、水道がすべてとまり、人々が食べ物や飲み物がなくてこまっていたとき、彼のスーパーは採算度外視である行動にでたのだそうです。

それは、店内にあった、生鮮食料品以外のすべての商品を、100円均一で、求めてきた人に譲るというものでした。 停電でレジも使えない中、そしてこのあと、地域がどうなってしまうのか全く分からない中で、「人々の命を救う」ことを考え行動したのだそうです。

当然、大きな赤字がでました。 儲け第一主義だったらまずやらない行為でしょう。 しかし、数ヶ月たったこと「あのとき助けてもらったから」というお客さんが続々ときて、本当に感謝されたのだそうです。

大変なときにこそ、その人が「富に仕えている」「お金が神様になっているのか」、それとも「神と人とを愛しているか」「世界を作られ、支配されている神こそが、私の主人になっているか」、それが明らかになるのだと思います。

私たちは、神から委ねられた富をうまく管理できないことがある。ときは自分勝手につかってしまうそのことをまず神様の前に認めましょう。そのうえで、委ねられた「富を」どう使うことが大切なのか、どう使うことが「永遠の命につながることなのか」、今日のメッセージを心に留めつつ行動してまいりましょう。  (祈り・沈黙)