「私たちが蒔くもの」7/16 隅野徹牧師

  7月16日 聖霊降臨節第8主日礼拝
「私たちが蒔くもの」隅野徹牧師
聖書:ガラテヤの信徒への手紙6:1~10



 今朝は、「聖書日課」のうち、ガラテヤ書6章1節~10節を選びメッセージを語ることにしました。この手紙は「ガラテヤの信徒たちに対する、使徒パウロの信仰生活のアドバイス」が記されている手紙ですが、後半になればなるほど、より「実践的で、具体的」な信仰生活のアドバイスがなされています。

洗礼を受けたクリスチャン・キリスト信徒は「イエス・キリストによって新しい命を与えられ、罪の支配から解放されて自由に生きる者」であるのですが、この当時のガラテヤの信徒の中には、「与えられた自由を勘違いして」、「肉の欲望を満たすため」に使ってしまったり、「再び律法に縛られた生き方を人に強いたり」そういう間違った道を進む人が多かったのです。

 6章前半では「信仰をもって聖霊に満たされた人同士は、具体的にどのような人間関係を生きるのか」が教えられます。その上で「キーワード」のようにパウロが用いているのが「重荷を担う」という言葉です。

「重荷を担う」ということに関して、ある牧師が鋭いことを言われていたのが私の心に刺さりましたので、まずそれを紹介させてください。

「教会は、互いの重荷を担うということを軽く受け止めすぎているのではないだろうか」という指摘です。

そして「教会に来ると皆やさしくて、誰も自分を傷つけることなく、誰も自分に重荷を負わせることのない、素晴らしい人格をもった人たちの集まり、それが教会であると思い込んでいる人が多い。しかし、ひとたび教会の中で人間関係に傷ついたりすると、すぐに教会を離れる人が多い。」ということが指摘してありました。

たしかに今日の箇所教えられているような「傷つけてきた人を受けとめ、愛によって諭し、立ち返らせる」ということは少ないかもしれない、と自責の念もってこの厳しい指摘を私は受け止めました。 そして「本当の意味で、重荷を担う」とは、「ただ困っている人を手助けする」ということを超えて「ギスギスした人間関係、ドロドロと不満がうずまく、そういう中で、相手を愛すこと」なのではないか、と今回の説教準備を通して考えさせられました。

先に言ってしまいますが、「ギスギスした人間関係、ドロドロと不満がうずまく、そういう中で、相手を愛すこと」ことこそ、説教題につけたように「私たちが蒔く霊的な種」なのであり、それは「永遠の命の刈り取り」につながるのです。

与えられた聖書箇所を深く、味わってまいりましょう。

(まず1節、そして飛ばして3節、4節を読みます)

 ここで言われていることは「正義感をもって間違いを正しなさい」ということではありません。

「だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら」の「何かの罪に陥る」の元の言葉は「先に取られる」という言葉だそうです。何に取られるのかというと「悪魔に取られる」のです。「悪魔に取られる」とは…具体的には何を指すかというと「自分の正しさをかざして、相手を非難し、傷つけること」です。

こんな激しい表現がわざわざ用いられている理由は、「今、霊に導かれて生きていると思っている一人ひとり」も、「後で悪魔に取られる危険性がある」つまり「自分は正しいのだ。信仰深いのだ、というその思い込みが、悪魔に付け込まれる隙を与えているぞ!」ということにパウロが気づかせたいためです。

 最近「主義主張の自由」をはき違えた一部の人々が「正義感をかざして、過度の誹謗中傷をする」ということが多く起こっています。大切なのは「自分も同じ過ちを犯すかもしれない」という謙虚さ、「優しく諭そう」とする寛容さなのではないでしょうか?

私たちは、「相手は間違っているが自分は正しい」と思うのではなく「自分も間違いを犯しやすい罪人の一人だ」と肝に銘じて行動してまいりましょう。

では続いて今回の中心聖句2節です。

 この2節の言葉「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」という言葉は、皆さん割とすんなりと理解できる言葉だと思います。

「互いの重荷を担い合う」ことが「キリストの律法を全うすることになる」、つまり「聖書全体の教えを行うことと同じなのだ」ということです。

 しかし!最初に語ったようにパウロがここで語っていることは、ただ助け合おうということではありません。パウロはこの前後の1節や3節4節で問題にしているのは、誰かが罪を犯した時、とくに「教会の中で誹謗中傷や人格攻撃があったとき」その罪をどうするかということです! 

「困っている人がいれば、その人の重荷を担いあう」ということは、キリスト教でなくても、世の中一般の倫理としても当然のことです。しかし、この箇所の教えが「世の中一般の常識と違うこと」は、「自分に対して、罪を犯す、具体的には誹謗中傷など傷つけてきた人を、柔和な心で正しい道に立ちかえらせてあげなさい」ということです。 自分を傷つけてくるなど「罪に陥っている相手」を受け入れ、諭すこと…それこそが「互いの重荷を担うこと」なのだと教えられているのです!

残念ながら、世界の教会全体で「誹謗中傷や言い争い」は絶えずあり、教会の中で「誰かの配慮のない言葉や行動によって、他の人が傷つき、教会を離れる」ということが沢山おこります。それが現実だと言わざるを得ません。

「心の平安を求めて来た教会なのに、どうして自分がこんな嫌な思いをして、傷つかなければいけないのか!」そういうお叱りを受けたことは実は何度もあります。

 また「教会にいってもストレスを感じるだけなので、もう教会には来ません!」そういって去っていこうとする方に接するということも、何度もしてきました。

しかし、そんな時、私は本当に弱い者です。大体は掛ける言葉が出てこず…ただ呆然とそういう方々が教会を去るのを見ているだけだった…という経験も何度もしています。

「教会の中で罪をおかしている人を、柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」そして「傷つける人も、傷つく人も、その罪の重荷を教会の皆で担っていく」ということは心底「難しいことだ!」と感じるのです。皆様はいかがお感じでしょうか?

では、教会の中で「罪を犯すこと」具体的にいえば「人を傷つける」ということが起こることは、やむを得ない…こととして静観することしかできないのでしょうか。

実は私は、今回この箇所から「大切なこと」を示されたのです。 それは「もう一つの重荷を負うこと」についてです。それが5節、6節です。(※この2節を読んでみます)

2節では「互いの重荷を担いなさい」とありましたが、5節では「自分の重荷を担うべきです」と違うことが教えられているのです。

つまり!私たちには、①つ目の「互いに担い合わねばならない重荷」とともに②つ目の「それぞれに負うべき自分の重荷」があるということが教えられるのです。

両方が大切で「自分の重荷を担うことをしないで」「他者の重荷を担うということは、できないのだ」ということが読み取れますし、「自分の重荷を担うことで精一杯だから、他者の重荷は一切負わない」というのも間違いだということが教えられるのです。

先ほど、「人を傷つけ、傷つけられる」ことがどうしても起こってしまう教会の中で、そういう相手同士が受け入れ合い、「柔和な心で、正しい道に立ち帰らせる」ことは大変に難しいといいましたが、しかし難しいそのことが可能になるとしたら、それは「各々が、神の御前でキリストにあって、自分に与えられた重荷を担う」ということを、何時でも心に留めるということが欠かせないと感じました。

「信仰者個々人が負うべき重荷」とは一体何でしょうか?その一端が私は6節に表れていると感じます。

6節はよく「御言葉を語る伝道者と、信徒が、物質的に支え合うことの大切さが語られている」と理解されてきました。しかし!わたしにはもっと広い意味で言われているのではないかと、示されています。

「御言葉を教える人、教えられる人」それは、信徒か教職かということではなく、すべての人が「御言葉を教え、また教えられる」一人ひとりなのではないでしょうか?

そしてここでいう持ち物とは「目に見えるもの」を超えて「霊的な糧や恵み」もっといえば「神のみことば」だと理解できると思うのです。

 それは「御言葉に生きる」という言い方ができると思います。

お互いが聖書について教え合うとか、そんな「大げさなことではなくて」、日々聖書の教え、キリストの福音に生かされている感謝を、何気なく「相手と分かち合う」それが、5節と6節が教えていることではないかと、今回私には迫ってきましたがいかがでしょうか?

 「ギスギスした人間関係、ドロドロと不満がうずまく、そういう中で、相手を愛すこと」それが世の中一般の教えとは違っている、この箇所が示す「本当の意味での重荷の担い合い」です。そのためにはまず「自分の負うべき荷がそれぞれあるのだ!」ということを、今日皆様と確認出来たら感謝です。

 イエス・キリストがまず、罪深い私たちの重荷を担って下さっているのですが、そのキリストがマタイ11章28から30節で次のように言っておられます。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

主は「やすませてあげよう」と仰いましたが一方で「くびきを負うこと」や「学ぶこと」そして「荷を負うこと」も併せて勧めておられるのです。

これらこそが「神・キリストとともに生きること「御言葉に生きること」なのではないでしょうか?

これが今日の箇所の7節から10節につながると信じます。「霊に蒔き、永遠の命を刈り取る」それは、御言葉に生き、キリストにならって、相手の罪を赦すことと繋がるのではないでしょうか。

「たゆまずに善を行うこと」信仰によって家族になった人々に善を行うこと…これらもまずは「御言葉にいきること。ゆたかに御言葉を分かち合って生活すること」の中から、具体的に示されます。

皆さんも、この山口信愛教会での信仰生活で「何かしらの不満」や「ドロドロ、モヤモヤした気持ち」をお持ちのことと思います。 そんな私たち一人ひとりが「まずしっかりと御言葉に生き、自分に与えられた重荷を背負いつつ」「信仰によって家族になった一人ひとりの重荷を担い合って」愛の内に歩んでまいりましょう。 (祈り・沈黙)