「自分の栄光を求めるか、神の栄光を求めるか」2/13隅野徹牧師

  2月13日 降誕節第8主日礼拝・信教の自由を守る日
「自分の栄光を求めるか、神の栄光を求めるか」

隅野徹牧師
聖書:ヨハネによる福音書7:10~18


説教は最下段からPDF参照・印刷、ダウンロードできます。

 山口信愛教会では今朝の礼拝を「信教の自由を守る日礼拝」として持ちます。

1967年、日本政府は2月11日を「建国記念の日」として強行制定しました。それ以来、私たち日本基督教団は、2月11日を「信教の自由を守る日」として覚え、「建国記念の日」の祝日に対して異議を訴え続けてきました。

1967年、何があったかというと、時の政府がこの日を敢えて!「建国記念の日」と定め、日本の国が「天皇によって建国された」そして「その国を愛する心を養う」としたのです。

2月11日、キリスト教会ではその日を「信教の自由を守る日」と呼びますが、それは戦時中、キリスト教会が国体に利用され「戦争に加担してしまった」という悔い改めにも基づいています。

また何度かご紹介していますが、「昭和17年に起こった、ホーリネス系教会への特高警察による弾圧」に対し、助けるどころか見て見ぬふりをした、日本基督教団全体の反省にも基づいています。

今年度、山口信愛教会は創立130周年の歩みの中にあって「過去の教会の歩み」をとくに見つめ直した1年でした。林健司牧師による「私たちの教会の歴史」を復刻発行したことによって、「信教の自由とは名ばかりだった」日本の国策の中で苦闘した先人の歩みを見てきました。

今日はメッセージの中で触れている時間がありませんので、お家に帰ってから読み直してくださればと思います。教会創立の前の年1890年に施行された「大日本帝国憲法」の中で謳われた「信教の自由が」いかに欺瞞に満ちたものだったのかが分かりやすく書かれていますので、ぜひお読みください。

世界は今、混沌の中にあります。コロナの世界的流行の陰で、「軍事力に寄り頼もうとする危険な思想」が広がりつつあります。日本も例外ではありません。いつ、憲法が改悪され、戦前のような過ちに走るとも限りません。私たちは、過去の教会の歴史を学んだ者として「祈りつつ、神の御国のために、自分のできること」を探し求める必要があるのではないでしょうか。

そのような中で迎える「2022年」そして「教会創立130周年」の「信教の自由を覚える日礼拝」ですが、順番に読んでいる「ヨハネによる福音書」から、ちょうどぴったりテーマとあてはまる箇所が与えられました。 ともに御言葉を味わってまいりましょう。

先週学んだ9節までの箇所では、「イエスが仮庵祭という祭りの時にエルサレムに上って行くのかどうか」ご自身の兄弟とやり取りなさったことが記されていました。

イエスが「エルサレムに上っていく、そのご自分の時」とは「世の悪を証しする時」であることが語られました。

イエスの兄弟たちは、多くの人がイエスのもとから離れて行ってしまった状況をしっていて、「祭りが行われるこの時に都へ上り、奇跡を行って、人々に注目してもらいなさい。そのことでまた多くの弟子が獲得できるだろうから…」という提案をしました。

しかし、イエスはそのような兄弟たちが勧める「目立つような、一旗揚げるような」そんな形でエルサレムにいかれることはなさらないのです。

兄弟たちが考えるような「多くの人々の前で人気者になる」ためにエルサレムに行かれるのではなく、「世がいかに罪に満ちているのかを証しし、嫌われて憎まれるために」エルサレムに行かれるのです。

あくまで、十字架で救いの業を成し遂げるために、謙遜に、しかし一方で一途に進みゆかれるイエス・キリストのお姿。それは今回の箇所にもよく表れています。 

まず10節から13節を読んでみます。

10節には、イエスが兄弟たちの少し後で、「人目を避け、隠れるようにして」エルサレムに上って行かれたことが語られています。兄弟たちには、「わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」と言っておられたのに、結局上って行かれたのです。

私ははじめてこの聖書箇所を読んだとき「イエス様といえども言ったことと違うことをやっているじゃないか」と思いました。しかし、今は思います。イエス・キリストはこの時「命を狙われている危険を承知で、それでもご自身をお遣わしになった天の父なる神の御心、教えを多くの人に伝えるために、この仮庵祭のとき「密かに」エルサレムに上られたのだと。

イエスが「キリストとして正式にエルサレムに入られる」時が来た場面、それは十字架直前の「ろばに乗ってエルサレムに入城なさる場面」ですが、それと今回の箇所は全く違うのです。

10節に出る「人目を避け」と訳された元の言葉は「はっきり示すことなく」という意味だそうです。つまりイエスは仮庵祭の行われるエルサレムに行ったけれども「イエスは兄弟が望んだような目立つ形ではなく、隠された姿でエルサレムに上られたのだ」ということが語られているのです。

つまりイエスが「救い主・キリストであること」は、この時まだはっきりと示されてはいなかったのです。12節にある、「人々は主イエスについていろいろなことを語っていて、評価が分かれていた」ことも、そのことの表れです。

結局この聖書箇所が何を語ろうとしているかというと、「イエスの時」である十字架と復活においてこそ「イエスが独り子なる神であり、まことの救い主であること」がはっきりと示される、ということです。

私たちも、十字架と復活を見つめることがなければ「イエス・キリストとは誰であるかを知り、信じること」ができません。イエス・キリストにこの世を生き抜く強いリーダー像、指導者像を重ねて見る限り、福音は曲がって理解されることになります。私たちは実直に「十字架にかかり、そして復活してくださった」イエス・キリストを見上げ続けてまいりましょう。

残りの時間、今日の箇所の中心である14節から18節を味わいます。

 14節には、命を狙われているにも関わらず、神殿の境内に上っていって教え始められたということが書かれています。その時のエルサレムの町は13節から分かるように「人々が公然と名を出して語られないぐらいのイエスを抹殺する雰囲気」があったのです。しかし、それでも!力強くイエスは神殿で「教えをなさった」のです。

時がまだ来ていないのに、どうしてそこまでなさったのか…その確かな理由は分かりません。しかし私は今回黙想していて、16節以下にあるように「ご自分をお遣わしになった天の父なる神の教えを、そのまま、しっかりと伝えるため」に、イエスはこの時、敢えて神殿で教えられたのではないかと思わされました。

ヨハネ福音書は、他の福音書と違ってイエスが「繰り返して」エルサレムに行き、大切なことを伝えられた様子を描きます。十字架にかかられる直前の短い滞在だけでなくて、その前に「大切なことを伝えられた」のです。それは「エルサレムの人々を大切に思い、正しい道に立ち返らせたかった」からなのではないでしょうか。エルサレムのために泣かれる場面でもそれははっきりと表れていますが、エルサレムは霊的に荒廃した状態だったのです。その霊的荒廃の原因は何だったのでしょうか。

神の御心を伝えるものとしてイスラエル、もちろんエルサレムに与えられていたのが「律法」です。その律法は代々受け継がれてきましたが、それを人々がどう理解するのかについては会堂で、そして人が多く集まる「神殿」で、律法学者など指導者階級によって教えられていました。しかし、彼らが民たちに教えるその内容は、律法を授けて下さった、天の父なる神の御心とは遠くかけ離れたものだったのです。

18節をご覧ください。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める」とありますが、これは当時、神殿などで律法を教えていた者たちが、自分勝手に教えていた。その目的は「自分が偉く、賢く見られるため」のものになっていたことへのイエスの警告なのだと受け取ります。

さらに15節でもユダヤ人指導者階級が「おごり高ぶっていた」ことが見て取れます。         

彼らは、律法を教えるために、「学問をする」、つまり「律法学者を養成するための学校で学んだ経験が必要になる」という固定観念をもっていたことが分かります。律法をそのまま伝えるのではなく「学校で、だれだれ先生が教えたように伝える」ことの方が大切になっていた、いわば「着色された教え」になっていたのです。

その結果、神ではなく学問をもっている人が称賛されるという悲しい事態がおきてしまっただけでなく、神の律法がねじ曲げられ極めて人間的に解釈されたのです。

一方のイエスは、ただ神の御心をまっすぐに教えられ、そして「ご自分をお遣わしになった、父なる神の栄光」を表されたのです。全く違っています。大切なことは「神の御心である聖書の言葉を真っすぐに受け取ること」そして「栄光はただ神にのみ帰すものである」ということをイエス自ら教えてくださっているのであります。

最後に、今日は信教の自由を守る日を覚える礼拝ですので、第二次世界大戦前のドイツで同じようなことが起こったことを「教訓として」紹介いたします。

ナチス政権は当時のドイツのキリスト教会を策略によって「骨抜き」にしました。牧師や神学者に圧力をかけて、「ヒトラーに栄光を帰す」ようなことを平気で行う一方で、国粋主義によって聖書を曲解させ、ユダヤ人などを虐殺する暴挙を行いました。

「学問をしたはず」の牧師や神学者の多くが、そして「本来聖書の教え、神の御心をまっすぐに解き明かさなければならないはず」の牧師や神学者の多くが、間違いを正さなかったばかりか、「ヒトラーに栄光を帰すために」聖書を間違って教えてしまったのです!!私も牧師として、この過ちを自分のこととして受け止めます。

 私たちは今朝のメッセージで味わったように、聖書の教え、神の教えに「何かを混ぜるようなことをせず」ただまっすぐに受け取りましょう。「自分を偉く見せたり」「人間を褒めたたえること」を止めましょう。そして「栄光を帰すべき真の神」はたったお一人であること。その神の独り子イエス・キリストだけが唯一の救い主であることを、世の多くの人の前で証ししてまいりましょう。(沈黙・黙祷)

 

≪説教はPDFで参照・印刷、ダウンロードできます≫

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