「罪人をも忠実な僕として召される神」11/17 隅野徹牧師

  11月17日説教 「罪人をも忠実な僕として召される神」
隅野徹牧師(日本基督教団 山口信愛教会)
聖書:テモテへの手紙Ⅰ1:12~17

 

 ここ数週、聖書から「神にあっての強さとは」というテーマでメッセージを取り次がせていただいています。
人生の歩みの中で、この先「不安や恐ろしさ」を感じることがあっても、それでよい!ともにくださる「神」に全てを委ねることで、弱い私たちが「強く、雄々しく」歩む希望があることを確認しました。
 先週、今週と引き続き、「新約聖書テモテへの手紙Ⅰの1:12節以下の部分」を取り上げています。使徒パウロから、その弟子「テモテ」にあてた手紙の言葉を通して大切なことを学んでまいりましょう。
 まず初めに、先週あまり掘り下げなかった12節の言葉に注目します。
改めて12節を読みます。
 後半部分に「神の子イエスキリストが、パウロを忠実な者と見なして、務めに就かせた」とあります。だからパウロは自分自身強いのだと言っているのですが…でも「キリストがパウロを務めに就かせるとき、いったいどこが忠実だと見なされたのか?」と疑問に思われ方もあるとおもいます。
 先週もお話ししましたが、13節にある通り、パウロはもともと「キリストを迫害する者」でした。キリストを信じる者を「片っ端から連行する」それこそ「独りの漏れもないように、徹底して根絶する!」という感じでした。
「キリストを迫害する」ということに対しては「忠実だった」パウロ。しかしここで言われているのは、真逆のことです。 迫害を加えていたキリストに対し「忠実な者とみなされた」とは一体どういうことでしょうか?
パウロが何一つ神様に忠実さを示していない時に,いやそれどころか反対に迫害していた,まさにその時!キリストは「一方的」に「パウロを忠実な者」と認めて下さったのです。キリストを否定していた時に,すでに神・キリストの側で,一方的にパウロを御自分に対して忠実な者として認めて下さったのです。
別の聖書箇所を開きましょう。それは「パウロが罪人の自分が一方的に招かれた、神のくすしき恵み」をしみじみと感謝し振り返っている箇所です。新約聖書の320頁 、コリントの信徒への手紙Ⅰの15章3節から10節です。
 復活の主イエスご自身が「迫害者であり、使徒と呼ばれる値打ちのないパウロ」を一方的に招かれた、その恵みでパウロは「神の忠実な働き人となった」のです。自分が「忠実だから働けた」のではなく、ただ「神の恵みによって働けた」と振り返っています。 つまり「パウロが忠実だから選ばれた」のではなく、神の恵みが先にあって、変えられたパウロが「忠実な者」になっているのです。
 これはパウロだけのことではありません。私たち一人ひとりにとっても同じなのです。
みなさん、神に出会う前のご自分を思い出してください。
ご自分の方から確信をもって「キリストを求めていった、近づいて行った」という方は多分少ないと思います。 きっとよく考えたら、神からの一方的な招きがあり、それによって「不思議とキリストに出会った」という方がほとんどだと思います。
 神からの一方的な招き…といっても、それは世で言う「スカウト」のようなものではありません。 タレントやスポーツ選手のスカウトも一方的な誘いによるものです。「何か光る原石」のようなものを、スカウトの方が見出すのですが、それは育てることで、所属会社やチームに莫大な利益をもたらすためです。いわば「将来、益をもたらしてくれそうだから…」という「価値判断あっての招き」なのです。
 しかし、神・キリストの招きは全く違うのです。
「あいつをクリスチャンにすると何か役に立ちそうだから…」とかそういう訳ではないのです。 罪人にすぎない私達。弱く小さな私達…。その本質をすべてご存知で、一方的に招かれたのです。そして「神は一人ひとりを成長させ、整えて、大切な務めにつかせてくださっている」のです。
 ここで私の話を少しさせてください。
 友人などを見ていて「なぜ、あの人ではなく私が招かれたのだろうか? あの人の方が優秀だし、神様のお役にたてそうなのに…」とよく思います。
 確かに私にももともと「よいところ・長所」はあります。でも「長所があったから招かれた」とはどうしても思えません。 自分を深く見つめれば見つめるほど、見えてくるのは「牧師をさせていただくには恐れ多い罪人の性質」です。もっともっと成長の必要がある、神の恵みによって「きよめられる必要がある」と感じざるを得ません。
 現時点で私よりも、人格者で隣人愛に満ちている…という人はクリスチャン以外にもたくさんいます。
 ではなぜ「特別ではない私が、一方的に神から招かれ、そして務めに就かせていただいたのかというと…それはパウロと同じだと感じるのです。そのことがよく表れている16節を読みましょう。
神・キリストは一方的に召した人を,その「召しにふさわしい人に整えて下さる」見本として,パウロを召して下さったのです。つまりパウロは,後に続くあらゆる憐れみを受ける人たちのモデルとなったということなのです。彼ほどキリストに反逆した人はあまりいなかったでしょう。しかし,そんな彼をキリストは捕らえてくださったのです。
キリストを迫害していたパウロが一方的に召され、そして世界に福音を伝える人になったのです。そんなパウロが「モデルだからこそ」私たちは世の多くの人の救いをあきらめずに祈ることができる、と言えるのではないでしょうか。
あの「迫害者であったパウロさえ、憐まれる」のですからキリストの憐れみが届かないほどの人間はいないのです。どんな人にも,このキリストの憐れみが届くのだという見本・モデルにパウロはなったのです。
この「一方的に罪人の自分を招く、神のくすしき恵み」は「パウロ自身にとっても、どれだけ嬉しかったのか」また「原動力になったのか」ということは皆さんも想像がつくことでしょう。
最後に、14節を味わってメッセージを閉じます。
イエス・キリストを信じて,永遠の命を得ようと求めるなら,どんな人にも与えられるという「愛と恵み」ですが,神は「もともと迫害者だったパウロを通して」はっきりと示して下さいました。そして神は「もともと罪人だった私達一人ひとりにも同じことを期待しておられる」と思うのです。
 つまり、私たち一人一人が「罪を告白したり,弱さを告白して,神の救いを感謝している」と証しするならば,それは「神の愛と恵みの深さをパウロのように示すことにもなる」と信じます。
私たちは、武勇伝をしゃべくるみたいに、証しをして「自分の弱さや愚かさ,罪深さ見せびらかす」のではありません。そうではなくて,「こんな者にも神の恵みは届くのだ!」ということを示すために「証しをする」のです。私の弱さによって,神の愛と恵みの豊かさが証しされる…そのために自分の弱さや罪深さが神によって用いられます。
 これからクリスマスです。一年でもっとも「教会に関心を持つ方が増える時期」です。ぜひみなさん、ご自分の証しをしてパウロのように「用いられ」ましょう。今年召された寺本玲子さんは、初めて来られた方に、熱心に「自分が救われた証し」をされました。私達も受け継いでいきましょう。