4月23日 復活節第3主日礼拝
「罪の赦しがあらゆる人々に伝えられる」隅野徹牧師
聖書:ルカによる福音書23:44~53
今年度から、日本基督教団の「聖書日課」に載った聖書箇所から説教箇所を選ばせていただいています。今朝は、選ばれた箇所の内、ルカによる福音書の24章36節からの部分にしました。
36節から43節は、先ほど子どもメッセージで語りましたので、主日礼拝のメッセージは続きの「43節から」ルカ福音書の最後の53節までから語らせていただきます。
最初に、この箇所を読むに当たって「知っておいた方がよいこと」をお話しします。それは「他の福音書」との違いです。
福音書は「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ」と4つありますが、それぞれの著者の「独特な視点で」描かれ、4つの福音書があることで、イエス・キリストがこの世でどのように歩まれたかが「より立体的に」見えるようになっているのであります。
イエスの復活も「それぞれの記者が、それぞれの視点で」描いていますが、しかし「共通していること」があります。それが「復活のイエスが、福音宣教・伝道を命じられた」ことを描いているということです。
その中でルカに独特なのは「復活のイエスが、聖書を解釈されて、弟子たちに大切なことを教えられている」ということです。
先週、こどもメッセージで語った「エマオ途上の箇所」である、ルカ24章27節でも「…そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれてことを説明された」とあります。
今朝皆様と読むルカ24章の44節も、今お話しした「ルカ独特の視点による、復活の主イエスの描き方」が表れている箇所です。早速節を追ってみてまいりたいと願います。
まず44から46節を読んでみます。
復活されたイエス・キリストが弟子たちの真ん中に立って現れて「あなたがたに平和があるように」と言葉をかけられ、実際に焼いた魚をたべて「復活を事実である」ことを示されたあとに、「何を語られたのか」というと、それが44節から46節の内容なのです。
具体的には「ご自身の復活は、旧約聖書を通して、ずっと昔から約束されてきたことなのだ」ということです。イエスの復活の奇跡が突然、起こったことではなく、父なる神が「罪に堕ちた人間を救い出すために、ずっと前から約束されてきたこと」であり、それが成就したことを「聖書を通して」お伝えになったのです。
私はこの部分で特に注目するのが、45節の「イエスは、聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開いて…」とある言葉です。
まず、復活が未だ信じられなかった弟子たちに「聖書を悟らせようとされた」ことが大きなことなのではないでしょうか?
よく「イエス・キリストの復活が信じられない」という方と出会います。そういう方に「科学的根拠」を示そうとしても、それは叶わないことです。
もちろんキリストの復活がなければ、キリスト教が世界に広がることはなかったと教会につながる者は知っています。Ⅰコリント15章にあるように「もし復活がなければ」こうして「日曜日に集まって、礼拝を持つことも、無駄なことだ」と私も同意します。
もしキリストが復活しなかったとしたなら、成り立たないことは山ほどあります。しかし、そのことをお伝えしても「まだキリストを知らない」人が「復活を信じ、その復活のキリストを受け入れる」ということは難しいでしょう。
大切なのは、ここでイエス自らがなさっているように「聖書を悟る」ということではないでしょうか?
ここでの「聖書を悟る」とは…、旧約聖書からはじまる「神が、人を救おうとされた、その歴史の流れを悟る」ということです。
私たちも「イエス・キリストの復活」を心から悟るためには「旧約聖書をよむこと」が大切になるとおもいます。最初は、なかなか意味が分からないかもしれませんが、45節の最後にあるように「イエスご自身が、私たち一人ひとりの「心の目」を開かせてくださると聖書は教えています。
私も、恥ずかしながら、神学校に行くときまで「旧約聖書の読み」が圧倒的に不足していましたが、神学校で「旧約聖書」をしっかりと読んではじめてこころ「心の目が開かれるようにして」、天地創造から、イエスの誕生、十字架と復活が「線でつながって理解できた」のでした。
ぜひ皆様も、ここでルカが描く「復活のキリストが教えた大切なこと」を覚えていましょう。
では残りの時間、47節から53節を味わってメッセージを閉じます。
47節の最後の文から、53節までの内容は、「エルサレムにて、神から約束されたとおりに与えられる聖霊を待ち望むように」というイエスご自身の教えがあったこと、そしてその後イエスが「天にのぼっていかれたこと」です。
これは同じ「ルカ」が書いた「使徒言行録の1章」に、表現の仕方が多少変わってはいますが、「同じこと」として記されています。
また数週後にこの場面について語る予定です。ですので、47節の前半を深く味わいたいと願います。
今回の説教題は47節から取らせていただきました。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる…」これは、キリスト教の教えの中心をなすものです。
キリスト教が「福音・喜ばしい知らせ」として世の人々に伝え続けてきたこととは、「イエス・キリストを神の子・救い主として受け入れた上で、罪を悔い改めるなら、キリストの名のゆえに罪は赦され、特別に永遠の命を得ることができる」ということです。これが2千年の間、キリスト教会が大切なこととして「伝え続け」、今や世界中に「福音」として広がっているのであります。
このことは、イエスが「急に伝えられたこと」ではなく、ましてや「弟子たちが急に考え出したもの」でもないのです。ルカ24章27節は、「罪の赦しを得させる悔い改めが、すべての人々に伝えられる」ということが、旧約聖書からずっと教えられていることなのだ、ということを強く!語っているのです。
旧約聖書の中で「罪の赦しを得させる悔い改めが、イスラエルから世界中に広がる」という「福音」が読み取れる場所はいくつかあります。しかしながら、「最も、それを預言している箇所だとして」聖書注解者たちが挙げているのは「イザヤ書40章」だと言われています。
最後にそこを開き、読んで終わります。(皆様、旧約聖書のP1123をお開けください) (※1~5節をよみます)
3節は「洗礼者ヨハネ、イエスが宣教を始められる前に、悔い改めを教え、道を整えたいわゆるバプテスマのヨハネ」のことが預言された箇所だとされています。
イエスが来られる前に「罪の赦しを得させる悔い改め」のしるしとして「洗礼」を授けたヨハネが遣わされることも、旧約の時代からしっかりと約束されていたのです。
そしてこのヨハネの活動とともに、2節で暗示されているのが「イエスの十字架と復活」により、私達に与えられる「恵み」です。
これによって、イエス・キリストの名によって洗礼を受けるものが、罪の赦しを得て、神・キリストと共に特別に永遠の命に生きる恵みが与えられるのですが、この恵みが、エルサレムからはじまり、世界に広がることが、「ずっと変わらない神からの約束」として記されているのです。
「世界のすべての人が、悔い改めて、罪の赦しの恵みに与る道が開かれる」そして「神の栄光は現れるのだ」ということが、旧約聖書の時代にはっきりと預言されて、それは「その通りのこととして」洗礼者ヨハネやキリストを通して実現したのです。
現代を生きる、私達も「天地創造のときから続く、神の約束のなかに生かされ、また救いの歴史の中に生かされている」のです。
私たちも、今回の箇所に出てくる弟子たちのように「神、キリストによって心の目を開いて」いただきましょう。そのためには…今回の箇所でイエス自らが教えられた「旧約聖書を読むこと」が本当に大切なのです。日々旧約聖書に触れることで、「罪からの救いの約束の奥深さ」を深く悟ってまいりたいと願います。
(祈り・沈黙)