「私達が義とされるための復活」4/9 隅野徹牧師

  月9日 復活節第1主日(イースター)礼拝
「私達が義とされるための復活」隅野徹牧師
聖書:ローマの信徒への手紙4:17b~25

 先週は、礼拝の中でひとりの方の洗礼式が執り行われ、「キリストによる新しい命の誕生」「永遠の命を授かる」ことを、神にあって多くの証人が共に「見届けられた」ことを感謝します。

洗礼を受けることでいきなり罪が無くなり、完璧な人になるのではなく、洗礼は「はじまりだ」というようなお話しをしました。「自分のためにイエス・キリストは命を捨て、そして死を打ち破って復活してくださった」ということが心に迫る経験を繰り返して、「永遠の命をすでに得て生きている」という実感が、日々増していくものだと私は信じています。

今お話しした「永遠の命」は、きょうのイースターでとくに思いをはせる「復活の命」と同じものであります。

復活の命とは…十字架に掛かって死なれた後、実際に復活された「イエス・キリスト」だけが持たれるものではありません。私たち一人ひとりにも、「キリストを復活させられた神を信じる」ならば、与えられるものなのです。

私達が永遠の命、復活の命を持つことができるとは…、肉体的に不老不死になることではなく、また肉体が蘇生することではありません。

では、私達が復活の命を与えられるとはどんなことでしょうか?

今年のイースター礼拝は、イエス・キリストの復活の場面ではなくて、使徒パウロが記した「ローマの信徒への手紙」から「私達一人ひとりが復活の命をいただくことができることを説明している箇所」から選ばせていただきました。

今日は、この後墓前祈祷など、多くのプログラムもありますので短めに語りますが、御言葉を共に味わっていただいたら感謝です。

今回選んだローマの信徒への手紙4章ですが「人間が神の前に義とされる」つまり「ただしいものと認められる」ことについて、その実例が旧約聖書の内容に照らし合わせて教えられている箇所です。とくに、ユダヤ人の父祖アブラハムが「どのように義とされたか」旧約聖書を基にして丁寧に教えています。

パウロはこの手紙の読者たちに「唯一の神を信じ、苦しいことがあってもその約束を待ち望むものが、世界を受け継ぐ者となる」という事を教えます。そして、「アブラハムは、民族の違いを超えて、神を信じる者の父なのだ」と強く言うのです。私達の信仰の父もアブラハムなのだということを教えるのですが、今回の箇所ではとくにその教えが深められます。では17節から読みます。 

17節~22節をざっと目で追ってみてください。

ここではアブラハムの信仰がよく説明されています。「アブラハムの信じた神は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」だと記されています。    

18節を見ると、アブラハムは希望するすべもなかったとき「なおも望みを抱いて信じた」とあります。これが具体的に何を指しているのか…19節に詳しく書かれています。

アブラハムは100歳になった時にすでに「自分のからだが衰えて死んだも同然であることと、サラの胎も子を宿せない状態であることを知っていました。

しかし!20節以下にあるように、彼は「神の約束を信じることを止めず」逆に「神には約束されたことを成就する力があると堅く信じた」のです。そのアブラハムの信仰が「神に義とされた」つまり「神の前にただしいとされた」ことを22節で伝えているのです。

アブラハムが100歳の時与えられた子が「イサク」です。

イサクの誕生は「イエス・キリストの誕生や、復活」を前もって表したものである、とよく言われます。アブラハムが絶望しそうになる中、それでも何とか「信じ抜いた」中で約束の子「イサク」が与えられたのです。

アブラハム自身は、何度も神の前に過ちを犯す「罪人」でしたが、それでも「なんとか神の憐れみと約束にすがろうと、信じ抜いた」ことで「罪人が神の前で義とされた」のです。

つづいて23~24節です。ここは大切ですので、私がよみます。

アブラハムの信仰が神の前で「義と認められた」とのは、ただアブラハム自身のためだけでなく、多くの人のためだったことを示すのだとパウロはいいます。そしてこれはユダヤ民族だけに留まるのではなく「私たちすべてのキリストを救い主として信じる者のためでもあった」と教えます。

どういうことかいうと、「イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた方を信じる」人が、その信仰によって救われるために、「アブラハムは基となった」ということです。

つまり!アブラハムが信じたのは「神が無から有を作り出すお方であること、死者を生かすことのできる方であること」だったとのですが…時代を超え、民族を超えて、同じ信仰を持つなら「私達も同様に神の前に義とされ、復活の命、永遠の命をいただくことができる」ということなのです。

それでは今回の箇所の中心である25節を最後に味わってメッセージを閉じます。

先ほど、「アブラハムが約束をしがみつくようにして信じて与えられたイサクと、イエス・キリストが重なるとよく言われる」と話しましたが…この25節はまさに、そのことをパウロが伝えているのです。

罪人のアブラハムを、その信仰のゆえに「義とされた神は」、無から有を生み出すようにして、イサクをお与えになりました。

同じように、罪人の私達一人ひとりを「信仰のゆえに義とされる神」は、私達が永遠の命を持つために、別の言い方で「この地上で死んだあと、神と一体となって天で生きることができるために」救い主として独り子・イエス・キリストを与えて下さったのです。

「私たちが義とされる」そのために与えられた御子キリストが何を成して下さったのか…それが「私達すべての人間の罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったこと」なのです。 そして神は、その「身代わりとなって下さったキリストを復活させられ、私達もまたそのキリストを信じ受け入れるなら、永遠の命、復活の命を受けることができる」のです。

罪に支配され、霊的には死んだも同然の私たちですが、その罪がイエスの死によって贖われます。そして「復活の力に私達も与ることができて、新しく生きることができるようになる」のです。

このことに希望をおいて生きること、信じ続けていくことが、「アブラハムのように」地上において苦しみの中を歩みながら「確かな約束にあずかること」に繋がるのです。

イエス・キリストを死者の中から 復活させて下さった方が、存在しない者を呼び出して存在させるそのみ力によって「救いの約束を実現して下さること」を信じるなら、私たちもその信仰によって義とされます。

その信仰による義とは、私た ちが良い働きをし、信仰者らしい立派な人、正しい人になり、それに よって自分の救いの確信を得ることではありません。良い働きなど何もない、立派でも正しくもない罪人である私たちが、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦して下さり義として下さる神の恵みと憐れみを受けることによって、やがて完成する神の救いの約束を信じて待ち望む者とされるのです。

そこにこそ、本当の平安と喜びがあり死をも恐れない歩みを与えます。

この後、墓前でお祈りをいたします。 この信仰を生きた先達を覚えつつ、私達も同じ信仰をもち、歩む者でありたいと願います。  (祈り・沈黙)