「神は永遠の命を与えることができる」4/2 隅野徹牧師

  月2日 受難節第6主日(棕櫚の主日)礼拝・洗礼式・聖餐式
「神は永遠の命を与えることができる」隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書17:1~11

 今日は、この礼拝の中で洗礼式を執り行います。神がここまで道を整えて下さったことを心から感謝します。私には祈りによって導かれたことがありました。それは復活を覚えるイースター礼拝ではなく、キリストの受難を覚える「その1週前の礼拝」で洗礼式を、というものでした。

洗礼式は「キリストによる新しい命の誕生」今日の聖書箇所の言葉では「永遠の命を授かる」ことを、神にあって多くの証人が共に「見届ける」ものです。

これはこの教会で再三語られているように、「神の御子イエス・キリストが救い主として、この世に来て下さり、私たちと共に生きて下さった後、十字架で私たちの罪を背負って死んでくださった。しかし父なる神が御子を復活させてくださった」…そのことがあるからこそ「洗礼」は意味のあるものなのです。

ただ「教会の仲間になる入会式」なのではなく、「キリストが十字架と復活を通して導いてくださった新しい命、永遠の命」が授けれられる…それが「洗礼式」なのです。

そういう意味からも「喜び、お祝いムードのイースター」ではなく、「十字架と復活の両方」を覚える、「棕櫚の主日と言われる、一週前の礼拝」で御言葉を味わったあと、「新しい命の誕生」「永遠の命の授与」を見守れることに意味があると思っています。 本日はこの後の洗礼式も「説教の一部」ですので、通常の聖書の解き明かしはいつもの半分の長さにいたします。 題名につけたように「永遠のいのち」について、ポイントを絞って短くお語りします。皆さんの心に響きますように。

今回の聖書箇所も「この教会で続けて読んできました、ヨハネによる福音書の続きの箇所」ですが、今回でヨハネ福音書の連続した箇所からのメッセージを終えます。実は今日の棕櫚の主日、洗礼式に「ヨハネ17章」が当たるように、順番を考えてかたってきました。

1節をご覧ください。イエスは父なる神に「時が来ました。栄光を与えて下さい」と仰っています。新約聖書は「イエスの十字架と復活」を「栄光の表れの時」として教えています。

ここは「十字架にかかられるのが分かっておられるイエスが、最後の言葉を弟子たちに授けている」という場面なのです。

とくに大切なこととして2節、「神の御子イエス・キリストが十字架にかかり、復活されること」で、神に導かれた人に対し、与えられるのが「永遠の命」だということが教えられます。

「永遠の命」とは何でしょうか?聖書の内容を知らない人は、「永遠の命」を、この世で死ぬことなく生きることだと誤解しているとよく言われます。これは「聖書が教える復活を、蘇生と同じものだとして信じようとする」という誤解されることが多いのと同じです。

教会に来て長くなった方は「永遠の命」とは、死後、天国で生きることだ、死のない世界で、安らかに、神と共に生きることだと考え、信じるようになるでしょう。それも間違いではありません。そのとおりです。しかし今日の聖書箇所でイエスは「永遠の命」についてご自身の言葉ではっきりと語っておられる箇所があります。それが3節の「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」という言葉です。 今回はこの言葉だけに絞ってお話しします。

意外に感じた方、初めて知ったという方もおられるのではないでしょうか?「永遠の命とは、唯一のまことの神とイエス・キリストを知っている命」ということになります。天国に召された時に与えられる命なのではなく、父なる神とイエス・キリストを知ることで、もう既に、私たちは永遠の命を生きているのです。

では「この方を知れば、永遠の命が与えられる」と言われている、その対象であるイエス・キリストとは、どのようなお方だとご自身で言われているか、それが4節です。

イエスは、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」と語られていますが、その業とは「人を愛することであり、人を愛する業の究極が、十字架に架かって死ぬこと」です。

イエスは、神の御心は、神が人を愛しておられる恵みだと「まさに知られた」のです。そして苦しみ悩んでいる人々を愛されました。そのために祭司長たちやファリサイ派の人々から非難され、命を狙われても、愛の業をやめませんでした。

そして、遂に捕えられ、裁かれ、十字架に架けられることになるのですが、ご自分を十字架に架ける人々のことを、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と十字架の上で祈られました。イエスは、ご自分の命を捨てるところまで、その愛を全うされたのです。命を捨てるほどの愛の業によって、唯一のまことの神の栄光を、愛の栄光を現したのです。

「イエス・キリストを知る」とは、「まさにその愛」を知ることです。イエス・キリストが命を捨てて、命を懸けて自分を、そしてまわりのすべての人々を愛する方だ」と知ることなのです。

知識として情報として「知る」のではなく、「全人格をもって神とキリストを信じ、受け入れる」ことで、永遠の命は「いまここで与えられる」ということなのです。2

聖書の教える「知る」とは、生活の中で、実際の交流を通して、相手を「人格的に受け止めて知る」ということです。生活を共にする中で、相手を見、相手に聞き、語りかけ、コミュニケーションを取る。そうする中で“わたしとあなた”と呼び合えるような愛し合う関係を築き上げていくということです。

イエス・キリストはまさに、唯一のまことの神を「あなた」と呼んで、神を知り、深い関係に生きているのですが、私たちも、「神と御子キリストが一つであるのと同様に、一つとさせていただける」のです。

それがよく表れている11節を、最後に読んで、短いですが、メッセージを閉じさせていただきます。

神を「知る」、イエス・キリストを「知る」ことは毎日の生活の中の様々な場面で神の愛が思い出し、それに感謝して生きる…そのとき私たちはで「神・キリストと一つとなっていることを体験する」つまり「永遠の命を得ていることを体験する」のです。

もちろん再び「罪や失敗」をおかすこともあるでしょう。この地上で「永遠の命を知っても」いきなり罪が無くなり、完璧になるわけではありません。しかし!そのような経験を通して、更に「罪人の自分のためにイエス・キリストは命を捨て、そして死を打ち破って復活してくださった」ということが心に迫ってくるのではないでしょうか。そのようにして、永遠の命を得て生きているという実感は、日々増していくものだと私は信じています。

永遠の命は「神・キリストを信じ、その生活の中で、理屈を超えて感じることのできるもの」です。今日洗礼を受けられる姉妹が、今日を機に「永遠の命に生きていること」を日々実感できますように。また見守られるお一人お一人も「神・キリストを知り、永遠の命に生きる喜び」をもう一度深く感じることができるように、心を込めてお祈りいたします。(祈り・沈黙)