「試練の捉え方」2/4 隅野徹牧師


  2月4日 降誕節第6主日礼拝・聖餐式
「試練の捉え方」隅野徹牧師
聖書:ヤコブの手紙 1:1~8

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 私の感染によって、2週にわたり礼拝を閉じねばならない事態となり、皆様にご心配とご迷惑をおかけしたことを改めてお詫びいたします。また礼拝を閉じる決定をするまでの過程の導きに至らない点がたくさんあり、大きなご迷惑をおかけしたことを重ねてお詫びいたします。 今回至らなかった点については役員会でも検証し、今後に生かしていきたいと願っています。

先週は安岡教会でのご用でしたので、復帰後にはじめて講壇に立つ今日は、示された「聖書日課」のうちヤコブの手紙1章からの部分を選びメッセージを語ることにしました。 

療養期間中に、今日の礼拝説教の準備をしようとして、聖書日課を調べたとき、4か所あるうちの一つであるヤコブ1章の言葉を開いたとき、そのメッセージが胸につきささったような感覚を覚えました。とくに2節です。

「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」

感染による体調不良や、家族との隔離生活による苦しみよりも、「礼拝を開くかどうか」による心の葛藤、またその導きの過程で自分の甘さ、足りなさということを嫌というほど感じさせられる事態となり、私にとっては「大きな試練」と感じる日々でした。

その状態で、この言葉を読んだので「怒りの感情」が反射的に湧きあがりました。「喜べるわけがないじゃないか!」という思いです。聖書の言葉をよんでいて、ここまで怒りの思いを覚えたのは初めてかもしれません。

皆さんはいかがでしょうか?ご自分が「苦しみの最中」だと感じる時、今回の聖書の言葉、ヤコブ1章2節を受け取られたら…。

私たちの人生には苦しみや困難がつきものですが、そういったことに私たちはできる限り出会いたくないというのが本音でしょう。しかし!私たちの気持に関係なく、私たちは苦しみや困難に出会わされます。

その時、私たちは愚痴をこぼしたくなる。だれかに、何かに八つ当たりしたくなる。投げやりになることもある。心が折れて絶望しそうになる。それなのに、なぜ聖書のこの箇所は「試練にあったとき、喜べなどといっているのか!」と思うのが普通ではないかと思います。

しかし…私は気になったこの言葉こそ、「意味があって、今の自分に与えられているのではないか」と思うようになり繰り返し読んでいました。

そして「ここで教えられていることは、実は深いのではないか、私が思っているのともっと違う意味があるのではないか…と思うようになりました。さらに、ヤコブがこの言葉を語る背景や、別のいろいろな箇所との繋がりを調べるうちに「深く、自分の心に迫ってくるようになった」のです。

今日は、私に示された、そのことについて皆さんに分かち合うことが御心なのでは、と考えるようになり、祈りつつ、敢えてこの箇所からメッセージを語ることにしました。

聖書の教える試練とは何でしょうか? そして私たちは試練をどう捉えたらよいと聖書は教えているでしょうか? ともに考えてまいりましょう。

まず、この聖書箇所となっている「手紙」を書いたヤコブという人についてお話しさせてください。

この「ヤコブ」は、イエスの実の弟のヤコブだと言われています。

イエスの兄弟ヤコブは当初、兄であるイエスの活動を快く思っていなかったことが聖書の福音書の記述から読み取れます。しかしそんなヤコブが「イエス・キリストを救い主」だと信じ、受け入れ、エルサレムに誕生した初代教会の指導者になったのです。

このヤコブは「イエス・キリストが伝えた教えを、言葉を変えて同じように教える」傾向があり、この手紙には福音書でイエスが教えたのとよく似た教えが出てくるのです。

このことについては、後程詳しくお話しいたします。

そのヤコブが「離散している12部族の人たち」にあてて書いたのがこの手紙だと1節の内容から読み取れます。この「離散している12部族」は、そのまま「ユダヤ人たちへ」と取るのではなくて、「世界中にいる、新しいイスラエルの民、つまりクリスチャン全体へ」向けて宛てられたと取るほうが、意味が通ると思います。

そしてヤコブの手紙の最大の特徴が「行いの大切さを語っているが、信仰の大切さをあまり語っていない」ように誤解されることが多いことです。

これは当時の初代教会で起こっていた「問題」が背景になっていると言われます。

パウロが教えているように、十字架に掛かり、復活されたイエス・キリストを「自分を罪から救う、救い主だ」と信じるならば行いとは関係なく無償で「罪から救われる」ことは間違いないことです。もちろんヤコブもそれは理解していました。

しかし!初代教会は誕生してまもなく、成熟した信仰に基づくアドバイスができる人が少なかったこともあったからでしょう。

「信じるだけで、罪から救われるのだから、何をしても自由ではないか…」という考えが蔓延し、クリスチャンになった後も「神が悲しむような行いを止めない人」が沢山でてしまったのです。

5節から7節をご覧ください。 ここからは、当時の教会で起きていた問題の一端が見て取れます。

5節に「惜しみなくお与えくださる、神に願いなさい」という言葉が出ます。しかし、その後の6節7節では「疑う者」のことがでています。

これは少し自分の願いと違うことが起きてしまったとき、「神に願う」つまり「祈ることを止めて」不平不満をいったり「神は本当におられるのか…」といった疑いを持ったりした人が多くいたことの表れだと理解できます。

だからこそ、ヤコブは「試練を喜びなさい。試練を通してこそ、神に願い求めること、神に信頼する思いは強くなっていくのだから。だから、神から目をそらすのではなくあくまで忍耐しなさい」と「キツイ」ことばをつかっているのです。

私は…このヤコブが語った背景を心に留めることで「この御言葉の教えに対して、反発する」思いが軽くなりました。

それは「自分が苦しいとき、祈り、神に願い求めること、そして神の御前に出ることは、簡単なことではない…」ということを神が理解して下さった上で、ヤコブにこのことを語らせてくださったのだ…と悟ることができたからです。

私のクリスチャンとしての歩みを苦しめた「言葉」の一つに「あなたはクリスチャンなのにこんなことにも耐えられないのか…試練をよろこびなさいって聖書は教えているのに」とか「あなたはクリスチャンなのに、苦しいことがあったとき、すぐに祈りを止めてしまうんだね…」という言葉がありました。

しかし、今回深くヤコブ1章を読む中で「試練が喜ばしいこと」とだけ教えているのではなく「信仰生活にはどうしても忍耐が必要なことだ」ということばが併せて教えていることに深く気づかされました。

つまり、どういうことかというと…3節で語られているように「信仰が試されることで忍耐が生じる」だからこそ「その信仰が試される、試練を喜びなさい」と教えられているのだと気づいたのです。

もっというなら「信仰が試される試練はとても喜べないだろう。神様はなんでこんなひどいことを…とおもうだろう。しかし、その信仰が試される試練を忍耐して、神との絆はより深くなる。神が与えて下さるものも、より深く、そしてよりはっきりと見えるようになる。だから今はいつか神が喜びを下さることを信じて、ひたすら神に願い求めなさい。」そのように語られているのではないか…と理解し、私の心の荷は軽くなったように感じます。

 信仰生活は楽しいことばかりでは当然なく、辛くて神の前に出たくない、祈りたくない…そのような時があることを神は分かって下さいます。

 その上で「神に向き合うこと、祈ること、礼拝すること」から逃げないで「忍耐」することで与えられる豊かな祝福がある…そのように、ヤコブは教えていると私は確信したのですが、皆様はどう思われたでしょうか?

 さて、先ほど、ヤコブの手紙はイエス・キリストの教えをなぞったような部分があると言いましたが、今回の箇所もまさにそうです。 イエスの教えを読むことで、より深い味わいを得られます。

 皆様、新約聖書のP6 マタイによる福音書の5章を開けて下さい。

3節から12節を読んでみます。

 いかがでしょうか? 今日の箇所のヤコブ1章の教えと重ならないでしょうか?

ある人がおっしゃたのですが、ヤコブは公に伝道を始められる前も、兄弟たちに対し「山上の説教」で教えられたような大切な教えを繰り返し説いておられたのではないか。それを十字架と復活のあと、初代教会のリーダーとなったヤコブは、自分の言葉で「教会に人たちに」伝えたのではないか… 私はこの説はあり得るのではないかと思っています。

 イエスのこの「幸い」の教えは、ただこの地上の世界の「見える結果、報い」をおしえているのではなく、「天の国」という言葉が何回も出てきていることから分かるように、「この世での命を超越した、天での報い」が教えられているのです。そのことを頭に入れて、もういちど今日の聖書箇所であるヤコブ1章にもどり、大切なことをお話しし、メッセージを閉じさせていただきます。

もう一度 新P421をお開けください。

 4節をご覧ください。 ここには「忍耐することで、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と教えられていますが、ただ我慢をかさねることによって、完璧な人格になれるのだ、と教えているのではないことがお分かりいただけると思います。

先ほどのマタイ5章の「イエス・キリストによる幸いの教え」を重ねて、ヤコブ1章4節を読むとき、「何一つ欠けたところのない人になる」というのは「究極的な私たちのゴール」つまり「永遠の命を得て生きる」ということを指していることが迫ってきます。

その永遠の命は、私たちの力や努力で得ることができるのではありません。もちろん忍耐に忍耐を重ねただけで得られるものではありません。 

「何一つ欠けたところのない人」にして下さるのは…私たちがどんなに罪深く、神から目を背けるものであっても、それでも私たちを救おうと十字架にかかり、復活して死の力に打ち勝ってくださったイエス・キリスト、このお方だけです。

私たちはこのキリストの恵みを知っていながら、世の価値観にながされ、神・キリスト以外のものに目が向いてしまいがちです。 順調なときは、神・キリストへの感謝に満ちていても、順調でなくなった時は、神から離れがちになるのが私たちです。

順調でない時、それでも神・キリストに感謝し、賛美しながらいきていくのは「本当に難しい」「忍耐が必要だ」ということを今日の箇所も教えています。

しかし苦しい時でも、「神・キリストから離れず、曲がりなりにも耐えて歩むなら」その先に「天での報い」「永遠の命の報い」があることをぜひ忘れないで覚えていただければと思います。

苦難の多い、この地上での歩みですが、ぜひご一緒に「将来与えられる、豊かな祝福」を見上げて、神から離れず歩んでまいりましょう。 (祈り・沈黙)