「神の怒りを受けるべき者のために」3/1 隅野徹牧師

  3月1日説教 「神の怒りを受けるべき者のために」(受難節第1主日礼拝・聖餐式)
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:エフェソの信徒への手紙2:1~6

 

 今週から、教会の暦では受難節に入りました。イエス・キリストの十字架の苦しみ、その苦しみを通して私たちに何をして下さったかを覚えるのが「この期間」です。しっかりとキリストの苦難の意味を噛み締め、味わってこそ、4月12日のイースターを「心から喜びをもって」迎えることができると信じています。

 今年はどこから語るべきか、祈り求めていましたが、示されまして「エフェソの信徒への手紙の2章」から、続けて語ることにしました。使徒パウロが、自分が開拓した「エフェソの教会の信徒たち」にあてたこの手紙には「驚くべき神の業」がダイナミックに描かれています。今回続けてよむ2章には「キリストによる、驚くべき救いの業」が教えられています。御言葉を味わいたいと願います。

 今日の箇所は短く5節までですが、1~3節と4~5節に分けて味わいます。

 まず1~3節を読んでみます。

 この3つの節には、「すべての人間に対する神の怒り」が描かれているのです。

 3節の最後に「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」とある通りです。

 「神の怒り」と聞くと、どこか嫌な気持ちがするのではないでしょうか?神の祝福とか、愛とか、恵みとか・・ということに対して、快く受け入れられても、神の怒りについてはそうではないと言われます。その原因は「自分のことを善人だ。特に神の怒りを買うようなことをしていないのに」と思うことにあるのではないでしょうか?

 「あまり悪いことをしていない私が、神からの怒りを受けるなんて不憫だ…」そのような感じでしょうか?とくに日本では「祟り」という言葉が「神の怒り」とごちゃまぜになって考えられることが多い様に思います。

 しかし「神の怒りを正しく知って」、その結果、「自分が神から怒りを受けるものである」という事実をしっかりと受け入れる時、はじめて神がキリストを通してなさる救いの業がすばらしい恵みだと心から理解できる!そのように私は信じています。

 少し「神の怒り」を深めて考えましょう。 私たち人間の怒りは、大体が「感情的な気紛れ」なものです。しかし神の怒りは、そうではありません。罪を罪としてはっきりと罰する正義の現われとしての怒りです。罪や悪に対するはっきりとした態度です。

 「聖なる怒り」ともいうべきですが、これは神のご性質の一つでもあるのです。聖書における神の怒りは、ものごとの白黒をはっきりとつける、正義を行うための審判者としての怒りです。

 その「神の怒り」ですが、この「聖なる怒り」を間逃れる人はどこにもいないと聖書は教えます。1節から3節までは、私たちすべての人間が「神の怒りをなぜ間逃れないのか」2つの点から語られます。

 その2つの点とは、2節「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」という点と、3節「以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた」という点です。

 いずれも過去形で語られています。また1節、3節に「以前は」という言葉がでます。これは「ずっとそうなのではなく、ある時点からは真逆になる」ことを表しています。その「ある時点」とは、4節にでる「神の愛によって、救いを得る時」です。

 今から私たちが神の怒りを間逃れない2つの点についてお話ししますが、みなさん!過去自分がどのようなものだったかを素直に見つめましょう。そして「救いの恵みがどんなに特別なのか」そして「どんなに感謝すべきことなのか」を深く心に刻みましょう。

 先に見るのは2節です。 ここには「私たちは以前、悪魔・サタンに従うものだった。そして過ちと罪を犯し続けた」ということが教えられます。

 悪魔・サタンのことが「この世を支配する者、かの空中に勢力をもつ者、不従順な者たちのうちに今も働く霊」と表現されています。

 この「空中」というのは、当時の世界の表現の仕方のようです。現在でいえば「電波のような感じでしょうか。目には見えないけれども働くものを表すときに「空中に勢力を持つもの」と表されたようです。

 悪魔・サタンは目には見えないうちに「神に不従順な私たちの心の中」に働きかけます。そしてこの世は目には見えないけれども、気づかないうちに「悪魔・サタンに支配されるのです。

 最近のニュースをご覧になっていてもお感じになるのではないでしょうか?ウイルス・病原菌という物とは全く別次元で、人間の心がなんと私利私欲に満ちたものであるのかということが露わになったここ最近だったと感じます。

 まさに悪魔・サタンは生きていて、私たちを正しい道から引き離そうとする、神の御心から遠ざけようとしていることを皆さんも感じていただいたらと思います。

 さて、その悪魔・サタンですが、人間の心の中にこれらの働きが強まるとさらにどうなるかが3節に記されています。

 わたしたち、とあります。これは「パウロを含むすべての人間」が、以前サタンや、サタンに支配された人々の中で生活していると示すのです。その結果、肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたと教えます。だから「神の怒りを受けるのだ」ということです。「欲望のままに生活し、行動することが」私たちが神の怒りを間逃れない2つ目の理由なのです。

 パウロもこれに当てはまると自ら言っています。つまり、パウロは以前キリストを迫害していましたが、これも「悪魔・サタンに導かれた肉の仕業だった」ことを認めているのです。

 パウロはもともと「神の御心だと信じて」キリスト者を迫害していましたが、その「神のために」という思いにもサタンが付け込んで来た…そのようにパウロ自身が告白していると私は感じます。

 私たちが「神の御心だと信じて行った行為」にさえも付け込み、気づかないうちに肉欲の赴くままに行動さえるのが悪魔・サタンなのです。悪魔やサタンという言葉は聞きたくないという人は多いでしょう。でもあのパウロでさえ!以前は悪魔・サタンに支配され、肉欲の赴くままに流され、やってはいけないことを行ってしまった」ことを思い出しましょう。

 私たちが影響を受けないで済むほど弱くないのが「悪魔・サタンの力だ」ということを重く受け止めるべきだと私は考えます。 その状態は1節にあるように「死んでいるのと同じ」なのです。 肉体的に生きていても霊的には、心の面では死んでいる…私たちは「本当はそういう状態なのだ!」と聖書は示します。

 しかし、この状態は変えられることが可能なのです。霊的に死んでいるような私たちも「生きる者として変えられる」ことができるのです。それが4節、5節に書かれています。 4節5節を味わってメッセージを閉じます。

 ここでは、過去において「神の怒りを受けるべき存在だった私たち人間」ですが、神から受けたのが「怒りではなく愛だった」ことがはっきり示されます。それで人間は「本当の意味で生きることができるようになる」ことが教えられるのです。

 神の怒りを受けて当然の私たちですが、それでも!憐み豊かな神が「この上なく愛してくださる」のです。なんという大きな愛でしょうか?そして、この大きな愛が何より表れているのが「キリストの十字架」なのです。

 私たちは自分で自分が嫌になるときは多くあると思います。「なぜ自分はこんなにダメなのか、弱いのか、罪深いのか…」そんな風に感じて、自分で自分をせめることも多くあると思います。

 でもまさに「死んでいるような私たちを」それでも生かすために、キリストは十字架にかかってくださったのです。それほどに私たちは愛されているのです。

 ぜひこの愛を深く心に刻みながら受難節の間、過ごしてまいりたいと願います。