「私たちの身代わりとして」9/25 隅野瞳牧師

  9月25日 聖霊降臨節第17主日礼拝
「私たちの身代わりとして

隅野瞳牧師
聖書:ヨハネによる福音書 11:45~57

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 本日の箇所では、人の計画を超えて、主イエスが身代わりとして十字架についてくださったことが記されています。3つの点に目を留めて、ご一緒に御言葉に聴きましょう。 

1.主イエスは私たちが滅びないために、身代わりとして死なれた。(50,55節)

2.神の救いはどんな状況を通しても進んでいく。(51節)

3.十字架は世にあるすべての者を、主のもとに一つに集める。(52節)

 

 先週は、死んで葬られ四日が経っていたラザロが主イエスの呼びかけによって生き返り、墓から出て来たことを聞きました。家族や友人の喜びは、言葉に言い表しえないものだったでしょう。しかし本日の箇所ではラザロが生き返ったことで、主イエスの十字架が正式に決定的なものとなったことが記されます。主はそのことをご存じのうえで、あえて危険を冒して愛するラザロを生き返らせられたのです。ヨハネ福音書において、主イエスの奇跡は「しるし」と呼ばれています。ラザロの復活は、主イエスの十字架と復活によって私たちに与えられる永遠の命、「復活であり、命である」主御自身を指し示すしるしです。

 

1.主イエスは私たちが滅びないために、身代わりとして死なれた。(50,55節)

主イエスのしるしを目撃したユダヤ人たちの反応は、二つに分かれました。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。」(45~46節)

一方は、しるしを目撃してその結果、主イエスを信じるようになった人々です。彼らはマリアのところに慰めにきて、ラザロの墓までやってきた人たちでした。生き返ったラザロを目撃した人々の多くは、主イエスが死をも支配される、全能の神の力を持つ方であると信じました。しかしそのしるしを受け入れず、むしろ悪意をもってファリサイ派の人々に通報した者たちもいました。

この知らせを受けて、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集します。彼らがこの事態をどれほど重く受け止めていたことが分かります。最高法院は大祭司を議長とし、多数を占めるサドカイ派、ファリサイ派と、長老といわれる土地の名士たちの71人から構成されるユダヤ人の自治機関です。行政府、国会および最高裁の機能を合わせ持ち、外交と死刑執行以外の権力を振るうことができました。

最高法院の中には微妙な政治的対立がありました。サドカイ派は復活を否定し、ローマを後ろ盾にしていた世俗的な貴族階級です。法外な神殿税の取立てや、神殿にまつわる商売によって利益を得ていたので、それを批判したり、御自身が真の神殿となって神礼拝を回復するというイエスを除きたいと考えていました。サドカイ派に属する大祭司カイアファは紀元17~37年頃、20年近くも大祭司職にある、最高権力者でした。最高法院のもう一つの派閥は、民衆の支持を得ているファリサイ派でした。彼らは非常に宗教的な人々で、民に律法を教え自らも厳格に守っていましたが、その解釈は律法の本質からはずれて人を束縛するものとなっていました。彼らは、律法の本質をお示しになった主イエスが、神を冒涜しているととらえました。サドカイ派とファリサイ派が最高法院を二分していましたが、イエスという共通の敵を前にして、利害が一致したのです。

「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」(48節) 

最高法院がもはや放っておくことができないほどに、主イエスは民衆から支持を得ていました。当時ユダヤはローマ帝国の属州となっており、民衆は神の民である自分たちが、異邦人に支配されていることを耐え難い屈辱と感じていました。ですからローマの支配から解放してくれる神からのメシアを切望していたのです。イエスがラザロを生き返らせたことが人々の間に広まれば、民はイエスを神から遣わされた救い主と信じ、王に担ぎ出して暴動を起こすだろうと、最高法院の議員たちは考えました。ローマはその民族の文化や宗教には寛大でしたが、反乱に対しては圧倒的な軍事力をもって鎮圧しました。暴動が起きれば民衆を治める能力がないと見なされ、今得ている利権を失うことになります。それこそが、最高法院の議員たちの危惧するところであったのです。

「彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何もわかっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」(49~50節)  

その時議長である大祭司カイアファが、議員たちの知恵のなさを嘲って言いました。イエスを放置すれば、ローマ軍によって国全体が滅ぼされるとあなたがたは恐れているようだが、その一人の人間(イエス)を今のうちに抹殺し、国民全体を救えばすべて丸く収まるではないか。カイアファは主イエスを政治犯に仕立て上げて捕らえ、ローマ帝国に差し出すことを提案しました。大祭司は本来神とイスラエルの間に立ち、命がけで民の罪の赦しを執り成す人ですが、彼の思いにあるのは民の救いなどではなく、神殿や祭儀を守ることでした。祭司たちを潤す神殿税や、権威を振るうことのできる場がなくなっては困るからです。

議員たちは主イエスの言葉やなさったことを聞いていました。直接見た者もいたでしょう。しかし主イエスを信じるに至りませんでした。自分にとって「好都合かどうか」という点からしか、主イエスを見ることができなかったからです。打算から近づく限り、キリストを信じるには至りません。なぜなら、神がキリストにおいて私たちにしてくださったことは、打算からはずれた「愛」だからです。人間的に見るならば、愚かなことだったからです。愛は、あえて愚かになる道を選ぶことです。

私たちはこれまで受けた多くの愛を思い出し、大切な人に注いだ愛を思い出します。愛は相手のために喜んで自分を差し出したいと願います。愛は痛みを伴うけれども、それを損だとは思わず特権と思います。御自身の命までささげる愛をもって私を愛してくださっている主、その愛に応えていくことが、主イエスを信じることです。主の救いは、自分を開いて初めて受け取れるものです。なぜなら主は、他でもない「あなたと」心を割って愛し合いたい、生きてゆきたいからです。信じることには恐れもあるかもしれませんが、あなたが主に心を開き、その愛を受け取ってくださるよう祈ります。 

 

2.神の救いはどんな状況を通しても進んでいく。(51節)

「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。」(51節) 

「預言」というのは神の言葉、神の御計画を預かって語るということです。ここで示されている神の御心は、罪のゆえに神から離れた私たちが神に帰ることができるために、主イエスが身代わりとなって死ぬ、ということです。主イエスは「わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」とお告げになり、ラザロを通して復活の約束を確かなものとされました。御自身を信じる者に与えられるこの永遠の命は、私たちの身代わりの十字架によって与えられるのです。

何かの罪を犯した時には、普通は本人がその償いをします。自分のしたことの結果を負う中で私たちは自らを省み、人として成長することが期待されます。しかし聖書を通して聖なる神の前に出る時、私たちの罪はあまりにも多く重いもので、死をもって償うしかないことが示されます。生まれつきの私たちは存在そのものが神に背いているために、何度悔いて償っても同じことを繰り返します。人間の力によって神に赦していただくことは不可能です。

しかしただお一人罪のない方、神であり人となってくださった御子キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架で死んでくださり、私たちの罪は赦されました。主イエスは私たちが本来負うべきであった、肉体的・精神的な痛みを負われました。すべての罪を担い、その結果神との親しい交わりを断たれ(マタ27:46)、神の怒りと裁きを一身に受けられたのです。この十字架のゆえに、私たちはキリストと共に罪の自分に死に、復活の命に生きる者となりました。私たちは、神に対して生きる命をプレゼントされたのです(ローマ6章)。

この後主イエスは過越の小羊が屠られる準備の日に、すべての人の身代わりとして十字架につけられます。洗礼者ヨハネは主イエスが来られた時にすでにそれを知り、この方が屠られるためにこの世に来られた「世の罪を取り除く神の小羊」であると告白したのです(ヨハネ2:29)。過越祭は、奴隷とされていたイスラエルの民が、モーセに率いられてエジプトを脱出した、信仰共同体イスラエルの原点を記念する時です。イスラエルの民が頑ななファラオから逃れるために、主は命じられました。家族ごとに羊を過越の犠牲として屠り、その血を鴨居と入り口の二本の柱に塗り、翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るときこの血を見て、その入り口を過ぎ越されると(出エジプト記12章)。神が罪あるすべての人間を正しく裁かれるなら、イスラエルの民だけが裁きを免れることはありません。神の裁きは彼らの救いのために屠られた、「身代わりの小羊の血」を見るから過ぎ越すのです。

さて大祭司カイアファは無意識のうちに、主イエスの十字架の死が身代わりの死である、この方が一人死ぬことによってすべての人が滅びないで生きることになるという福音の真理を告げることになりました。しかしそれはローマではなく、罪と死の支配からの救いです。聖書が告げる神のご支配とは、このようなものです。神は私たちが100%自由な決断をした事柄の中で、御自身の御計画を実現されます。正確には、神から完全に離れて人間は存在しえないので、どこまでが私たちの決断かとは言い切れない、分けられないといえます。すべてが人間的な思いの中で進行しているにもかかわらず、その背後には神の御計画が秘められている。これは驚くべきことです。

もちろんそれでカイアファの責任が逃れられるわけではなく、これは例外といえます。神は原則的に、御自身に従う者を通して御心を語られます。人は言葉よりも、実際にそのように生きているかを通して主を見ます。主に従う生き方をもって証することが大切です。しかし神のみ心に敵対しているように見える者もすべて御手の下にあり、神のご計画こそが実現していくのです。苦しいことがあるから、道が閉ざされたから神はいない、どうして神は…と嘆く時、思い出してください。ここにこそ神がおられるということを。

主イエスの十字架はカイアファたちから見れば、自分たちの権益を守るために一人の人間を犠牲にしたこと、ローマ帝国からすれば政治犯を処刑したということです。けれども神の御心からすれば、御自身を信じる全ての者を罪から救い、神の愛のもとに引き戻して一つとするためになされた救いの御業です。主の十字架は私を救うためだと信じることが信仰です。主はカイアファの身代わりとしても、あなたの身代わりとしても死んでくださったのです。

 

3.十字架は世にあるすべての者を、主のもとに一つに集める。(52節)

「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」(52節) 

「イエスが国民のために死ぬ」。その国民とは、神の民であるユダヤ人のことです。しかしここではさらに、主イエスが死なれるのは、散らされている神の子たちを一つに集めるためでもあると語られています。一つに集めるというのは、ただ単に人が集まるとか地上に神の国が一つだけ見える形で成立するということではなく、主イエスによって御父と和解させていただいた子どもたちが、御もとに再び戻ってくるということです。教会は、神と和解していただいた者たちが、神の前に集まっている所なのです。

「散らされている神の子たち」のもともとの意味は、世界の各地に散らされているユダヤ人たちのことですが、ここでは新しい意味が加えられています。それは、異邦人も含めて主イエスを信じる人々のことです。主イエスを信じ神の子とされる者、神を父と呼ぶことのできるようにされる者が、実は世界中に散らされているのです。イスラエルは本来、全世界に祝福をもたらすために選ばれた民です(創世記12:2~3)。神に背き、命であり愛である神から離れ霊的な死の中にあった人間を、祝福の内に新たに生かすために、神はアブラハムと子孫イスラエルをお選びになりました。初めから、すべての人を救うことが神のご計画だったのです。

自らを神としバベルの塔を建てた人間は、神によって言葉を乱され全地に散らされました(創世記11:8)。しかし神によって私たちは悔い改めに導かれ、聖霊の洗礼を受け、主のもとに集められました。主は世界の民を、違いをもったままで、キリストのからだなる教会として建て上げてくださいました(使徒2章)。主の十字架はそのためでもあったのです。「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。…それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(エフェソ2:15,16,18)

 さて、イエスを殺すのは国を守るために必要なことなのだという大義名分を得て、ついにカイアファの提案が最高法院で決議されました。主イエスを見かけた者は届け出るようにと命令が出され、それを知った主は荒れ野に近いエフライムに行って、弟子たちと共にそこに滞在されました。ユダヤ人たちを恐れたのではなく、過越祭を待つためです。この過越祭において、主は「わたしの時(2:4,7:6,8,30,8:20)」といわれる、十字架での死と復活に向かわれます。

 

伝道も生きることそのものも苦しい日々かもしれません。しかし、どんな時も主の御手の中にあります。主が私たちに先立って傷を受け、救いを成し遂げてくださいました。その安心の中に入れられて、一つとされた喜びをなお深く味わい、主に感謝をささげましょう。私たちは先に見出され、主のもとに帰らせていただきました。この町にも、この家にも、散らされている神の子がいます。祈りをやめることなく、私たちの身代わりとして十字架にかかってくださった救い主をお伝えしましょう。